み言葉のパンで生きる365日
2021年6月
【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(火)
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 (ミカ7・19)
人々の神への背きは極限に達し、神の怒りを背負った。しかしその人々に、主は新しい約束を語られる。それが、今日の御言葉だ。
赦すということは、神ご自身が耐えられるということなんだ。人間の罪咎なのに、それをご自分で処分されるということ。そして、それをもう思い出さないように海の底に沈めてしまうこと。赦しは、神が苦しむことなんだ。そしてそれが愛だったんだ。ボクも、赦された罪人。それは愛されているということなんだ。
●2(水)
主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命である。 (申30・20)
モーセが、主がご自分の民に結ばせた契約を、再び語り直した。「もしかしたら、これが全契約の中心かも」と思った。この一点に、生活を整えればいいんだ。この一点で良いのに、でも人間は聞き分けがないんだよなぁ・・・。
でも他人ごとじゃない! 私こそ、この一つのことが出来なくて、神関係にも、隣人関係でも迷子になって来たのだから。でも帰る道は分かっている、そうさ、知っているんだ。そう思えた時、もう御声を聞き始めているのかも。
●3(木)
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。 (ゼカ9・9)
捕囚の民に開放の時を伝えるゼカリヤ。でもこの御言葉は、代々の教会で棕櫚の主日(受難週に入る日曜日)に、イエス様がエルサレム入城をされる場面を語る時に取り上げられて来た箇所だ。人々がイエス様を、歓声を上げて「王が来られる」と出迎えるのだ。
然り! 捕囚の民に告げられた神の救いの計画、解放の計画は、御子イエス様によって実現する。神の言葉は、真実な約束だから。私も御言葉を聞いたなら、そこですでに未来が見えるということ。それを信じるんだ!
●4(金)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 (ヨナ4・11)
背きの都ニネベに、ヨナが主の言葉を伝える「あと四十日で都は滅びる」と。でも、神は裁きを思いとどまられたのだ。大いに不満のヨナ。その彼に主が語られたのがこの御言葉だ。
ヨナは知らなかった、神様は罪人をさえ愛されるということを。私も、この神の愛の中に入れられている。ボクも罪人だから。
●5(土)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てる。 (イザ59・1〜2)
預言者イザヤが、背きの民に伝える。神様の助けの手が短いから、あなた方に救いが届かないんじゃない。神の耳が遠いから、あなたがたの願い求めが聞いてもらえないんじゃない。あなた自身の罪が、神とお前とのパイプを詰まらせているからだ、と。
ドキッとした。私も「神様はなぜボクを助けて下さらないのか」と、不平を平気で祈っていたから。「罪を赦して」とまず祈るべきなのに。
●6(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●7(月)
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。 (箴3・5〜6)
「あ、そうだったのか!」と気付いた。今までは単に「神様に頼ればいい」と学んで、でも結局頼らないで来た。その元凶が分かったから。それは、神様にも頼るけど、自分にも頼っていたから。今日の御言葉は、そこを鋭く指摘して来る、「自分の分別には頼らず」と。
一心に御言葉を聞いて、それに賭ける。自己中心の元凶である「自分の分別」を捨て、御言葉を薄めず削らず、そのままを生きよう。神信頼は、人生を御言葉に賭けることなり。
●8(火)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。 (ハバ2・3)
都エルサレムの陥落を目前にする時代。神殿で仕えていた預言者ハバククに主が対話される。嘆くハバククに、義しい裁きと、救いの希望が告げられているのだ。
「遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」、ああ、この御言葉が二千七百年もの時を超えて、そのまま私の心に届く。私の現実の中に届いて来る。そしてこの御言葉が、私の心にも小さな光を灯してくれた。主よ、今朝いただいた御言葉を握って、あなたの計画を待ちます。
●9(水)
わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。 (エズ8・22)
捕囚からエルサレムに帰還した民に、主の律法を諭したのが祭司エズラだ。これはそのエズラの言葉。一読して、エッと思った。敵襲から身を守る術を、放棄しているから・・・!?
続くカ所を読んで、なるほどと納得した。「神を尋ね求める者には、恵みの御手がある」とあったから。でも、実際にこれを求める者はいない。私たちの現実の戦いは、兵を整えないといけないと思うから。その常識を手放すまでは、神様からの恵みは遠いのかも。
●10(木)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。 (ゼカ8・17)
都エルサレムに帰還した民が、喜びつつ神殿再建にとりかかる。その人々に、預言者ゼカリヤが主の言葉を伝えたのだ。それは、バビロン捕囚となった先祖の轍を踏まないための道標だった。
神様の導きとは、とても具体的なんだ。生活の中にある事柄なんだ。それは、一切の咎と過ちは生活の中に起こるから。それも私の中に芽生えるから。その悪の芽を、神は「憎む」と言われるのだ。
●11(金)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)
主の赦しが悪の都ニネベに注がれた。それを知った預言者ヨナが、「私は、主の裁きを伝えたのに、これでは面目が立たない」と怒った。その彼に主が言われたのが、この言葉だ。「罪人を赦したのが、お前には不服なのか」と。
「二言などない神なのに、罪人への義しい決定を覆されるなんて、おかしい。ヨナが怒るのも無理はない」と考えていて、ハッとした。「ニネベの人々よりも、私こそ罪人だ」と気付いたから。裁きを翻した主の恵みは、罪人にだけ分かる恵み。その恵みに、私も生きている。
●12(土)
立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。 (箴1・23)
今朝の御言葉の直前にガツンと、「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着を持つのか」と叱られている。
でも、叱って終わるんじゃない。「立ち帰れ」と言う。聖書って、最初から最後までこのトーンで貫かれているかも。そう気付いたら嬉しくなった。愚かで浅はかなことをしない者はいない、それは私自身だって分かっている。でも神様はそんな私が、ご自分に立ち帰ることをこそ喜んで下さるのだから。天の真の父として。
●13(日)
主日礼拝説教
藤森誠伝道師
●14(月)
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と言った。 (創11・4)
人々は、バベルの塔を作り始める。その目的は「天まで届いて、有名になりたい」ということ。でも「天まで届く」と言うのは、神の座に自分が届きたいということ。有名になるというのは、支配者になりたいということ。結局どちらも、自分が神になるという野望なんだ。
ふと「テッペン取ってやる」という巷の言葉が重なっているように思えて、恐くなった。その言葉を、賞賛する世が、見当違いのことを望んでいるように見えたから。バベルの塔と同じ崩壊の道を、進んでいるように思えたから。
●15(火)
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教えなさい。 (申6・6〜7)
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛せよ」との主の言葉を、心に留めよと言われている。しかもそれだけではない。この命令は、それを子供たちに教えよということだ。
信じる生活というのは、自分の個人的なことだと考えがち。家族は別で良いって思いがどこかにある。よくて「家族伝道しなきゃ」ぐらい。でも神の思いは「自分の信仰」と、「家族に伝えること」は同じ重さなんだ。子供に教えることは必須なんだ。子供も神の宝だから。
●16(水)
わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。 (イザ6・5)
主なる神からイザヤに、召命の声が掛けられた。その瞬間、彼はひれ伏したのだ。神の前に立つ自分は、罪人でしかないことに気付いていたから。その時に言った言葉が、これだ。
「でも、どうして?」と思う。なぜ「汚れた唇」と言ったのだろう。「汚れた心」でもなく「汚れた者」でもない。
もしかしたら、罪は口から形となって出るものだからかも。口が、罪が溢れ出る扉だからかも。そのことって、僕にはすごくよく分かる。私も「汚れた唇の者」だと知っているから。
●17(木)
お前(ダビデ)はわたし(サウル)より正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。 (サム上24・18)
ダビデを妬んで、命さえ狙ったサウル王。でもダビデは、逆襲するチャンスがあったのに、一切、手を出さなかった。それを後に知ったサウルが言った言葉が、コレだ。
「正しくない」というのは、悪意を持つこと。「正しい」というのは、赦すこと、善意をもって接すること。それをサウルは、人生の最終章で悟ったのだ。ボクは、今、御言葉を聞いて悟りたい。悟って、そのように生きてゆきたい。
●18(金)
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。 (レビ19・16)
主がモーセに、「聖なる民となるように」と律法を与える。その中の一つがこれだ。人と人との間におけるあらゆることが、ここに取り上げられていく。
「中傷と偽証」が隣人との間を裂くと、忠告されている。ふと思った、「人と人との間に壁を作ったり、不和を生み出したりする物は、口から出て来るのか」と。かけがえのない友人に対してさえ、この過ちを犯してしまう。御言葉に従えないくらいなら、むしろ貝になりたい。この思いを、忘れないで今日を過ごそう。
●19(土)
主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。 (イザ66・2)
神様に顧みていただけるのは「御言葉を守る人」とか「主に従う人」とか「善意の行いをする人」とかじゃないんだ。主ご自身は、そんなこと一言も言っておられない。
むしろ「ああ私は、御心の通りに歩めない」と悲しむ人。「私はあの人を傷つけ、この人のつまずきとなった」と苦しむ人。「御言葉こそ真実。私の罪に、迫って来る」とおののき、ひれ伏す者。ふと思った、「神様に顔を上げられない時、慈愛の眼差しは注がれているのかも」と。
●20(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●21(月)
あなたの道、あなたの仕業が、これらのことをもたらす。 (エレ4・18)
「エ、なんだか怖い感じ・・・」と思って聖書を開いたら、やっぱり、自分の犯した悪によって、報いとして受ける災いのことだった。
でも、先を読んで気付いた。神は怒って、裁判官のように冷たく言い放っているんじゃない。主は、嘆き悲しんでおられる。私の犯した仕業、道を外れて歩んだ日々について、お心が張り裂けそうになっておられるのは神ご自身なんだ。「ああなぜ、ダメだと言った道を行き、罪を犯したのか」と。深いため息とともに。
悲しませて、主よ、本当に御免なさい。
●22(火)
主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。 (ヨナ1・14)
ヨナが言った言葉だと思ったら、違った!
神の派遣命令から背走したヨナを乗せた船が、嵐に遭う。ヨナが「私のせいで嵐に遭っている。私を海に放り込め」と告白する。躊躇する乗組員。一人の命を海に放り込むのだから。でも、万策尽きた後に、最後に決断したのだ。その時の彼らの言葉が、今朝の御言葉だった。
異邦人が、主なる神に委ねた。それも熟達した信仰者のように。クリスチャンだけが神を知り、信じている人だと思っていたけど、見当違いで、不遜だったかも。傲慢だったかも。
●23(水)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。 (サム上2・3)
これは、ハンナが、念願の息子(サムエル)が与えられ、喜びに溢れて神賛美する歌の一節だ。喜びの絶頂にある歌だ。それなのに何故だろう、手放しに喜ぶどころか、むしろ自分への戒めの言葉のように聞こえる。
もしかしたら・・・人は喜びの絶頂で驕り高ぶる罪の穴に落ちると知っているからかも。だから気を引き締めて、なお主を仰いで自分を律しているんだ。信仰の母ハンナなんだ。戒めの言葉は、他人にではなくて、自分に向ける時に、最大の力を発揮するのですね。
●24(木)
主の山に、備えあり (創22・14)
アブラハムの息子・イサク奉献の場面だ。アブラハムは、神様から一人息子を焼き尽くす捧げ物にするように言われた時、どんな気持ちだったんだろう。やっと与えられた愛息子なのに、「主よ何故ですか」と悶々としたんじゃないんだろうか。それでも、その解決のない心を抱えて、主の言葉に従った彼。小刀をイサクに振り上げた瞬間、主が用意した捧げ物の雄羊を見つけたのだ。その場面の御言葉だ。
結果を知っているから、安心して読める。でも渦中にいたら、ボクはどう生きるんだろう。悶々としつつ、一歩を踏み出せるんだろうか。
●25(金)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。 (コヘ3・20)
地上の限られた命を生きるものとしての人間の虚しさを、突き詰めて示される。それは、塵から成って、塵に返る存在だということだ。
でもコヘレトの言葉は、そこで止まらない。全体を通して告げられていることは、「今という時を喜んで生きよ」ということ。地位や財産や名誉などはかなく消えるのだから、今日の一日を、喜んで食べて飲めと言うのだ。
今朝、主が「今日を喜んで過ごしたらいいよ」言って下さると受け取ったら、清々しい朝になった。他のものへの執着が消えたから。
●26(土)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。 (エゼ34・16)
バビロン捕囚の人々の中で、預言者エゼキエルが主の言葉を伝えた。それは神様からの救出宣言。それも、ご自分が捜し出して、見つけ出して、抱きかかえて家に帰るという宣言。
この神様の姿は、イエス様のあの言葉・・・「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ一〇章)と重なると感じた。羊飼いでいて下さる父なる神の姿は、イエス様に実現したのだ。そう思えたら、旧約の神の言葉は、実現する約束だと思えた。旧・新約どちらも読むことが大事なんだよね。
●27(日)
主日礼拝説教
成智圭神学生
(東京神学大学学部4年)
●28(月)
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。 (ゼカ2・17)
バビロン捕囚の中にある人々に、預言者ゼカリヤが、主からの希望の言葉を告げた。それは、あなた方のために「主が立ち上がられる」という約束だ。それはつまり主である神が、座るべき天の玉座を、降りられるということ。それも私どもの傍に来て下さるために、ということ。一方的で、破格の恵みだ。それを、神に背いた民が聞いたのだ。神の救いの恵みは、本当は畏れ多くて、申し訳ないほどのこと。あ、私もその恵みを受けていた。あの受洗の日に。
●29(火)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。 (ホセ6・3)
北イスラエル滅亡の少し前、主の言葉を語り続けたホセア。「今朝の言葉は、信頼に満ちた信仰告白だなぁ」と思っていたら、全然違った。なぜなら、本来ホセア書は、主を捨てる民の背きの姿が縷々記されている書だから。
聖書を開いて、すぐに分かった。今朝の言葉は、人の口先だけにある言葉だったから。上辺だけで礼拝する人々の言葉だったから。
ギクッとした。同時に「形だけの礼拝でなく、心から主を愛する者でいたい」と強く思った。
●30(水)
わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。 (哀3・40)
背信のイスラエルの民の中にあって、詩人が歌う。「主よ、あなたに逆らって来たのは、私たち自身です」と。しかしその自分の姿を見詰めることが出来て、また受け止めることが出来たからこそ、立ち戻って行く道が分かるのだ。それは、主の元に帰るということ。その道は、一八〇度向きを変えるUターンなんだ。
ああ、それが「悔い改める」ということ。神の御許へのUターンなんだ。それも安心して辿って良い道。それは、主ご自身が喜ばれるUターンなんだから、そこに聖霊の助けもあるよ。