2021年03月31日

『日々の聖句』2021年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2021年3月

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)


●1(月)
(ソロモンは主に答えた)「善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(王上3・9)

 主なる神から賜物を戴ける。なんでも良いから一つ叶えようと言われた時に、ソロモン王は今朝の一言を願ったのだ。
 何でも叶うのに、今朝のこの一言を選んだソロモン。「ボクなら何を願うだろう」と思い巡らして、幼い日なら「大金持ちになりたい」と思うかな? 老いた日には「特にもう何も要らない」と思うかな? そんなこと考えていて、アッと思った。どちらも、信仰生活を脱線してるのかも。やっぱり、ソロモンはすごいな。


●2(火)
わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。  (エレ31・13)

 神への背きのゆえに起こったバビロン捕囚。しかし悔い改めの後に、神様が計画してくださっていることを、預言者エレミヤが伝えた。それは、散らされた民の帰還だ。悲しみの日々から、喜びの日々への帰還だ!
 ふと思った「苦しみの日々は、喜びの日々へとつながってゆくんだ。苦しみのまま終わらないんだ。それが主の御心、そして計画なのかも」と。そうであるならば、今日を耐えて進んでみよう。ここも神の計画の中と信じて。


●3(水)
心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。     (申4・29)

 偶像礼拝に対する禁止命令の文脈に、この御言葉はある。「一心に求めたら、必ず出会えるから。だから自分で作った偶像へ迷いだす必要はないんだよ」と告げられているのだ。
 なんだか「私の方こそ、あなたと出会いたいと熱望している神なんだからね」という神様からのラブコールのようにも聞こえてくる。ちょっと嬉しい。いや、それが天地創造の神からのラブコールなら、畏れ多くも有難い。そのお心に応えて歩かねば。それは、心を尽くして主を呼び求める祈りから始まる気がした。


●4(木)
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」     (サム上3・10)

 少年サムエルが、夜中に主から呼びかけられた。そのとき起き上がって神に応答した最初の一言がこれなのだ。
 私たちも祈り始めたとき、神様と差し向かいになる。その時に先ずすべきことは、サムエルのこの応答なのかもしれない。それなのにボクは、どうしてもお願い事を早口にまくしたてそうになる。でもそれを横に置いて、言うべき言葉はココにある。「しもべは聞いています。主よ、どうぞあなたからお話しください」と。その時、そこに御心が伝えられるのだから。


●5(金)
目があっても、見えず、耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ敬いもせず、わたしの前におののきもしないのかと主は言われる。  (エレ5・21〜22)

 預言者エレミヤが、背きの民・ユダ王国の人々に向かって主の言葉を伝えた。
 ふと思った「私も聖書を通して御言葉を見ている。神の言葉として聞いてはいる。でも、周りの人から見られたら、まるで見もせず、聞きもしない人の姿として生きているのかも」と。エレミヤの言葉は、ボクへと向かっている。これは、ボクへの神様の嘆き悲しみだと思ったら、胸が苦しくなってきた。申し訳なさに・・・


●6(土)
多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。   (ゼカ2・15)

 捕囚の民に喜びの知らせが届く。それは、単なる捕囚からの解放ではなくて、神が再びあなたの只中に一緒に住まわれる、という知らせ。いやそれだけに留まらず、全ての隣人も神のもとに集う日が来る、という希望だった。
 いつも自分のことだけ考える私。救いのことだって・・・。でも神様は、全ての人の救いを見ておられる。ボクの隣人全ても、神の大切な一人一人だから。ああ、その神様の喜びを、私の喜びにして生きていたいな。


●7(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。   (出25・8)

 荒野を四十年も彷徨うことになった民。その人々に神様が、一緒に居たいと願って下さって、幕屋建設(礼拝のための聖なるテント)を、細かく教えて下さった。そのただ一つの御心は「彼らの中に住みたい」ということだった。
 神の御心は、天地創造の時から一事だったのだと、改めて思う。それは「あなたと居たい」ということ。さらにそれがインマヌエル(神は我々と共におられる)の主の降誕となったんだ。あれ、今、凄いことに気付いたのかもね。


●9(火)
なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか。   (ヨブ24・1)

 神から「彼ほど無垢で正しい人はいない」とまで言われたヨブが、激しい試練の中で叫びを上げる。友人からも「自業自得じゃないのか」と責められ、悲しみを神に向けて叫ぶ「どうして神様をこんなに愛している私なのに、私は神様から愛されていない者のようだ」と。
 彼の一番の嘆きは、隣人の無理解じゃなかった。やっぱり神様との関係。そこに覆いが掛かっているように思われた時、いたたまれなくて叫んだのだ、「辛い」と。この一途さが、無垢で正しいということなのかも。


●10(水)
我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。   (出16・7)

 人々の心の中には不平の塊がある。それが、エジプト脱出後、彼らが自分中心の欲望から上げる言葉となった、「あれが無い、これも欲しい」と。彼らには、神への感謝がない。あんなに辛かった奴隷生活からの解放だったのに、もう神の救いの業を忘れて、「食い物をくれ」と叫ぶのだ。
 あれっ、これってボクの姿かも。今日も朝から「あれが無い、これも欲しい」って言っているから。「アレもコレも整えられました。感謝です」って祈ってから今日を始めなきゃね。


●11(木)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。    (イザ55・7)

 神は「わたしに聞き従えば、豊かさを楽しめる。わたしのもとに来るがよい、聞き従って魂に命を得るんだ」と、くるおしいほどに人々を求めて下さる。それも、背きの民に向かってだ。「背いて離れたけど、戻って来たら良いから、それだけで良いんだから」と。
 愛されることと、赦されることは、同じ地平にある。ただ神お一人、それを担って下さるんだ。その呼び掛けの中に、私も立っている。


●12(金)
さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。      (創8・16)

 大洪水の後、やっと水が引いた。その時に主がノアに言われた促しだ。それは「皆一緒に、大地を踏んで進め」という招きだった。
 全ての人と一緒に出発することが大事だと主は言われる。無垢で正しいノアだけじゃない。失敗もし、仲違いもあるし、すれ違いだってある欠けばかりの人間同士だけど、それでも一緒に歩むようにと言われている。気の合う人同士だけじゃないんだ。そして、それが新しい世界への出発だからと促されている。神様の願う世界を、垣間見た気がした。


●13(土)
神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。  (エズ8・21)
   
 ペルシャ王の布告によって、バビロン捕囚から都エルサレムに帰還する民。そのとき祭司エズラが祈ったのだ。それは、民の一人ひとりのために、そしてさらに持ち物のためにだった。
 エッ!「持ち物のために」祈ったの? と思った。全てのことのために祈るって、そこまですることなんだと驚いた。でも、そこまで神に委ねたら、すべてのことに満ち足れる平安がいただけるのだ。ああ、ボクの祈りも今日から変えよう、その平安が欲しいから。


●14(日)


主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。        (箴17・27)

 知恵の王ソロモンの箴言と言われ、親しまれて読まれて来た。ここには古今東西の知恵の言葉が詰まっている。その中でも繰り返し言われるのが「口を制すべし」だ。
 確かに、人との間に裂け目を作るのは、口から出た言葉だ。それは「私は口が悪い性質だから、大目に見て」なんて言っていられない。人を傷つけて平気で良いはずはないから。知恵においても、わきまえの無い人だと言われている。でも箴言にあるというのは、古今東西こんな人が多いんだろうな。あ、ボクのことか。


●16(火)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。    (ヨナ2・8)

 自分勝手をし通して窮地に陥ったヨナ。嵐の海に放り出され、大魚に飲まれて腹の中。三日三晩の後に、とうとう祈り出したのだ。そして、自分の愚かさの故の窮地だったのに、そんな者の祈りでさえ、神には届くのだ。
だから、もしかしたら人間の最も大きな罪は、祈らないことかも。だって、自己中心の罪にまみれた者の祈りさえ、神様は待っていて下さるのだから。その御心をさえ無視してしまうことが、祈らないことなのだから。


●17(水)
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。   (箴19・21)

 人間の想い計らいは挫折を含み、多くが思い煩いにもつながる。でも時を得て実現してゆくのは神のご計画なんだ。そうであるなら、私のすべき計画はこれで良い「主のご計画を悟る人になれるように。そしてそのご計画の成就に向けて、歩める人となるように」と。
 然り、私の人生の計画は、信仰から信仰に至り、ついには御国に入ること。その一本道を行こう。そこには平安があり、思い煩いはないから。それ、いいじゃない。


●18(木)
信じなければ、あなたがたは確かにされない。   (イザ7・9)

 ユダ王国に、隣国アラムとエフライムが同盟して攻めて来るとの知らせが届いた時、王も民もうろたえた。そのとき預言者イザヤが「落ち着いて、静かにしていなさい」と告げたのだ。それでも忠告を聞こうとしない王と民。目の前のことで、信じるより恐れることが上回ったからだ。そして告げられたのが今日の御言葉だ。
 信じるか、信じないか・・・それは、生きるか、滅びるかの分岐点なんだ。信じることは精神論どころの話じゃない。現実に直結している重大事なのだ。


●19(金)
わたしはお前の罪を取り去った。晴着を着せてもらいなさい。   (ゼカ3・4)

 ペルシャによるバビロン捕囚解放で、人々は都エルサレムへの帰還の希望を聞くのだ。そこで改めて預言者ゼカリヤを通して知ることは、「自分の罪のために報いを受けた。でも赦された。そこに回復が起こった」と。
 なんだか神様の声が優しく届くようだ「ゴメンねって言うあなたよ、もう良いよ。悔い改めたならもう良いから。同じ罪を犯さないでね。さあ、晴れ着に着替えて、ご飯をぎょうさん食べて、歩き出せ」とね。品行方正の義人よりも、悔いた罪人に、もっと優しい御父なんだ。


●20(土・春分の日)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。   (詩10・1)

 神に逆らう者たちの手によって、この詩人は苦しめられている。その手に陥り、倒れて、うずくまっている。でも詩人はその時、敵対して争うのじゃない。反論をまくしたてるのでもない。武器を取るのでもない。辛さを訴えたのは、神になのだ。それが義しい人の在り方。それが、主に寄りすがる信仰者の姿なのだ。
 真の正義は「自分の手にある」とせず、「すべて主の御手にある」と生きる。訴えは敵にではなく、主へと向ける。そこにこそ、恵みの御業も起こるのだから。


●21(日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。      (民14・41)

 モーセに率いられて荒野を渡った民が、いよいよ約束の地を目の前にした。その時人々は、主に聞こうとせずに、自分で自分の能力を計って進撃の計画を立てた。その人々に、モーセが嘆きつつ忠言したのが、今朝の言葉だ。「立ち止まれ、まず主に聞くべきではないのか。従うべきではないのか」と。その声さえ無視した人々は、進撃先で全滅するのだ。
 「愚かさ」とは、「自力本願」かも。「賢明さ」とは、「主の言葉本願」。「御言葉本願」で進もう。そこに主の恵みの実りが、一杯あるから。


●23(火)
「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼の声に聞き従ってしまいました。」     (サム上15・24)

 イスラエル最初の王のサウルが、アマレク人との戦いに勝利した。しかしそこで彼は戦利品に心が揺れ、自分の思いで進み、主の思いに立つことをしなかった。それを主の僕サムエルにいさめられ、気付いて言った言葉がこれだ。
 「成功したな」と思った時に、落とし穴が開く。自分で成し遂げたと思うから。そこには神への感謝がなくなってしまうから。そこで人は罪を犯すんだ。あぶない、くわばら。


●24(水)
地は主の慈しみに満ちている。    (詩33・5)

 詩人は、天を仰ぎ、大地を見渡して、心を震わせている。そこに主の御業を見つめることが出来ているからだ。それも、美しい御業をして見つめられるから。驚くべき力ある御業として見つめているから。
 ボクも、心震わせたい。大地を見て、大空を見て、野に咲く花を見て、飛び交う鳥を見て、だ。そこに神の慈しみを見詰めたいから。
あっ、一番大事なものを忘れていた、それは周りの自然にも増して、隣人を見てだ。この最後の一つが一番大事なんだ。だけどこの一つが、一番難しいのかも知れない。


●25(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」   (出14・16)

 エジプトから脱出するイスラエルの民が、その行く手を紅海に阻まれる。後ろには屈強なエジプト軍が追撃して来た。絶体絶命の時、モーセは民に「恐れることはない。主があなたたちのために戦われる」と告げたのだ。そしてそのモーセに主が命じられたのが、今日の御言葉だった。紅海が二つに割れて、人々は地面を歩いて渡れたのだ。
 人知を超えた救出の御業。私のゆく手を塞ぐ困難にも、主が戦って下さるのだ。だからボクは信じて御業を待つべし。静かに祈るべし。


●26(金)
わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。   (ゼカ2・14)

 バビロン捕囚の後の「新たなエルサレム」は「主の都」となるのだと預言するゼカリヤ。その喜びの知らせの中心が、主ご自身が人々のただ中に臨在され、生活の中に住んでくださるということだった。
 私には、それが出来事となった日のことを知っている。それって、2000年前のクリスマスの日にイエス様が来られたことだよね。それも真の神が、真の人となって降誕されたことですよね。イエス様を見たら、御父が「あなたのただ中に住まう」と言われた御心が分かる。


●27(土)
「あなたの足から履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」  (ヨシュ5・15)

 モーセの後継者として、神から選ばれたヨシュア。彼がエリコの町へ出陣する直前、主の軍勢の将軍と出会った。すぐに主の使いであると悟ったヨシュア。ひれ伏す彼に、主の使いが言った言葉がこれだ。彼がいた場所は、人間にとっては日常の中の何でもない場所だっただろう。でもそこで御業が起こったなら、それはもう「聖なる所」であるのだ。
 ボクの日常も、そこで神が御業をなさるということにおいて「聖なる所」なんだ。それを信じた瞬間、周りの景色が輝き出す気がした。


●28(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。    (詩84・11)

 詩人は全幅の信頼を、主なる神に置いている。それを言葉にし、また歌にしている。神殿に集う一時が、何にも勝る恵みだと歌っているのだ。
 それにしても、なんて美しい言葉だろう。なんて平安に満たされる言葉だろう。この「あなたの庭」というのは、ボクにとっては礼拝堂のことだ。そこに座って礼拝する時は、恵みを頂けるだけのスウィートな時間なんだ。その一日があれば、満たされて一週間の旅路へと出て行ける。さあ次の日曜日まで駆け抜けるぞ!


●30(火)
バラムは主の御使いに言った「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」   (民22・34)

 主の言葉に従うバラム。その旅先で、剣を手にした主の使いに出会った。しかしバラムには御使いの姿が見えない。もしそのまま進めば命を落としていただろう。そのとき主がバラムの目を開かれ、御使いの姿を見せたのだ。
 不思議な出来事だなぁ、と思う。でもずっと彼の心には、自分の計画ではなく、主の意のままにという思いがあることが分かる。それさえあれば良いのかも。それが分かれば、良いのかも。それにしても不思議な出来事だなぁ。


●31(水)
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」    (創15・5)

 アブラハムは主から「子々孫々栄える」と祝福の約束をもらって旅立った。それなのに肝心の子供が、いつまで経っても生まれない。もはや祝福はないだろうと思う時、主の言葉が再び臨んだ。それが今日の言葉だ。人間の心は弱いから、周りの状況を見て、常識を見て、自分を見て、揺れに揺れる。「もう無理だろう」と諦める。しかし主の約束は堅いのだ。
だから私のすべき第一の事は、主の言葉を聞くことなのだ。その言葉こそ必ず成るから。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』