み言葉のパンで生きる365日
2020年11月
(新約聖書編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)
●1(日)
主日礼拝説教
召天者記念礼拝
辻川篤牧師
●2(月)
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。 (2テサ3・5)
神様が私を愛してくださると悟れるのは、自分の信仰によるのじゃない。キリストに立ち帰って従う者となることも、私の信仰によるのじゃないんだ。全てを悟れるのは、主ご自身の御業なのだ。
何もかも主の御業による贈り物。地上の肉体の誕生も、霊的新生も、信仰者としての生涯までも、全て手厚い愛の中。ボクはそうしていただけるのに相応しい物を、何も持っていないのに、ただ主の愛が溢れたんだ。
●3(火・文化の日)
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 (1コリ9・25)
「ボクも、賞としての冠をもらえるんだ」と、素直に嬉しく思った。栄冠なんて、あんまり縁がなかったから嬉しいと思えたのかな? いやちょっと違うかも、この栄冠が神様からいただけるんだと直感したから。
金も銀も月桂樹も朽ち果てる。でも、神様に「キリスト者として人生をよく走り抜いたね」と褒められつついただく冠は、天の国で朽ちることはない。だから、さあボクの足よ、目標に向かってひたすら走れ。天の栄冠を目掛けて、今日を走ろう。いざ!
●4(水)
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 (マコ15・14)
人々の声は激しく「殺せ、殺せ」と叫ぶ。そこで一人も、「何ということを言うのだ。救い主だぞ」と主の側に付く者はいない。弟子でさえ逃げ去ったのだから。巻き添えになるのが怖かったから。ふと思った。イエス様は、ご自分を殺す者のために死なれたんだ。正に理不尽な死。罪人の救いのために、何て酷いことが起こっていたのか!
私はどこに立つのか。群衆の側か、逃亡弟子と一緒か。いずれにしても弱虫で自己中心な罪人の側。私こそ酷いことをする張本人!
●5(木)
だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 (1コリ1・29)
誇ってしまうものは何か。それは、自力で手に入れたと勘違いするもの。聖書はそれらを「地位、力、知恵、能力だ」と数え上げていた。でもこれらって、学校では「自力で獲得するもの」と教えて来たのに。
聖書は、全部神様からの贈り物だと言う。それを気付かせるため、無力な者を選ぶのだとも言う。確かに聖書では無力で弱い者がいつも選ばれる。それは誰よりも、罪人だね。だって「神のお陰って」一番分かる人だから。罪人は、赦してくださった主だけを誇るから。
●6(金)
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 (1ヨハ4・9)
「お遣わしになった」その場所は、人々の上に立って導く場所じゃなかった。この世の救世主のように、人々の先頭に立ったのでもない。私たちは、神の独り子が遣わされた場を知っている。それは処刑台の上、罪人が死ぬ十字架の上だった、と知っている。
そこに、天の父の私たちへの愛が露わとなったんだ。独り子の十字架こそ誇らん。
●7(土)
あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。 (ルカ10・41〜42)
マリアと違って、イエス様のもてなしのためにせわしく立ち働くマルタ。マリアが何もしないのに腹を立てた時、イエス様がマルタに言われたのが、今朝の御言葉だ。
「マルタよ、思い悩み過ぎるよ。重荷を降ろして御覧、私から恵みの言葉をもらうだけで良いんだよ。それが必要なただ一つのことなんだから。さあ立ち帰って、受け取れ」と。これは招きの言葉だ。決してマルタ型人間を責めてはおられない。マルタも愛しておられるから。
●8(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●9(月)
まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 (ルカ15・20)
親に生前財産分与を要求し、それを遊興で使い果たした自分勝手な息子。飢え死に寸前で、家に帰る放蕩息子。
その息子の帰りを毎日待っていた父親が、自分を捨てた息子なのに、走り寄って出迎えてキスをした。イエス様は、その自己中心息子があなただよ、この父親が父なる神様だよと譬え話をされたのだ。幼い頃これを聞いた日、御父の思いを知って、心が温かくなった。
●10(火)
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 (マタ5・18)
イエス様の「山上の垂訓」の一言。人々は、救い主が来たら、旧い神の掟である「律法」は要らなくなって、救いのみが来ると誤解していた。私も同じ誤解をしているかも。律法の行いは、不要になったと。
でも主は「否」と言われた。律法は、神が人を祝福へ導く道標だから。その御言葉に聴従せずして幸いはないんだよ、と。
●11(水)
(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。 (マコ6・6)
故郷に帰られたイエス様を、子どもの頃から知る人々が、「あれは我々と同じ人間、大工の息子じゃないか」と言い捨てたのだ。
目で見て、自分の常識で考えるだけなら、イエス様を主とは分からない。そして、その肉の目を「不信仰」と言われたのだ。イエス様を主と仰ぐためには、信仰の目が必要なんだ。
そういう目を持っていた人を知っている。それは長血の女や、娘が死にかけている父親、罪人。そうだ「主よ、憐れんで下さい」との叫びを持っている人たちだった。試練とか魂の渇きは、神からの大事な贈り物かもしれない。
●12(木)
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 (エフェ4・31)
「捨てなさい」と厳命されている。それは「お前はこれらすべてに染まっているから」という指摘じゃないのか。
いつも自己中心で、隣人への慈しみも自分に余裕があって気が向いた時だけ。いつも自分が正義だと腹を立てていて、怒り出し、ついに大声でわめく。結局どれもが、他者を悪者にしても自分を守ろうとする悪意から出る。
即捨てねば! 裁きの日を仰ぎ見て、真っすぐ顔を上げられる私になりたいから。
●13(金)
律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリ3・9)
神から「お前は義しい者、私の子だよ」と認めてもらえる方法が二つある。一つは、自分が修練する律法厳守の道。でもこれは、他者を「あいつは全然ダメだ」と批判する目が生まれ、「自分は少しは義しい」と誇る目が開く。
もう一つが、イエス様が私を救って下さったと信じる道だ。それが「救われる」ということなんだ。ここで開かれる目もある。それは、「ただ感謝」という心の目だ。ボクはやっぱりこっちが良いな。というか、コッチしかないな。
●14(土)
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 (1ヨハ1・8)
私の幼い日の記憶・・・真面目に信仰生活を過ごしている高齢の婦人が、説教で「あなたは罪人だ」と聞いた日の事。礼拝後「私が罪人だなんて失礼よ。信仰者として生きているのに」と噛みついていた。その方を知っている私も「そりゃそうだ」と思っていた。
大人になった今は「自分が罪人だと受け止められること、それが信仰。それも、その信仰さえも神様からの贈りもの」と思う。そして、「それを知ることが、福音なんだ」とも。
●15(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●16(月)
しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。 (2テサ3・3)
キリスト者として歩もうとする時、信仰の生活をくじかせようと、あらゆる敵が襲って来る。光の道から、闇の方へと誘い込む敵である。「信仰を捨てたほうが楽だよ、自由になれるよ」と誘惑者が語りかける。「伝道なんてやめろよ、一人だけこの世で浮いてしまうぞ」と揺さぶって来る。
しかし、だ。我らにはただお一人、味方がいてくださる。それは万軍の主。主ご自身が盾、砦、そして守り手だ。ゆえに、いざ行かん。
●17(火)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 (フィリ4・4)
誰もが、「私はこれが大好き、愛唱聖句だ」とおっしゃる御言葉だ。誰もが、喜びに常に満ちている生活を過ごしたいと願っていて、でも現実は不安なことや暗くなることが多い日々だからだろう。さらに、自分で自分の心を喜ばせるなんて無理だなとも気付いていて・・・
この御言葉の後には「主はすぐ近くにおられる」と続く。辛く暗いと思う日々の中にイエス様がいて下さる、だから喜べるだろと言うのだ。喜びの源であるイエス様を見詰めたら、あなたの今日は、喜びで染まるから、とね。
●18(水)
わたしは、イエスの焼印を身に受けているのです。 (ガラ6・17)
私もイエス様を信じて洗礼を受けた日、この焼き印をいただいた。主が「これは私のもの。他の誰もコレを傷つけてはならぬ。まして奪い取ってはならぬ。これは我が宝の人だから」と宣言して下さって、天の国の家紋を身に焼き付けて下さったのだ。
なんの功もなき私なのに、貴い印を受け取った。ただ主が一方的に私を愛して下さったから。その思いに応答して今日を生きたい。「私はキリストのものとされた者」と歩みたい。それを主がご覧になって、喜んで下さるから。
●19(木)
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです。 (ヘブ11・8)
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語られる文脈の中に、今朝の御言葉がある。まさに御言葉の通りに生きた証人たちの姿である。
「あなたもそのように生きてごらん。その先に神様からの恵みが待っているのだから」と、今朝私にも語りかけられているのだ。「アブラハムの話じゃない、あなたのことだよ」とね。
●20(金)
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 (ガラ3・27)
この御言葉の直前には、「キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とある。私は、神様をお父さんと呼んでも良い「神の子」とされた、それが「ただ洗礼を受けたから」ということなんだ。
一つのことは確実に分かる。「神の子」とされたのは、ボクが何か良いことが出来たからじゃないと。だからこれは「一方的な贈り物」なんだと。それを「恵み」と言うんだと。洗礼は、恵みの結晶だ。ダイヤモンドよりも高価な結晶だ。私の第一の宝なのだ。私は裕福なのだ!
●21(土)
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 (ヘブ13・8)
「神は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしないと約束される方だ」と、この直前で語られている。「だからなのだ」と言うのだ。あなたの昨日も、今日も、また明日も、永遠の昔から永遠の未来までキリストに守られていると分かるだろ、と。
「ああ、本当に分かります」と、心に感じるボクがいる。さらに、「そのあなたに委ねることができるボクは、幸いです」と心から今朝感じる。その思いのままで一日を過ごしたい。臨在の主を信じて、夜まで走り抜こう。
●22(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●23(月・勤労感謝の日)
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。 (1コリ11・23)
「何を伝えたの?」と、聖書を開いたら、最後の晩餐での出来事だった。私たちも、その時の主の命令に添って礼拝で聖餐式に与っている。恵みの座で、「これはあなたがたのためのわたしの体である」と、主のお声を聞くようにして、パンを受けている。それも、十字架で裂かれた肉として受け取るのだ。
かの日から連綿と伝え聞いている出来事を、私も伝えよう。「あなたのために主は死なれたよ。あなたは救われたのだよ」と。普く伝わることこそ、主ご自身の願いなんだから。
●24(火)
これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 (1ヨハ2・1)
「闇の中を歩むな」と厳命された後に、今朝そのように言うのは「罪を犯さないようになるため」と加えられる。さらにその先も見てくれて、「たとえ罪を犯してもイエス様がおられるよ。弁護して下さるから」と告げられていた。
守られているからこそ「ありがたし」と義しく生きよう。「かたじけなし」と頑張るんだ。「私は罪人だから無理」と諦念に逃げ込むな。
●25(水)
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 (エフェ3・19)
人知をはるかに超えるこの愛って、それはキリストご自身。ご自分の命を投げ出して罪人を救ってくださったお方そのもののこと。
主を知れば、愛の全てを知る。それが私にさえも与えられてるって知ったら、既に愛に包まれてたって分かる。正しく知るって、正しい豊かさに満ちることと連結している。列車の連結器のように、ガシャンと繋がっているんだ。
●26(木)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (1コリ10・13)
この御言葉は、何度も読んで来た。何度も聞いて、そして祈って来た。それも、病院のベッドに横たわる兄姉の傍らで。自宅で闘病をしている兄姉の横で。そこで一緒に御言葉を聞いて、慰められるために。
そして真実、御言葉が神の言葉として響いていた。その場で一緒に平安に包まれて来たのだ。苦難の中に、光を見ていた。
●27(金)
主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。 (1コリ6・17)
洗礼を受けた者は、「主に結び付く者」とされた。身体も心も「主と一つの霊となる」ほどに固く結ばれたのだ。この身体は、「主の霊が宿る神殿となった」とも言われている。大いなる栄光をいただいたのだ。だからこそ、自己中心な生活から離れねばならない。大いなる栄光には、大いなる責任も伴うのだ。
あれ、これどこかで聞いたフレーズ。スーパーマンがベン爺さんに言われていたフレーズかも。でもボクは、スーパーマンよりも大いなる存在になったんだ。それは、いわばキリストマン。主の正義に生きねば。
●28(土)
この方の服にでも触れればいやしていただける。 (マコ5・28)
12年間も出血が止まらないで苦しんで来た女。多くの医者にかかっても苦しめられるだけで、全財産を失っても悪くなる一方で、もう八方塞がりだった。
その女が、「イエス様の服にでも触れればいやしていただける。この苦しみから救われる」と信じて、必死に近づいた。彼女に残されたものは、もう「触れる」ということだけだったから。そして癒されたのだ。
私にとって、ただ一つの求めるべき「この方の服」ってなんだろう。それは、間違いなく「この方の御言葉」である。そこに救いが起こる。
●29(日)
アドヴェント第一主日礼拝説教
藤森誠神学生
(東京神学大学大学院2年)
●30(月)
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 (1ペト2・16)
キリスト者は旅人として、「自由な人」として生きるべきだけれど、その自由の使い方の方向性がハッキリ示される。
今まで「自由」を勘違いして来たかも。あれこれすべきこと「からの」自由じゃなくて、あれこれすべきこと「への」自由なんだ。この世にどう見られようと、神の栄光を表わして生きること「への」自由なんだ。白日の下でキリスト者として堂々と生きること「への」自由なんだ。