2021年05月31日

『日々の聖句』2021年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年5月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(土)
わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。   (エレ24・7)

 バビロン捕囚の最中。ユダの人々のことを主なる神が心に留めて下さり、預言者エレミヤに伝えた言葉がこれだ。人々が立ち帰るための「心」も彼らに与えるから、と。そして彼らを都エルサレムに連れて帰るのだよ、と。
 背きの民なのに、その人々を諦めないのは神ご自身。神様は、罪人を忍耐されるんだ。諦めきれず、なお救いの御手を伸ばされるんだ。
 もしかしたら、自分に罪人だと烙印を押して罪人に留まってしまうのは私自身かも。主の救いのご熱心にこそ、いざ!飛び込め。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月・憲法記念日)
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。      (代上29・14)

 ダビデ王がエルサレム神殿建築のために、全会衆に寄進を求め、多くの寄贈品が集められた。それを目の前にして、彼は主に祈ったのだ「私はいただきものを、あなたに差し出すにすぎません」と。
 ここに献げ物をする際の心がある。「私の物を神様に差し上げる」ということじゃない。「神様からの預かりものをお返しする」のだ。神の物を神に、と喜んで明け渡す。そんな心の表れにしたいな、ボクの献金も!


●4(火・みどりの日)
人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。   (イザ2・22)

 バビロン捕囚が迫って来る時、主が預言者イザヤに見せた幻が記される。
 右往左往して、それでも主に立ち帰るよりも隣国と同盟を結んで、人間の力で切り抜けようとする人々。亡国のピンチなのに、それでも主の言葉に頼らず自分で計画を思い計る。
「今日の御言葉を、ちゃんと聞けばいいのに!これは、あの人に聞かせたい御言葉だな」と思って、我に返った。これはボクに向けて語られている主の言葉だと、気付いたから。


●5(水・こどもの日)
わが神、主よ・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。   (王上3・7)

 ソロモンが、主によって王に立てられる。その彼に、主なる神が枕元に立って「何事でも願うがよい」と語りかけた。それに応えたソロモンの言葉だ。それは、「王として下さって感謝です」というのじゃない。また単なる謙遜の言葉でもない。彼は自分を知っているのだ。それは、主の前に立つ者だけが分かること。
 ボクも十字架の前に立つ時に、本当の姿を知る。「私は取るに足りない者。それどころか罪人だ」と。さらに「それでも愛された」とも。


●6(木)
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。   (サム上2・7)

 長い間、子どもが生まれずに悲しみの中にあったハンナが、主によって男の子を与えられた。その名はサムエル。その子を主に委ねるために神殿に上り礼拝する中で祈った言葉だ。貧しく過ごした日々を知っているハンナ。しかし満たされた日々も与えられた母ハンナ。全てを主の御手の中に置いて見たら、そこにこの「ハンナの賛歌」が生まれたんだ。
 委ね切る信仰というのは、そこに賛美が生まれるんだ。「委ねてます」と言いながら、しんどそうな顔をしてるのは、何かが違うのかも。


●7(金)
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。      (イザ43・19)

 主は人々に、「捕囚後」に目を向けさせる。そこに起ころうとしている恵みの御業へと心を向けさせる。それは、人間が考えることを超えて、新しいこと。それも、苦難のただ中で「もう芽生えている」と告げられているのだ。
 神の計画が、私にも常にある。それは、私の願うことをも超えた、新しいこと。そして、それはもう始まっているんだ。ああ、今日はなんて良い日なんだろう。その一歩としての一日を歩いていると知ったのだから。


●8(土)
主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた。      (申9・24)

 モーセが頑なな民に向かって嘆きの言葉を吐く。モーセ不在の時に、彼らが小牛の鋳造を作って拝んでいたからだ。彼の嘆きの原因はたった一つ、「神に背を向け続けた」ということなんだ。思い起こしても今回だけじゃない。主の助けでエジプトから逃げ出せた直後から、ずっとだった。
 モーセの嘆きは、主ご自身の嘆き。「お前はどうして私に背き続けるのか。お前を愛して守るのは、この私なのに」と。それは切なく泣かれる神の御声に聞こえた。


●9(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●10(月)
わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。  (エレ32・40)

 バビロン捕囚後の幻を、主がエレミヤを通して約束される。それは、都エルサレムへの帰還。そしてそこで一番大事な賜物について告げられたのだ。それが今日の一言、「あなた方の心を守って、神に従い、神から離れないようにしてあげるから」ということだった。
 それにしても「あなたの心を私から離れないようにするから」って、なんて熱いラブコールなんだろう。その吐息さえ聞こえて来そうだ。そうだ! 神は、生きた愛の言葉を語られる方。そんな方を、悲しませてなるまいゾ。


●11(火)
エジプト人は言った。「・・・主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」  (出14・25)

 エジプト軍が、逃げるイスラエルの民を葦の海の前で追い詰めた。しかし神が海を分けて、乾いた地の上を民に渡らせる。それを追いかけたエジプト人が、主によってかき乱されたのだ。それに直面したエジプト人が、神など知らなかった民なのに、「主が戦っておられる」と震えながら告白したのだ。
 「神などいない」という人々が、神を知る瞬間がある。それは、私が主に支えられて生きるのを見る時。そうか、伝道は、私の生き様にかかっているんだ。大伝道集会じゃないんだ。


●12(水)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。    (箴2・6)

 知識を取捨選択して用いるための「知恵」は、神様からいただくもの。だから、頭を低くして「主よ、御心でしたら与えて下さい」と受け取らなきゃ。
 また、あらゆるこの世の「知識」を得るのも、主なる神から。それも口伝えに与えて下さるというのだ。その方法は、真似をするということかも。主がまず御言葉を通して「人はこう生きるべし」と言われる。するとそのままそっくりに「人はこう生きるべし」とね。何だか師匠と弟子の関係みたい。然り、愛弟子なり。


●13(木)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみなさい。   (ヨシュ1・8)

 モーセの後継者として、主がヨシュアを立てられる。その召命の時、主が彼に語られた言葉がこれだ。神と人との間の大切な約束である「律法」に生きるようにとのこと。幸せへの羅針盤は、そこに記された言葉の一つひとつだからだ。その導かれる先には、神の祝福が待っているんだ。
 その律法は、ボクにとっての羅針盤でもあるよね。だからボクも御言葉を口ずさもう。一歩ずつの歩みを、そこに立たせるためにも。その行き着く先は、主の祝福なんだもん。


●14(金)
富を築く力をあなたに与えられたのは主である。(申8・18)

 モーセが民に、「エジプトの国から救い出されたのも、食べて満足できるようにしてもらえたのも、立派な家を得たのも、全て神のお陰だ」、と告げる。続けて、神様が先に約束を果たされたのだから、今度はあなたがたが、その神に従うという約束を守る番だよ、とも。
 命も衣食住も、まるごと神様のお世話の中で生きていいんだ。でも、ちゃんとお世話して下さる方が誰であるか、知っていることが大事。それなのに民は、主から離れるんだ。どうしようもなく恩知らずだなと思って、ハッとした。自分自身のことだと気付いたから。


●15(土)
わたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。 (出9・27)

 「私が間違っていて、神が正しい」と言えたこの人は、信仰の民じゃなかった。彼は異邦人で、加えて「自分こそが神だ、他に神はいない」と言っていたエジプト王・ファラオだったのだ。
 だからこそ驚いてしまった。一番、主なる神を信じることから遠いと思っていた人からこの言葉が出たからだ。たとえ一時的であったとしても、それはスゴイことだと思った。そして、それは私の友人にも起こって欲しいこととも思った。だってこの一言から、神との関りが、神様から始められているのだから。


●16(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●17(月)
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。    (王上17・16)

 預言者エリヤが、主の言われた通りに、干ばつの日にやもめの家に入って食事を乞うた。家に残った一握りの小麦粉で、パンを求めたのだ。その小麦を使えば、壺の中は空っぽになるのに、やもめはエリヤの求めに従う。それはエリヤが、「主なる神が粉は尽きない」と約束されたと伝えた言葉を信じたからだ。
「信じる」って「言葉に命を委ねて従う」ことなんだ。主の言葉は事実となるーそこに生きる軸を置くこと。心持ちの話じゃないんだ。


●18(火)
助産婦たちは神を畏れていた   (出1・21)

 エジプト王のファラオが、「イスラエル人の生まれた男子は、皆殺しにするように」との命令を出した。逆らうことは、死を意味する。しかし神の民であった助産婦は、「私が神だ」というファラオに言葉よりも、主に従った。その理由が、「神を畏れていた」からだ。
 ボクにとっても主を畏れ敬うことは、この世の権威に倣わず、主の言葉に倣って生きること。でも、この世的な慣習や、世間の目を神としていないだろうか。何を畏れるべきか、もう一度自分に問わねば。それも、あらゆる生活の場面で。世間の常識を神とするな!


●19(水)
苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。   (詩4・2)

 ダビデの詩編として聞くように勧められている。それは、彼が抱えた苦難を想うことが出来るから。愛息子による謀反で命を狙われた苦難だ。その時でもダビデは軍隊を整えたのでもなく、対抗策を考えたのでもない。何よりも主にすがったのだ。面前の苦難においてさえ、主が最善をなさると信じて生きたから。
 私は苦難を前に、すぐに武器を用意しようとする。言葉の槍、論破の知識を準備する。それって情けない信仰だ。苦難の日に、自分の信仰が丸裸にされるような気がした。


●20(木)
「律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」 (申32・46-〜47)

 これはモーセの最後の勧告。つまり遺言。迫力をもって伝えたのは、やっぱり「律法の言葉(神様との約束の言葉)を、しっかり聞いて、そこに生きよ」ということ。「それだけ守ったら必ず幸せに過ごせるから」ということ。これまでも口を酸っぱくして言って来たことだ。
 私もしっかり聞こう。モーセの枕辺に正座するようにして、この大切な遺言を。私も、命を支える御言葉に生きる者となるために。


●21(金)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。   (箴1・15)

 「彼ら」って誰のことかな? 聖書を開いてみた時、ドキッとした。厳しい言葉で「ならず者が誘惑する」と記されていたから。その誘惑も具体的に「一緒に来い・・・我々と運命を共にせよ」と記されていたから。身近に「彼ら」は居るんだと気付かされたから。
 つまり「彼らの道」とは、生活の中で当たり前のように思って来た人間的慣習ことであり、そこに神様がいない場所。そんな場所に、片足さえ突っ込むなと言われているんだ。巻き込まれて、命に関わる大怪我をするから。


●22(土)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。   (創28・16)

 兄を騙して長子の権を手に入れたヤコブ。そのゆえに兄の怒りを知り、命を狙われていると思って逃げ出したヤコブ。逃亡中に、荒野で仮寝する彼の傍に、主が立たれた。その眠りから覚めたヤコブが言った言葉がこれだ。
 「この場所に」という一言が、「自分身勝手な罪で窮地に陥ったヤコブなのに、その傍にも主が立って下さる。この窮地の場所が、同時に主がいて下さる場所なんだ」と思えたら、そこで慰められた。自分のせいで窮地を何度も経験するボクだから。


●23(日・聖霊降臨祭 ペンテコステ)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。   (エゼ33・11)

 捕囚の人々の中にいた預言者エゼキエル。彼が、神の言葉を受け取って人々に伝えた。それも神に背いた人々に伝えた。悪人と烙印を押された人々に、だ。
 それは神様の「お前が生きることを喜ぶよ。立ち帰っておくれ、私の所へ」と告げる悲痛な親の声のように聞こえる。まるでボクへの声に聞こえる。それは同時に「愛してる」って叫ぶ御声にも聞こえた。


●25(火)
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。        (創17・17)

 アブラハムは主から「あなたの子孫は星の数ほどになる」と約束をいただいた。でもその日から二十五年が経ち百歳となっていた。その彼に「約束は本物だからね」という神に、心の中で笑ったのだ。「そんなの無理さ」と。
 彼は、神の約束と人間の常識とを天秤にかけた。そして被造物でしかない人間なのに、自分の常識の方を選んだ。これと同じことを私もしている。主よ、ただ「然り、御心のままに」といつも言える信仰を与えて下さい。


●26水)
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。         (詩27・4)

 「ああ、この詩人のように私も願って過ごしたい。この願いを第一の願いとして生きていたい」・・・そう素直に思えた。
 こういう心で過ごしたら、一日中、心を高く上げていられるだろうから。一日中、目を天の父へと向けていられるから。日がな一日、御心をたずねていられるだろうから。そんな一日は、きっと満たされているだろう、主の平安と、そして祝福に! そう素直に思えた。


●27(木)
主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。   (代下20・20) 

 南ユダが敵の襲撃に遭った。恐れる人々。その時ヨシャファト王は、主に求めることを決意したのだ。その彼に主の言葉が臨んだ。
 主なる神に寄り頼むならば、「生かされる」と記されている。受け身で「生かされる」ということは彼は何もしないのかな?と思って聖書を開いたら、「主が戦う」と記されていた。
 私が今日生かされているというのも、主が戦っていて下さるからかな? きっとそうだ!滅びと死とに戦っていて下さる。今日守られていて、だから今日生かされているんだ。


●28(金)
主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。   (出16・8)

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で「食べ物が無い」と不平を言う。そこで主が、朝ごとに天からパン(マナ)を降らせ、夕ごとにうずらの肉を与えて下さった。その恵みの出来事が起こった原因が、何ということか、主に向かって述べた「不平」だったなんて。
 神様は、人間の不平に罰することで応えられなかった。なお恵みを与え続けられる。こんな不合理なことあるだろうか。そうだ、不合理をさえ飲み込まれる主。大きな愛なんだ。


●29(土)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。   (出13・3)
 
 奴隷の国、エジプトから人々は脱出できた。主の恵みの計画によってだ。神様は「その出来事を記念しなさい」と命じられる。繰り返してその恵みを思い出すために「思い起こす日を設けよ」ということなんだ。
「恵みを感謝」と思った瞬間、すぐ忘れてしまう弱いボク。恵みは、記憶し続けることと直結しているんだ。そうか!生を受けた恵みを記念する「誕生会」も大切な事だったんだな。


●30(日)

主日礼拝説教

         藤森誠伝道師



●31(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。     (ルツ1・9)

 ナオミは夫に先立たれ、息子たちとも死別。嫁たち二人が残ったけれど、一緒に居るより実家に帰そうと決意した。独りぼっちになるけれど、それが嫁たちにとっての最善だと決めたのだ。そして今日の一言を、別れの言葉に添えて伝えた。
 たった一つ残された命綱とも言えるような家族を手放すなんて。天涯孤独になるのに・・・。人は、ここまで人に対して優しくなれるのか。やもめのナオミが、「あなたのため」と決意したことに、優しさが具現化したのだ。
こんな人に、ボクもなりたい。


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