2021年07月31日

『日々の聖句』2021年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年7月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。   (出3・9)

 壮年男子だけで六十万人の民が、エジプトから大脱出した。その大きな出来事が起こった発端が、今朝の一点だった。それは、主が人々の叫びを聞かれたということだ。
 私の声も、主に届いたら必ず救いの出来事が起こされる。聞いた叫びを、そのまま聞き流すことなど出来ないお方だから。それがボクの神様。ボクを守る方。ならば試練にも耐えられる。だって、耐えられなくなったら叫べばいいから、その最終手段を持っているから。


●2(金)
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。   (レビ19・2)

 主なる神がモーセに、イスラエルの民への命令を託す。それは、人々を幸いへと続く道に招き入れるもの。その一つが、この御言葉だ。
 一瞬たじろいだ。だって創造主が聖い方であるのと同じように、ボクも聖い者となるようにということだから。「神の聖さと同じになるなんて無理」と思ったから。でもふと「あなたも天のお父さんの子供だから、きっとなれるよ」と御声が聞こえたようで、何だか心が温かくなった。「そうなりたい」との思いと一緒に。


●3(土)
主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。    (詩41・4)
   
 詩人は、弱い者に思いやりのある人の幸いを歌う。それは、自分が何かしてあげるということよりも前に、その人を主なる神に委ねる祈りとなった。
 ふと思った「祈りもしないで手だけ先に出したから、失敗してきたのかも」と。本当に助けることができるのは、主のみ。主が助けて下さることを求めることが抜けたら、手助けも余計なおせっかいになるのかも。「主のみ」、単純なこの一事が、ボクはいつも抜けるんだよな。


●4(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師




●5(月)
母の教えをおろそかにするな。   (箴1・8) 

 これは「父の諭しに従え」という御言葉とセットで命じられている。そしてすぐに思った「これって、日本でもよく聞く教えだよね」と。さらに、「もう知っているよ、分かった、分かった」と思って、アレッと思った。
 「分かった」で、話を終えちゃいけないんだと気付いたから。実際に行え、と命じられているんだと気付いたから。そして、これって人にとって一番やりにくいことだから、改めて言われなければならなかったことなんだと気付いたから。神様の命令と知っていて、行わないのは大罪だ! 一瞬、ヒヤッとした。


●6(火)
まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。   (イザ30・9)

 「彼ら」とは誰か! 「主の教えを聞かない」のだから、信仰の民とは別の誰かだろうかと思って聖書を開いたら、イスラエルの民だった。その人々が「預言者イザヤの言うことなんか聞かないで、大国エジプトの傘下に入ろう。それが賢い戦略だから」と言っていたのだ。
自分の常識に頼る。そこに神への反逆が潜んでいたのだ。それは私にもある罪への入り口。「主よ、今日をどう生きて、どう歩めばいいですか」と唱えるように祈る者でありたい。


●7(水)
あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。   (ヨシュ1・9)

 奴隷とされていた国・エジプトから、イスラエルの民を率いて脱出したモーセの後継者として、ヨシュアが立てられた。そのとき主が、彼を立てる保証とされたことが「共にいるから」ということだった。
 「神様が共にいてくださって、支え守ってくださるということ。それさえあればボクも前進できる」と思った。でもその後すぐ「あ、待って。でも大変な役目は、できたら申しつけないで欲しいな。だって今でいっぱい、いっぱいですから」って思った。ちょっと情けないかもね。


●8(木)
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。     (申八・二)

 出エジプトのあと、荒野を四十年間さまよったイスラエルの民。その人々が今や、主にいただく土地に入ろうとする時、モーセが告げた言葉がコレだ。それは、人々が生きるための全てを、主こそが備えてくださった日々を思い出せということ。「出来事を思い出せ」、それがモーセの遺言としての命令だった。
 神がしてくださった御業を想起することは大事なんだ。信仰は、御業の想起と一対。信仰は、抽象的な精神世界の事じゃないから。ボクの人生の中での御業の想起を、大事にしたい。


●9(金)
「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」        (出3・7)

 主なる神が世紀の大脱出を計画された。主が、その出来事を起こされた出発点を辿ったら、今日の一言だった。民の嘆きの声を聞かれたということ、その一点だった。
 私の嘆きも、主が聞かれたら、そこにもう救いの計画が始まっているのかも。主の御心は、そこで動き始めるから。それが愛するということの心の動き方だから。ボクもその御心の中に捕らえられていると思ったら、何だかそれだけで、もうホッしてるボクがいる。


●10(土)
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。    (創12・3)

 全人類が、一人の人によって神様の祝福の中に入る・・・そんなすごい人って誰なのかなと思って聖書を見たら、信仰の父祖アブラハムだった。 彼は、大役を任せられたんだ。嬉しくて光栄な役だけど、重責の役でもあるなぁ、とも思う。
そして、ふと思った。「家族の人はすべて、あなたによって祝福に入る、重責だよ」とも言われているんだろうな、と。家庭でこそ、祈りつつ過ごす者でいなくっちゃ。「偽善者、口ばっかりね」と言われないように祈らなきゃ。


●11(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●12(月)
それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。   (士2・18)

 「それは」とは、人々を導くための指導者=士師を、神様が立てて下さったということ。それによって民は、主に従う道を歩めたんだ。
 あ、これって出エジプトの出来事が起こった出発点と同じだ(9日の御言葉)と思った。主が私たちの呻きを聞かれたなら、それは救いの出来事になるんだということ。然り、神は動かれる。すぐに腰を上げられる。私の呻きを緊急事態だとして受け取って下さるから。その主に、今日も見守られているんだ。安堵。


●13(火)
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。    (詩18・29)

 この詩編は、ダビデがサウル王の手から救い出されたことを、主に感謝した歌として読むように勧められている。理不尽に命を狙う敵がいる。その闇の日々に、主が光となっておいで下さる。そして、闇は光に勝てないんだ。
 私たちにも、苦しい日々がある。理不尽だと嘆きたい日々がある。でも、そこに主が共にいて下さることを忘れまい。この詩人の歌を、自分自身の歌とするために。またそこで、落ち着いて闇の中に立てるためにも。


●14(水)
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。 (イザ60・19)

 バビロン捕囚からの解放の希望が、預言者イザヤによって告げられた。それは、昼に太陽が照らす光に、主ご自身がなられ、夜に月が照らしてくれる光に、神ご自身がなってくださるということ。もはや苦難の雲が出ようと、試練の嵐になろうと、かげることなき永遠の光に照らされるんだ。失望の暗闇が退けられるから、という知らせだった。
 ボクを照らす光も、主の光なんだ。闇は光に勝てない。そんな一日を、今日歩むんだ。安心して踏み出そう。主の光の下で。


●15(木)
あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ、わたしが命じることをすべて。 (エレ1・17)

 エレミヤが、神の言葉を預かって語り伝える「預言者」になるべく召し出された。その時に、主が彼に第一になすべきことを命じられたのだ。それは、語り伝える伝令者となること。それも、一言も減らさずに、であった。
 人に語る時に、都合の良いことだけ、受け入れられることだけを語りたくなる。きっと、人の目、人の評判を、気にしているからかも。
 でも、それはしてはならないんだ。神の言葉をそのまま伝えることは、神の命令なのだから。そこにこそ、神の御業が起こるのだから。


●16(金)
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。   (創2・20)

 天地創造の時のこと。まだアダムが独りだった時、神様は彼を助ける者を造ろうと、あらゆる生き物を創造された。でも、どの生き物もダメで・・・、最後にエバを造られたとき、アダムは大いに喜んだのだ。人を助けるのは、人なんだ。人しかいないんだなぁ。
 それなのにボクは、傷つける存在となっていないだろうか。ああ、主なる神の最初の御心に立ち帰りたい。そういう存在に立ち帰りたい。


●17(土)
ベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。   (ミカ5・1)

 神が、救い主を立てる計画を啓示された。それは、立派で力がある者が選ばれるということではなかった。最も小さい者なのだ。その人こそ、神様の御業を担う者とされるんだ。
旧約全体で、主に選ばれる僕は、いつもそうだった。何故だろう。もしも理由があるとしたら、その者の業ではなく、神の業だと分かるため。末席に座る人こそが、名指しされる。神様がじっと見ているのは、その人なんだ。


●18(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師




●19(月)
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。    (申9・7)

 恵によって与えられた出エジプトの後、荒野を四十年さまよった民。いよいよヨルダン川を渡って「約束の地」に入ろうとする直前、モーセが人々に語った言葉だ。それは、神に対して頑なな者で、そのゆえに神を怒らせ続けた者たちであったことを思い出させる言葉だった。
 人々は、自分たちの愚かさをわきまえさせられる。それは、「こんな者にもかかわらず、主はなお恵みを下さる」と本気で分かるため。
 「主に背き続けてきた」、この御言葉はボクにも必要だ。恵みの破格さを知るために。


●20(火)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。   (箴10・19)

 知恵の王・ソロモンの格言集として読むようにと勧められている「箴言」。今日もその一つだ。口から罪が出て来る。口を閉じれば、避けられるんだ。それは分かっている。きっと人は皆、口に出した後で「あんなこと言わなきゃ良かった」と落ち込むことを経験済みなのに、どうしていつも失敗するんだろう。
 その時いつも「私は正しい」という思いが暴れている。それが口から溢れ出る。罪は心で生まれている。そこを悔いねば。それも分かってるんだけど、やっぱりボクの口は開いちゃう。


●21(水)
(主は言われる)わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。   (イザ43・1〜2)

 「まっすぐに御言葉を聴こう。私に語りかけられる神の言葉として受け取ろう」・・・素直にそう直感させられる御言葉が、今朝与えられた。主が私と共に居ると約束しておられる。
今日を踏み出す勇気って、自分の中から絞り出さなくても良いんだ。だって、神様から与えて頂けるものなんだから。でも・・・困難は「大河」じゃなくて「小川」のほうが良いなぁ。


●22(木)
だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら・・・  (王上8・38)

 ソロモン王が、主に向かって願う。その言葉は、「我らの祈りを聞いて応えて下さい」という祈りとなった。そしてその祈り手についてのことが、今日の御言葉なのだ。「だれでも、心に痛みを覚えて祈る人」と。
 「これって、ボクのことだ」と直感した。そして「これは、あの人のこと。だってふさぎ込んでいたから、泣いていたから」と思った。さらに「ああ主は、すべての祈りを聞き届けて下さるのだ。そして応えていただける」と思えたら、もうそれだけで、私も慰められ始めていた。


●23(金)
「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」   (エレ31・10)

 バビロン捕囚の苦難と、帰還の希望を伝えた預言者エレミヤ。イスラエルの民自身の背信によって、異国の地に捕囚となっていく人々。でもその人々を見捨てず、忘れない方がいる。それが、主なる神だと伝えるのだ。
 それも、自分の命よりも羊を大事にする羊飼いのように、人々を守って下さると言うのだ。親の心子知らずのような民なのに守って下さる。主の熱い愛が、エレミヤを通して伝えられる。旧約の中に、ふと福音の香りがした。


●24(土)
(主の言葉がエリアに臨んだ)「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」   (王上17・4)

 数年間の干ばつが来る前に、主が預言者エリヤに言われた言葉がコレだ。カラスが朝夕にパンと肉とを運んで来て養ってくれる、と。
エーっ、烏が養うなんてことに任せ切って大丈夫なの? と思う。でも次の瞬間、「主の言葉が臨んだ・・・ここが大事なんだ」と気付いた。だって、人間の常識に立つより、神の約束こそ、はるかに確かだから。たとえ自分では非常識に思える「烏の給仕」でもだ。故に、御言葉を必死に聞くことこそ、生き残る王道だ。


●25(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●26(月)
あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。  (出16・28)

 出エジプトの後、荒野で飢えた人々が、主からマナを与えられた。毎日荒れ野でマナを拾い集め、六日目には二日分を与えられた。七日目は安息日として何もしないで良いように、神様が配慮して下さったのだ。それなのに人々は、七日目もマナをあさる。どこまでも自分勝手な人々。その不信仰を、主が、「いつまでそんなことを・・・」と嘆かれたのだ。
 主の言葉を信じ切れない事と、自分勝手さは、別物ではない。コインの表裏のように重なっている。主を嘆かせるコインとして。


●27(火)
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。   (詩2・1) 

 「騒ぎ立ち・・・むなしく声をあげる」ということに重ねるようにして、次の節で「主に逆らう」と記されていた。自分の思い通りにすることが、神の御手から逃れようとすることなのだ。神様の言葉を捨てて、自分中心にしたいんだと生きることは、騒々しいだけで、さらに空しいことでしかないということなんだ。
 本当の自由、真に活き活きと生きられるのは、主を慕って従うという場所のみ。それなのに、とんでもない勘違いをしている時があるのかも。そこでなんだか疲弊しているのかも。


●28(水)
泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。     (詩30・6)

 あっ・・・、今朝、この御言葉がストレートに心に沁みて来た。
 日本中、世界中がコロナ禍の中にあって、今、目の前にある苦しみを抱えつつ喘いでいるような日々だから。そこにダイレクトに御言葉が届いて来る。「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と告げられる主の言葉が、光が差し込むように届いて来る。
 そう感じたら、心がフッと緩められたように思えた。試練と苦難に縛られる縄目が、緩んだ気がしたから。


●29(木)
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。   (イザ45・23)

 ついにバビロン捕囚が終わろうとしている。それは、ペルシャのキュロス王によって新バビロン帝国が倒されるからだ。それは、偶然の歴史の展開などではなくて、神の約束の言葉の成就として起こるのだ。
 「必ず実現する言葉」がある。それも、「決して取り消されない言葉」だ。それが「神の言葉」だ。ならば、私には、御言葉を聴き分ける耳があればいい。信仰の耳があればいい。そこに、ボクの将来があるのだから。


●30(金)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。   (詩18・31)

 苦難の日、試練の日に「助けてー」と逃げ込める場所があるんだ。一生懸命やって来たのに全然うまくいかなくて、かえって辛いことになって、もう動けないという時、倒れ込んでも良い場所がある。それが主の御もとなんだ。
 それは一体、具体的にはどこなんだろう。それはきっと、個別の「密室の祈り」の場所。または「主日の礼拝」の時と場所だ。もうボクの周りには、たくさんあったんだと気付いた。そして、その場所が「在る」と知るだけで、ホッとして、今日を進めると思った。


●31(土)
わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。      (エゼ36・26)

 主に対して頑なで、背きを重ね、その裁きのゆえに新バビロン帝国に捕囚とされた人々。しかしその民に、主はなお心を向けられる。
 そしてまるで名医のように、「石の心(頑なで背きの心)」を切り取る大手術をして下さるというのだ。そこに、主の御言葉を受け取る柔らかな心、「肉の心」を移植して下さるために。そこが、新しい霊の宿る場所となる。
心の移植なんて、誰が出来るだろう。しかし決して失敗しない名医がおられる。私は信じてお任せすればいい。心をさらけ出せばいい。「主よ、私を、お取り扱いください」と。

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