2020年12月31日

『日々の聖句』2020年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年12月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(火)
イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。    (マコ3・9)

 湖畔におられたイエス様の所に、人々が怒涛のように押し寄せて来た。病の人や苦しみの人が奇跡を求めて、イエス様に触れようと押しかけて来たからだ。
 それを御覧になったイエス様は、自分勝手を叱るのでもなく呆れるのでもなく、一歩だけ退かれる。全員に癒しが届く、ご自分が押しつぶされない距離をとられたのだ。どこまでも「あなたのために私はいるよ」と歩まれた主。その御足の跡をボクも歩んでいたい。


●2(水)
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。 (使11・21)

 ステファノの殉教事件で迫害の嵐が起こり、キリスト者たちは散り散りに。アンティオキアまで逃げた人々が、困難にもかかわらず福音を告げ知らせたのだ。主がその人々を助けて、大きな群れが生まれてゆくことになる。
 主が助けられたのは、単に弱り切った人というのじゃない。「しかし、にもかかわらず」と十字架の福音を証しした人たちを、だ。
私は今まで勘違いして来たのかも。弱いから助けがあるのじゃい。弱くても信仰に生きる人に、だ。主こそ誇りと生きる者に、だ。


●3(木)
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。         (ヤコ3・10)

 十二節分もかけて徹底的に、「舌は死を持つ毒に満ちている」と語られる。その中の一節だ。執拗に告げられるのは、口から出る言葉で、人はどうしても失敗をしてしまうから。そしてその結果は、激しい悪を生むからだ。
 口から出るものは、心から生まれる。言葉に、心の奥が透けて見えているということなんだ。ドキッとした、「私は口が悪いんです」って暢気に言ってはいられない。酷い悪を作り出す人間だと、見られているのだから。


●4(金)
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。    (ヨハ21・12)

 単なる朝食場面かなと思ったが、ヨハネ福音書の最終章であることに気付いて、ハッとした。ご復活の場面だと思ったからだ。
 甦らされたイエス様は、これまでと同じように朝食を一緒にされる。集まって、分け合って、日毎の糧を口にされる。それは、日常の中に復活の喜びが介入して来ると肌身で分かるため。「今ここにも福音が満ちている」と分かるため。ありがたい。私の今朝の食卓も、復活のイエス様が一緒だったんだ。明日は「おはようございます」と、挨拶の祈りをしようかな。


●5(土)
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。    (1ペト2・12)

 「キリスト者って、どんな人だろう? 愛の人なのか? 偽善者なのか? この世の人と変わらないのか?・・・」と、人々は私を見ているのだ。
 私を通して、福音が届けられる。緊張して生きねば。正に祈りつつしか過ごせない。信仰者の生活は、ピリッとしているべきなんだ。


●6(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●7(月)
それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。   (マタ16・15) 

 主は全土を巡られたけれど、ご自分への信仰を見つけられなかった。弟子たちに「人々は私を何と言ってるのか」と問われる。「預言者の一人だと言ってます」と答える弟子たち。そこで再び問い直された言葉がこれだ「人々のことはもう良い。それでは、あなたはどうなのか。私への信仰はあるのか」と。
 「私の主よ、私の神よ、あなたは救い主です」と答えたい。四六時中そう告白し続けて過ごしたい。覚めている時も眠っている時さえ。その信仰を私にも与え給え。


●8(火)
あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。(使5・4)

 「え、神を欺いたのだなんて、恐い。どういうこと?」と聖書を開いたら、アナニアとサフィラ夫妻が、献金を真心から献げるのではなく、偽りがあったからだ。それをペトロが、「サタンに心奪われた」と告げたのだ。
 奉仕も、献げることも、礼拝することさえも真実の心からしないならばサタンの支配下なのだ。献金の額で人の目が気になる、奉仕の業で人の評判が気になる、そこには神への欺きが潜んでいる。
 これは、最もボクの近くにある心。「恐いことを思っているのだ」と気付くことが大事だ。


●9(水)
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。 (マコ2・22)

 救い主を信じる信仰は、この世の生き方をする生活の中には入れられないんだ。信仰も、生活も、どちらも破れてひどいことになるから、とイエス様が言われた。
 日常生活は今のまま変えず、信仰生活もしようと思っていたら双倒れになる。この世を捨てなきゃ。だから古来から隠遁者生活をする修道会も生まれて来たのかも。でも修道院に入らないボクは、どう生きれば良いの? もしかしたら「これが普通だ、常識だ」と言いそうになる時に、「ちょっと待て、イエス様ならどうされた?」とリセットして生きることかも。


●10(木)
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。  (1ヨハ4・20)

 「偽り者です」とは、誰に向かって偽りを言っているのかと考えて、すぐに分かった。瞬間、ヒヤッとした。それは、神に対して偽っているからだ。当然その人を見ているのは神なのだ。
 神が「お前は私を愛しているのか」と御覧になる時、私の告白を聞かれるというよりも、ハッキリと私の本音が現れる場を知っておられる。それは、隣人との生活の現場だ。神を愛するように、実際に隣人を愛さなければ。確かこれって、あの「黄金律」だったよね。やっぱり二つは、一つなんだな。


●11(金)
なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。    (マコ14・6)

 最後の晩餐の時、一人の女が高価な香油の瓶を割ってイエス様に注ぎ切ってしまった。その女に対して、人々が「もっと律法に適った方法があるのに、貧しい人に施すという方法が」と呟いた時、主が言われた言葉がこれだ。
 教会の奉仕も、社会奉仕も、「これが通例として良いやり方だ」という思いが、「ただ主の喜びのために」という心を覆ってしまう時がある。改めて一心不乱に「主の喜ばれることは何?」ということに、心を据え直そう。教会でも、さらに社会奉仕に関わる時でさえも。


●12(土)
信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。      (ガラ3・7)

 律法に従って善行を積み重ねた人が救われると考えていた人々に、パウロは「行いじゃないよ」と告げた。イエス様が救って下さると信じる者が、恵みによって救われるのだ、と。
 人は、努力して修行して悟りに至る道が王道だと考えやすい。だから神に喜ばれるのも、品行方正で善行を積み重ねることが大事だと。でも、違うんだ。「自分が望むことが何もできない、イエス様に救っていただくしかない」と信じる者が、神に喜ばれる人なんだ。まるで乳を求める赤ちゃんのように、なんだ。


●13(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師
   



●14(月)
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。         (ヨハ1・29)

 洗礼者ヨハネが、イエス様を見つけて叫んだのが、今朝の言葉だ。イエス様が「誰であるのか」が、この一言で全て告げられている。世界中の人々の罪を取り除くことが出来る救い主であられる方、神であられる方、それなのにご自分が贖いの供え物として屠られる小羊となられる方だ、と。
 それがお前に関わるお方なんだというようにして、「見よ」と告げられていたのだ。
 あ、「世の」というところを「篤の」と入れ替えたら、ドキッとした。2000年前の言葉が、ボクの心に飛び込んで、刺さったから。


●15(火)
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。    (コロ2・3)

 哲学による知恵を得るのが正しく生きるために最重要なことだと、議論の花を咲かせていた人々。しかし最も大事な真理は、キリストが死なれて三日目に甦らされたことだと御言葉は告げる。そこに、人間には捉えようもない神の愛の真理が、顕になってるのだからと。
 本当に大切なものは、人間が考え出したり、生み出せるものじゃないのですね。それは、上から来る。それを受け取る方法は、一つだけ。信じるという方法。それって大人より幼な子が得意なこと。幼な子のようになりたいな。


●16(水)
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。     (ヨハ3・5)

 善行を積んで律法に添って生きていた優等生ニコデモ。でも、天国に入るためには何か足りないように気付いていて、イエス様の所にコッソリ訪ねた。そこで聞いた言葉がこれだ。「信じて洗礼を受けること、それのみが天国への門なんだよ」と。
 天国には、努力したら入れるというんじゃない。招かれて恵みとして入るんだ。つまり神からのプレゼント。ああ、全ての人にこの洗礼という贈り物を受け取って欲しい。一緒に天国に行きたいから。それが牧師人生唯一の願い。


●17(木)
裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。       (ヤコ5・9)

 幼い頃、「最後の審判の日が来る。そのとき裁きもあるぞ」と聞いて来て、ちょっと恐かった。でも、「裁きを受けないようにするためには」って、御言葉は教えてくれる。「あの頃これも一緒に、ちゃんと教えて欲しかったな」と不満に思って、アッと小さく声が出た。今、不平を言ってしまってる、と気付いたから。
 「不平を言わぬこと」って難しい。でも今朝、「逃げちゃダメ、そこから逃げちゃダメ」って御言葉が叫んでいるように聞こえた。


●18(金)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。    (エフェ6・16)

 悪に対抗して立たてと告げられる中で、神の武具が与えられると言われる。その武具の一つが「信仰」。これは防御のための盾。イエス様だけを見詰めて、信じて歩む。それが悪の誘いを打ち払うことになるのだ、と。
 誘惑を打ち払うのは、自分に強い意志が無ければと思ってた。でも、私の意志なんて弱いとも分かっていた。だから、だ。親にすがる子供のように歩めばいい。すがりつく手を離さなきゃいいんだ。その手が「信仰」なのだから。


●19(土)
御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。    (エフェ1・17〜18)

 神様を初めて知った日も、より深く知ってゆくことも、「自分の努力」じゃないんだ。知恵と天からの知らせを聞ける霊を送って下さるという、「天の父の贈り物」によってなのだ。
 じゃあボクは、それを受け取るために心を広く開けて「主よ、父よ」と呼べばいい。何だか最近、幼な子になる勧めばかり思い巡らせているなぁ。もしかしたら御父との関係の赤ちゃん返りって、ふふっ、かなり良い事なのかもね。


●20(日)

クリスマス礼拝説教

         辻川篤牧師



●21(月)
本当に、この人は神の子だった。      (マコ15・39)

 クリスマス礼拝を過ごした次の朝に聞いた御言葉として、心に染み込んで来た。これは、十字架で死なれるイエス様を見た百人隊長が告白した言葉だけれど、この言葉にこそ、降誕の目的が秘められていたのだと、今朝改めて思ったから。
天から降られた理由は、十字架の死に向かうこと。人間の誕生は喜びだけなのに、イエス様の降誕は、深い悲しみを背負っておられたんだ。今朝ボクも思う「あなたこそ本当に神の子」と。深い感謝と、もったいなさと、慕わしさと、喜びとが、混ざり合って心に拡がった。


●22(火)
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。     (ヨハ14・6)

 「父のもとに行く」というのは端的に「天の国に行く」ということだ。
父なる神を知るだけなら、色々な本を読んで学ぶこともできるだろう。でもそれは、ショーケースに入っている食品サンプルを見ているだけのこと。本当に天国で御父に会えるためには、イエス様を信じることのみなんだ。学ぶことと、信じることは異次元のこと。そしてその実りも、文字通り天と地の違いなんだ。「主よ、ただ信じます」と生きていたい。


●23(水)
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」    (ヤコ4・6)

 神様の恵みは、是非いただきたい。神様の敵になるなんて、滅相もないこと。そう願う私はどうすべきなのか! 私にはもう既に分かっていたのかも知れない。今朝の御言葉を見て、そう思った。
 高慢になるな、ということ。謙遜になれということ。でもきっと、その真逆を生きている。その結果が、神様との関係にまで深く影響するって分かっているのに。
 今日、生き方を修正しよう。すぐに改めねば! 主よ、ボクを謙遜な者に変えて下さい。


●24(木・クリスマス イブ)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。    (コロ3・12)

 今日はクリスマス・イブの日だから、特にこの御言葉はジ〜ンと心に沁みて来る気がする。「あなたも神に選ばれ、愛されているよ」と聞こえて来るから。「ほら、イエス様があなたの所にお生まれになったのを見詰めたら、それが確かだと分かるだろ」と。
 だから愛された者として、ボクも憐れみと慈愛をもって生きよう。イエス様のように謙遜に、柔和に歩んでゆきたい。素直にそう思う。


●25(金・降誕日)
(イエス)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  (マコ2・17)
 
 この御言葉の通りに、御子イエス様が天から降って来て、この私が生きる地上に来られ、私の生活の中で語りかけて下さるのだ。罪人のあなたを招くために、降誕したのだよ、と。
 それは、救いが必要だから。病人が医者を命綱として必要とするように、救い主がいて下さらないと永遠の死を死んでしまうからですね。往診のために傍に来た医者のように降誕された主を、今日一日思いつつ過ごしたい。


●26(土)
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。    (1コリ10・32)

 一瞬、目を疑った。「人に惑わされるな」と言われているのじゃなくて、「私自身が人を惑わす原因となるな」と言われていたから。聖書を開いたら、自分の信仰理解を他者に上から押し付けることへの警告だった。そういうふうに生きるのではなく、他者の信仰生活の利益となるように語り、振舞わなくちゃ。
 自分が育った教派的な違いで、他の信仰者を色眼鏡で見ちゃいけない。互いの違いを「信仰の豊かさ」と受け取って、喜び合って生きるべき。主は一人、信仰は一つなのだから。


●27(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●28(月)
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。    (1ペト4・1)

 イエス様は、この世で受難を受けられてからご復活をなさった。そこを通らずして勝利もなかった。そのイエス様の御足の跡を行く私なのだから、私も闘いを通らずして進めない。それは、かつてこの世で自分の欲に従って歩いていた生き方を捨てる闘いだ。
 主の御言葉を握れ。それが私の武装だから。それも、主日礼拝で受け取った御言葉を、一週間握り通せば良いのかも。まだ今日は月曜なんだから、忘れているようではイカンよね。


●29(火)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。      (ヘブ11・17)

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と十一章一節に始まる段落で、数々の信仰の先達たちの実際の歩みが告げられてゆく。「確かに彼らは、そのように歩んだ信仰の父祖たちだった」と。そして「確かにその歩みの中で、神の計画の内にあった恵みも受け取っていったよ」と。
 私の一歩も、そのようでありたい。たとえ今は神の御計画が見えなくても、御言葉を信じて一歩を踏み出したい! そここそが、見えない未来につながっている道だから。


●30(水)
使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び     (使5・41)

 「エエっ! 辱めを受けることを喜ぶの?」と驚いてこの箇所を開いたら、イエス様の福音を語ったことによって迫害を受け、鞭打たれたことだった。「なんだ、信仰を告白した故の迫害を、キリスト者として喜んだんだ」と辱めの意味を知って、ホッとして、ギクッとした。「ボクは現実生活で、恐れず伝道できているか」と自問したら、たじろぐ自分がいたから。
 彼らと私は何が違うのだろう、何が足りないんだろ。もしかしたら信仰と、信仰のようなものとの違いかも。命懸けじゃないのかも。


●31(木)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。    (ヤコ5・7)

 二〇二〇年が今日で閉じられる。今年はコロナ禍の中で、色々なことを自粛させられて「待つ」ことの多い日々だった。それもいつ終わるか分からない故に、余計に辛かった。
 聖書も「待て」という。でもそれはハッキリしたゴールがある。それも希望に満ちたゴールだ。イエス様が再臨されて、涙がことごとく拭われる日なんだから。「信じて待つ」というのは、この世の「待たされる」というのとは全然違って、希望があるね。
 さあ、新しく「信じる一年」が始まるよ。


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