2021年04月30日

『日々の聖句』2021年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年4月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。    (イザ四9・5)

 主の御用のため、困難な使命を受けた預言者イザヤ。人々からの賞賛もなく、理解さえされない働きに就いたのだ。しかしイザヤは知っていた。働きに報いるのは人間ではないことを。報いてくださるのは主だ、と。それゆえに彼は、今朝の言葉を堂々と告白したのだ「主の御目にわたしは重んじられている」と。さらに大声で言ったのだ、「わたしの神こそ、わたしの力」と。
 ボクも、主だけを見よう。そこからこそ安心して御用に就ける力も溢れて来るのだから。


●2(金)
わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。   (エレ32・39)

 この「わたしは」というのは、主なる神のこと。だから、神様ご自身が人々の心の中に、主を慕い、主の道に従う心も与えてくださるということだ。迷い道に入り込みやすい羊だから、自分のしたいことだけ勝手にする頑固な羊だから。私たちの心を柔らかにして、道を与え、心も整えてくださるというのだ。
 ああボクの神様って、なんて至れり尽くせりなんだろう。ボクは相当に幸せ者だなぁ。


●3(土)
主は地の面の全ての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。   (申14・2)

 モーセは民に「自分で自分を傷つけたりしないで」と告げる。その理由が、今朝の御言葉なのだ。つまり「神様が、誰よりもあなたのことを大切なんだと選んでくださったのだから」と。また「それほどに神様の特別な宝の一人ひとりなのだから」ということなのだ。
 私を「宝物だよ」と言ってくださるお方がおられる。私の主なる神だ。どうしてそのお方を悲しませられようか。絶対に嘆かせたくはない、絶対に失望させたくない。こんなにボクを大切にしてくださるのは、他にいないから。


●4(日・復活祭 イースター)

イースター礼拝説教

         辻川篤牧師



●5(月)
「わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」      (エレ7・23)

 神殿の前に立つエレミヤが、主の言葉を民に伝える。それは、幸いを得るために唯一の条件。たった一つの約束事。「主の道に歩むということ」、これだけで良かったのに・・・。
しかし、この呼びかけの直後に、聖書には「しかし彼らは聞き従わなかった」と記されていた。そこには「たった一つの条件だったのに、どうして」という神様の悲痛な叫びが伝わってくる。そして、私はこの「たった一つ」をどう聞くのか。改めて身を引き締めるべきだと思った。幸いから漏れ落ちないためにも。


●6(火)
彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。       (民11・17)

 モーセと共に荒野を行くイスラエルの民が、不平不満を彼一人の肩に集中させた。その重荷に「わたし一人では重すぎます」と主に訴えた時、主なる神は彼を支える七十人を立ててくださったのだ。そこにに、モーセと共に共同体を背負う同労者集団が生まれた。
 教会も同じような気がする。奉仕は一人でしちゃいけない。不満を共に負う者こそ、主に立てられた人。だからどんな奉仕も、その兄姉を祈り求めることから始めなきゃ。


●7(水)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。   (詩55・23)

ダビデの詩とされている。それも、自分の命を狙う敵に追い詰められているときに歌った詩なのだ。死が目の前に迫って来ていて、しかもその敵は以前親しく交わりを持っていた友なのだ。
身体も心も追い詰められる苦しみがある。その重荷を抱えたダビデは、その重荷を降ろすところを知るのだ。それは、主なる神の御手の中。ただ主お一人が、真の支え手なのだから。この一点で、彼は危機のただ中を進む。勝利はまだ見えなくても、前に進めるんだ。


●8(木)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。       (創39・23)

 兄たちの謀略によって、エジプトに奴隷として連れて来られたヨセフ。ファラオの宮廷侍従長の家で働くことになるが、そこでも主人の妻に言い寄られ、拒絶した途端に監獄行きに。どんどん事態は悪化するように見える。しかし不思議に、どの時も切り抜けるのだ。それを端的に告げたのが、今日の御言葉だ。
 ヨセフにはこれ以上の苦労はない人生に思えるけれど、見えない御手に支えられている。何だかそれを思ったら、「私もかな?」と思えてホッとした。見えない御手があるんだ、と。


●9(金)
わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると、万軍の主はこう言われる。    (ゼカ1・16)

 時は、バビロン捕囚からエルサレム帰還へ移ろうとしている。そのとき主なる神が、そこでも先頭に立つと宣言してくださったのだ。一緒に帰還への道をたどってくださる。再建の歩みも御手を添えてくださるのだ。
 希望を与えるのは、主なる神。さらにその希望を実現してくださるのも主。至れり尽くせりで添い歩きしてくださる神様なんだ。
 あっ、生きる術を見つけたり! それは、このお方から離れない事。それは間違いない。


●10(土)
主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。   (士4・14)

 女預言者デボラが、イスラエルを導く士師となっていた時代のこと。九百両の戦車を率いた軍勢を目の前にして、司令官バラクに告げた言葉がこれだ。
 改めて、「勇気って、どこから出るのか」と思う。それは、勝算があるか否かかじゃない。自分の能力によるのでもない。ただ一つのことから来る。それは、主が先立ってくださっているかどうかだ。ならば勇気は祈りから来る。「私は進んで良いですか? そこへとあなたが導いておられるのですか」と問う祈りから来る。


●11(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●12(月)
あなたたちの神、主はこの土地をあなたたちに与えて、それを得させてくださった。   (申3・18)

 ついにイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って進撃しようとする直前のこと。まだ戦いが始まってもいない時に、主なる神が「勝利宣言」を、モーセを通して与えられたのだ。
 「主は、それを得させてくださった」と、未来に起こることが、まるで既に起こったことのように告げられている。それが、神がなさる約束というものなのだ。主の言葉は、必ずこの地で実現するから。ならば、御言葉に一切躊躇せず従おう。その先に、御言葉の実現を戴けるのだから。そこへと、まっしぐらだ!


●13(火)
わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。   (マラ3・20)

 「終末の日」を「審きの日」として、預言者マラキが語る。高慢な者や悪を行う者が、燃え尽くされる日となる、と。なんだか「終末」って怖いかも。でも同時に彼は告げるのだ。主なる神を畏れ敬う人には、明るい太陽が昇る日となると。親鳥の翼の下に雛が包まれるように、主に従ったゆえの傷はそこで癒されるよ、と。
アッと気付いた。「終末の日」は、「救いの日」なんだと。今日の歩みを、お前はこっち側に進む人になれと、招かれているんだ。


●14(水)
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。    (ヨブ30・20)

 試練の中にあり、友人たちからも批判されるばかりのヨブが、主に向かって嘆きの声をあげた。その嘆きの中心は、自分がどんなに辛い目に遭っているかということじゃなかった。嘆きは、「神の沈黙」にあったのだ。
 どんなに苦しい日でも、天の真の父が、ちゃんと自分の苦しみを知っていてくださるって分かっていたら、耐えられもするよね。でも、ボクは知っている、この「神の沈黙」の辛さを。


●15(木)
あなたが呼べば主は答え、あなたが呼べば「わたしはここにいる」と言われる。  (イザ58・9)

 主なる神が、「ご自分に従う者の姿」を告げられた。「ああ、なんて嬉しい御言葉だろう」と思う。昨日は「神の沈黙」の厳しさを思わされたばかりだから、余計に嬉しい。
 でも「ちょっと待てよ」と思った。私はちゃんと神様を呼んでいるだろうか、と。自分一人でジタバタしているだけかも。更に悪いことに、何かあっても主を呼ばず、自分の経験に頼り、もっと悪いことに他の力を頼ろうとする。神様が最後になっている。改めて自分に言い聞かせねば「今朝の御言葉を生きよ」と。


●16(金)
あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。   (サム下7・29)

 ダビデ王が、主の前に出て祈った祈りの締めくくりの言葉だ。祝福と長寿を願いつつ、その賜り手にちゃんと顔を向けている。さらに願いのゴリ押しもしない。それは、主の計画が最善だと、委ね切れているから。
 ダビデは、主が「祝福あれ」と言われれば、祝福が生まれると信じている。なんという信仰だろう。まるで天地創造の時「光あれ」と言われて光があったことを、そのまま自分のこととして受け止めている。なんという信仰だろう。


●17(土)
長い年月、あなたは忍耐し    (ネヘ9・30)

 時は、捕囚から帰還後。ペルシャの国で仕えていたネヘミヤが、エルサレムから来た同胞が都の悲惨を嘆くのを聞いて、祈った言葉だ。この「あなたは忍耐し」とは、その人々のことだと思っていたら違っていた。聖書を開いたら、忍耐したのは神様だと知って、ビックリした。
 主の霊を送り続けたのに、耳を貸さなかった人々。しかし報いを負わせずに、なお忍耐されたのだ。それが、主の憐れみと恵みだったと記されていたのを知って、二度驚いた。憐れみと恵みって、主の忍耐のことなんだと分かったから。私の罪も、主は耐え続けていてくださる。


●18(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●19(月)
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。   (詩3・4)

 息子アブサロムの反逆で、命まで狙われたダビデ王。周りからも「ダビデに神の助けなどあるものか」と嘲られる。しかし目の前にある絶体絶命を前にして、その只中で彼は、今朝の言葉を告げたのだ、主に向かって!
 心を高く上げたダビデ。万策尽きたと見えても、一策在り。それは、主を頼ること、神を信頼すること。いやそれこそが人間の万策に優るのだ。私もこの御言葉をなぞって祈ろう。そうやって今日の一日を始めよう。


●20(火)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。       (民27・17)

 老齢となったモーセが、後継者を主に願う。それは人々を愛する故。加えて、その人々がどんなに自分本位で生きてしまうかを知っている故。さらに、主なる神が相応しい人を選んでくださるのだと信じ切っている故。さらに、主に選ばれた人も、良き主の僕となることを確信していたからなのだ。
 「隣人を愛する」って、私とあなたの繋がりで考えることじゃないのかも。私と神とあなたという三角形の関係で考えることなんだ。いつも神様抜きにするから、失敗してたのかもね。


●21(水)
友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。     (箴3・29)

 ソロモン王のもとに集まった知恵の言葉集である『箴言』。ドキッとするものが多いけれど、今朝の言葉はとびっきりドキッとさせられた。御言葉が私の内心を突いていたから。
 友人に対してなのに、不信が起こり、不満がたまって、悪意が動き出す。悪意は、さらなる悪意を育てて、大きく膨らんでいく。しかし友は、そんな私に対しても、全く今まで通りに安心して傍に居てくれるのだ。その友への悪意って、裏切りそのものだと気付いた。悔い改めるべきは、我にこそ在る。


●22(木)
神に従う人の道を主は知っていてくださる。    (詩1・6)

 「いかに幸いなことか」と始まる詩編第一編。これは一五〇編ある詩の最初の歌だ。そこに、「神に従う人」と、「神に逆らう人」のことが歌われるのだ。もちろんこの詩人は、従うことへと強烈に招く。そこに幸があるからだ。もしかしたら、詩編全体で言いたいことの要約が、ここにあるのかも。
 きっとそうさ! 主に従う人の道をこそ、神様は見守って、支えてくださる。そのことを真っすぐに伝えているんだ。その道の上に、幸いが無いはずがあろうか。ボクもその道を行かん! 寄り道もせず、迷子にもなるまい。


●23(金)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。        (コヘ3・1)

 コヘレトの言葉(口語訳では伝道の書)の中で、一番よく知られた御言葉の箇所かも知れない。三章から「何事にも時があり」と始まって、生も死も、喜びも悲しみも「定められた時がある」と告げるのだ。それも、それを定められるのは神だと悟らせようとする。つまり、御手に委ねて思い煩うなということだ。
 ふと、今年の主題聖句を思い出した「主において常に喜びなさい」だ。そこに通じているなと思った。心穏やかに委ねられたら、思い煩いも緩められ、奥の深い喜びに生きられる、と。


●24(土)
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。   (箴30・8)

 昨日に続いて、今日も旧約聖書にある知恵の書の中の一つ、「箴言」からの御言葉だ。
 ふと「分相応」という言葉が浮かんだ。でも聖書も、そんなことを言うのだろうか・・・。聖書なのに、この世の格言と同じなのだろうか。
 あっ! 違うぞ。全然違う。私に定められた「分」は、人が定めるのではなくて、神様なのだから。「私の持ち分は、お金や養いのことさえも、神に委ねます」と言っている信仰の言葉なのだ。そこに立てたら、安心があるんだ。


●25(日)

主日礼拝説教

         藤森 誠



●26(月)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。      (創19・29)

 ソドムとゴモラの町に悪が満ち、神が裁きを決められる。でも、アブラハムが執り成すのだ。それによって、その街に住んでいた甥のロトは、救出されることになる。
ロトの救出は、彼自身の祈りの熱心さや、信仰によるものじゃなかった。アブラハムの執り成しによったのだ。「執り成しの祈りは、なんて大きいのか。神の決断さえも揺り動かすのだから」と思った。祈りを聞いてくださる神様の御心は、深く広い。だから私も懸命に執り成そう。そうしたい人が、いっぱいいるから。


●27(火)
彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」   (代下20・21) 

 主と共に歩んだ南ユダのヨシャファト王。主が命じた戦いに出るとき、彼がしたことは、武具を整えるより、まず主をたたえる者を選び、軍隊の先頭に立たせて御名を賛美させたことだ。「主が行けと命じた時は、既に勝利は約束されたり」と知っていたから。ゆえに人間がすべき残されたことは、賛美のみだ、と。
 私も主の命令を聞くことに敏感でいたい。然り、御言葉こそ命令。それも、従う先には勝利アリ! 顔を上げ、主をたたえて従おう。


●28(水)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。    (創15・6)

 アブラハムは、神様から行く先も知らない場所へと旅立つように促される。それは恵みの計画だからという約束を「信じた」からだ。神は、その「信じた」ことを指して、「お前は義しい人だ」と認めてくださったのだ。
 あっ、義しい人になるのは、一生懸命に聖書の言葉通りの行いをすることじゃなかった。神様の言われることをそのまま信じることだ。ただその一つなんだ。今までちょっと勘違いの信仰生活をして来たかも。やっぱり行いも大事だと、何となく思っていたかもね。


●29(木・昭和の日)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」   (創18・32)

 あれ、数日前もソドムとゴモラの箇所だったような・・・。確かアブラハムが、悪が満ちるこの町を神様が滅ぼすと裁かれたとき、執り成したのだよね。「正しい人が十人いたら滅ぼさないで」と。それに応えられたのが、今朝の主の言葉だ。相手の幸のための執り成しは、神の決定さえも覆るほどに大きいんだな。
 あ、もしお互いの幸を執り成す祈りをする家族だったら、その祈りは聞かれ、家全体が幸福に満ちるんじゃない? すごいことに気付いちゃったかも。神様、それで良いのですよね。


●30(金)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。  (エゼ11・19)

 捕囚の人々の中から、主が預言者エゼキエルを選び立てられた。そして伝えたことが、これなのだ。人々が主に従う者となるように、頑なな心を捨てさせて、柔らかい心を持たせるよ、と告げられたのだ。
 今まで、主に従う従順な心は、自分で培うものだと思っていた。それが信仰者だと。でもちょっと違ってた。柔らかな心も、神様からの戴きもの。主は心さえも備えてくださるから、それを渇望して、ただ戴く人が信仰者なんだ。ああ、すべてが一方的な恵みなんだな。


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