2021年09月30日

『日々の聖句』2021年9月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年9月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(水)
主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると     (創3・8)

 アダムとエバに主が会いに来て下さったのに、避けて逃げた。やましい事があったからだ。「これは禁断の木の実だよ」、「はい」という約束を破ったから。それは、人間最初の「神への背き」だった。でも、「主に顔を合わせられない」と、ちゃんと罪を自覚できている彼らを見て思った。それさえも出来ていないのなら、隠れもしないし、背きが他人事になる。それは神との関係も他人事になるのかも、と。
ボクは、どっちに立っているのだろう。


●2(木)
「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」      (ヨシュ6・2)

 神が約束された土地に、イスラエルは進撃する。しかし堅牢な防壁が敷かれていた。誰もが「これは無理だ」と思える状況の中で、指導者ヨシュアが民に進撃の命令を下したのだ。
 人は誰もが自分の経験に照らして、自分の判断を持つ。それは翻せないものだと思い込んでしまう。でも、もう一つの照らすべき基準が、信仰者にはあるのだ。それは神の言葉。確実に実現する言葉だから。私にとっては御言葉だ。御言葉への聴従は「勝利をあなたの手に渡す」と約束を戴いている事と同じなんだ。


●3(金)
あなたの道を主にまかせよ。   (詩37・5)

 聖書を開いたら、詩人の周りには悪だくみをする者達が栄える様子があった。決して平穏無事な中にいるのではないのだ。
 第一印象で、「そりゃみ言葉の言う通りだ、それが信仰の歩みだよ」・・・と思って、すぐにハッとした。だって私はいつも自分の道を自分で企てて、その次に「わたしの道を主が助けて下さい、守って下さい」と祈っていたから、いや願い倒していた、いや命令していたから。
 「私の道を主にまかせる」ために、第一歩から訂正しなければ。「主が企てる計画は何ですか」と、鎮まって聞く祈りから始めなきゃ。


●4(土)

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。    (創1・3)

 天地創造の最初の瞬間だ。
神が、世界を造られる。それは、材料を集めて、組み合わせてつくられたのじゃない。ただおっしゃったのだ、「在れ」と。そうすると、その言葉のままに「在った」のだ。
世界は神の「言葉」で成った。それは、神の「お心」が世界を造ったとも言える。世界の形は、神の御心の現れなんだ! だからなんだ。神は世界をお造りになった後、それを御覧になって「良し(very good)」と言われたのだ。ご自分の思いが、形となって世界に満ちていたから。そして、ボクもその中に入っているんだ。


●5(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●6(月)
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」      (創3・4〜5)

 サタンの誘惑は、いつも同じ言葉でささやいて来る。「自分で好きなようにしたら良いじゃないか。自分の判断で大丈夫だよ。ちょっとやってみようよ。神様のことをよく知っているあなたの判断は、義しいのだから。さあ早くやってみようよ」と。
 今日もささやいて来る。生活の中で、職場で学校で、ダイニングで、台所で。その時ふと、神様不在の時間が出来る。要注意だ。


●7(火)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。          (詩42・6)

 詩人は歌い出す「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める」と。さらに「昼も夜も・・・涙ばかリ」と。悲嘆の底にある詩人。その彼が突然、自分自身に言い聞かせるようにして今朝の言葉を言ったのだ「なぜ呻くのか」と。そして、そう言える唯一の根拠が「神を待ち望め」であった。
 「信じる」とは、「苦難の中で神を思い起こすこと」だと思った。信頼して揺れない事じゃないんだ。嘆きの日はある。呻いて良い。でもそこで神を思い起こすこと、それが信仰なんだ。


●8(水)
民は自分たちを打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めようとしなかった。   (イザ9・12)

 北イスラエルの民が、主に悔い改めを迫られた。それなのに、まだ自分を誇り続け、「神に頼らなくても、自分だけでやっていける」と言い続けたのだ。その報いのゆえに、敵に打たれているのに・・・。
 「主に背いたゆえの懲らしめだ」と分かっても、なお傲慢であり続ける人々。なんという愚かな姿なんだと、憤慨すら覚える。そう思った瞬間ハッとした。主に立ち帰らない姿は、自分自身の中にあると気付いたから。特に、主日以外の平日は、もうボロボロだ、と。


●9(木)
モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」   (民12・13)

 モーセは、自分のため「助けて」と叫んだのじゃない。神に向けて「モーセだけが指導者だなんてズルイ。私だって出来る」と不平を言ったモーセの姉ミリアムのためだった。この不平のゆえに、彼女は神に打たれて、肉が半ば腐って死者のようになった。その彼女のためだ。
 執り成しの祈りって、自分を大事にしてくれる人のピンチのためだと思っていた。でも違う。自分を責めた人のためにも祈るんだ。聖書って、いつ読んでも驚かされる。そして悟らされる、「ボクは心が貧しい人間だなぁ」と。


●10(金)
(モーセは言った)「あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」    (出9・30)

 モーセたちが、エジプトのファラオの前で十の災いを起こす。その恐ろしさにファラオは「わたしが間違っていた」と言うのだか・・・。そこでモーセが答えた言葉がこれだ。
 「悪かった」という時点では、まだ悔い改めたとは言えない。大事な事は、誠に神を主として畏敬する者となるということ。「ゴメン」じゃ「まだまだ」と言われる。「我が神、わが主よ」と告白する者となって、そこを生きよ、とね。


●11(土)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。   (エレ20・9)

 イスラエルの民への裁きの言葉が、預言者エレミヤに預けられた。「罪の悔い改め」を伝えれば、人々から嫌われるのは必定。だから語りたくない。その気持ち、分かるなぁー。
 しかし、エレミヤは語り出す。主の言葉は、抑え込むことなど出来ないから。悔い改めを強いるのは、聞く人には嫌がられるけど、それこそが幸いへとつながる福音なのだから。


●12(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●13(月)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。    (詩4・9)

 詩人は、心安らかに眠りに就こうとしている。平安の中にいるんだなと思ったら、そうじゃなかった。前後の箇所を見たら「苦難から解き放ってください」と叫んでいたから。そんな中で「あなただけがわたしの心に喜びをくださる」と主を求めていた。それは、「アレをしてくれたら平和になれる」とか「助けてくれたら平和」とか、そんなことじゃない。「あなたのが傍に居てくれるなら、たとえ苦難に囲まれていても平和の中」と言っているのだ。
 私も見詰めよう、個々の「御業」ではなく「主ご自身」を。不動の平和に生きるため。


●14(火)
呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。   (エレ4・1)

 「呪うべきもの」とは何? それさえ捨てれば主の御許に居続けられる。そう思って聖書を開いて、分かった。それは、神様以外を求めて頼ること。また、主なる神の御声に従わないことだ、と。
 ドキッとした。御言葉に聴き従わないことを、ボクは軽く考えていたかもと気付いたから。神様の目から見たら、それは「呪うべきもの」で、「お前は、呪われよ」と言われている恐ろしい背きだと気付いたから。そして気付けて良かったと思った。やり直せるのだから。


●15(水)
わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。   (イザ26・12)

 そうか! 自分だけではどこまで行っても「未完成」ということなんだ。だから、出来る限りのことを粉骨砕身頑張って、そのあとは「主よ、お任せします。あなたが修正も、訂正も、完成もしてください」と委ねることが大事なんだ。
 「主よ、あなたの御心は、私が何をすることですか」という祈りに始まり、最後も「主よ、成し遂げるあなたにお任せします」という祈りで締めくくる。私たちの人生って、そんな「祈りの旅路」なんだな。


●16(木)
(主がアブラムに言われた)「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。       (創13・14)

 甥のロトに、先ず自由に土地を選ばせる。すると彼は、肥沃な土地を全部自分の物にしたのだ。アブラハムは「自分は残り物で良い、争いたくないから」と思ったのだ。そのアブラハムに主が祝福して言った言葉がコレだ。「あなたが見る土地を全て与える」という恵みだった。
 人間が見ることと、神が見ることは違う。人は自分の欲を見る、腹を見る、自分の思いだけを見る。それがロトだった。素直なんだけど、御心を生きる生き方ではなかったんだ。


●17(金)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。      (エレ9・23)

 私の祈りはいつも「主よ、恵みを与えてください」だった。願って、与えていただけると思っていたから。でもエレミヤは、そんな私に「違うゾ」と告げる。「恵みの業を行う事は、そもそも主の願い、神の喜びなのだ」と。
 そうか! 人が願う前から、主は与えようと満を持して待っておられる。あなたに必要な物をいっぱい与えたいと待っておられる。だから私の祈りは、「主よ、御心が行われますように。私はただ受け取ります」で十分なんだ。


●18(土)
しかし、お前たちはそれを望まなかった。   (イザ30・15)

 「せっかくの贈り物なのに、お前たちは受け取ろうとしなかった」と言われているような気がする。一体何を望まなかったのだろうかとイザヤ書を開いたら、それは、主を静かに信頼しているなら、それだけで救われるという恵みの贈り物だった。人々は、神を頼っている場合じゃないと焦って、自策に頼って滅びの道に入ってしまったのだ。
 なんて馬鹿なことを、もったいないことを、と思って、ハッとした。自策に頼るのは、私の姿そのものだと気付いたから。その手は、失敗を握っているのに。恵みを手放しているのに。


●19(日)



主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●20(月・敬老の日)
今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。    (サム上1・16)

 男子が授けられず、一族から冷遇されていたハンナ。その彼女に祭司が問いかけた時、彼女が答えた言葉がこれだ。
 きっとその目には涙が溢れ、声も震えていたかも。それでも悩みの深さは、誰にも分からない。しかし一つのことは祭司に分かっていた。彼女は悩み悲しみを神に訴えることを知っている女だ、と。信仰の女だと。
 信仰とは、悲しみのどん底でも、それを丸ごと預けられるお方を知っていること。そこに委ねて生きること。理屈や思想じゃない!


●21(火)
六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。   (レビ23・3)

 主なる神は天地創造の時、六日で世界を造られ七日目に安息された。人も七日目を安息日とする始まりがここにある。しかし信仰の民は、その安息日を、聖なる集会(礼拝)の日と定めたのだ。主の前に集って礼拝することこそが、真に安息できる時だからだ。
 「やっと日曜日、どこに遊びに行こう」じゃなくて、「やっと日曜日、休めるぞ、さあ教会に行こう」とワクワクしなきゃ。だってボクも信仰者だもん。安息が何かを知っているもん。


●22(水)
「そうだ、ここは天の門だ。」   (創28・17)

 兄のエサウを騙して長子の権を奪ったヤコブ。復讐を恐れて逃げた荒野で、御使いたちが天から上り下りする夢を見た。そのとき自分が聖なる場所にいるのだと悟ったのだ。そこで恐れおののいて言った言葉がこれだ。
 大罪を犯して、償いもしないで逃げたヤコブ。そんな彼なのに、なお主が共にいて下さったのだ。罪人を見放さないでおられた主のゆえに。きっと罪を犯した全ての人を、主は追いかけてくださる。それに気付けた時、信仰が始まるのかも。心が自分に向くことから、「そうだ!」と、主に向き変えさせられるから。


●23(木・秋分の日)
わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。    (エレ2・21)

 この御言葉は、子供の非行を嘆き悲しんでいる親の声のように聞こえる。正に、主が民の背信を嘆いている声だ。心が張り裂けるような思いになられて、溜息をつくように、涙をハラハラと流すようにして嘆いておられるんだ。
 主の御言葉に背いて罪を犯すということは、律法的な話しじゃない。親不孝をしていることなんだ。神様不幸をしていることなんだ。天のお父様、親不孝者の私を赦してください。


●24(金)
祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。   (レビ5・26)

 神と民との間に立って、執り成しをする祭司。「主よ、この者の罪をお赦しください。贖いのささげものをしますから」と告げるのだ。すると「責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」と神様が約束して下さったのだ。
祭司の務めってスゴイ! と思った。そして、新約の時代はキリスト者すべてが、その祭司の務めを担うのだ。それが『万人祭司』だ。好きな人、嫌いな人に関係なく、御前で黙々と執り成さねば。タイヘンだ! と思った。


●25(土)
ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」   (創21・22)

 ピコルって誰? 彼はアブラハムが旅路の途中で滞在したゲラル地方の軍隊長。彼は、アブラハムに現れた神の祝福の御業を次々と見たのだ。だからアブラハムと敵対したくなかった。「だってあなたは、神が味方する人。私にも友好に接して欲しい」と思ったのだろう。
 私も信仰者、それは神が味方する者。ならば隣人は私にも、ピコルがアブラハムにしたように接してくれるだろうか。改めて、信じる心だけでなく、生きる姿の総点検が必要かも。


●26(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●27(月)
あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。(ヨシュ1・11)

 出エジプトをしたイスラエルの民が荒野の旅を終え、神が約束されたカナンの土地に入ろうとする直前のこと。モーセの後継者ヨシュアが、民の役人に言った言葉がこれだ。
 よく読むと、気付かされることがある。得られる土地は、自分たちが頑張って取得するというのではない。「主が得させようとしておられる」土地ということ。それはまた、それ以上に欲してもいけないということ。ボクは、あれもこれもと求め過ぎるのかも。主の御思いの中のもので、十分なのに。最善なのに。


●28(火)
わたしはあなたと契約を立てる。          (創6・18)

 主が大洪水を起こされる前に、ノアに「箱舟を造って、あなたと祭司と、全ての生き物のつがいを入れよ。そしてともに生き延びよ」と。これは生き延びるための契約なのだ。
 有難い契約と思って、でもすぐ気付いた。これは契約だから「〇〇したら」という前提がある。それは、晴天の日に大雨対策の舟を造れという命令。人の目には非常識で嘲りとなること。でも信じて従うことが、生き延びる前提なんだ。ボクなら非常識だと嘲られても、主の言葉に従えるだろうか。きっと流されるのかも。そうやって御言葉を軽んじてる。


●29(水)
わたしは初めであり、終わりである。        (イザ44・6)

 「この言葉って、イエス様の言葉じゃなくて、イザヤ書にあった?」と思って聖書を開いたら、御神の言葉を預言者が伝えていたのだ。
 御父も御子も、熱く語ってくださるのだ「世界の初めから、世界の終わりまで私はいる。その私だから、あなたの人生をすべて包み込んで余りある。だからさあ、私を信頼して、生きよ」と。今日改めて、御子のみならず御父からも、一貫して呼び掛けられているのだと知って、何だか心強く思えて来た。天地創造から終末に至るまでを支配されるお方が、私を支えるお方なのだから。


●30(木)
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、…彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。      (創22・2)

 いつ読んでもドキッとさせられる箇所だ。愛息子のイサクを屠って、焼き尽くして献げ物とせよと、神が命令する場面だ。この後に神が、代わりの雄羊をアブラハムに与えると知っているから、まだ安心して読めるのだけど。
 神の命令が、どう考えても理不尽で実行不可能に思える時、ボクならどうするのだろう。愛息子奉献なんて自分には起こらないと言っていられない。正に神の命令は、御言葉において直面するのだから、汝の敵を愛せetc.と。

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