み言葉のパンで生きる365日
2020年9月
(新約聖書編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)
●1(火)
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 (ヤコ2・26)
心だけで受け取る信心がある。頭だけで受け取る教理がある。目と耳だけで受け取る聖書の言葉がある。ただ受け取るだけの信仰もあるだろう。しかしそれは「死んだ信仰だ」と告げられているのだ。
愛するお方が語りかけている御言葉を聞いたら、居ても立ってもいられないで体が動くはず。こうして欲しいと言われたら、心も燃えて「お応えしたい」と動くはず。イキイキと隣人を愛する生き方になるはずなんだ。死に体にはなるまい。
●2(水)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」 (ルカ18・13)
今朝のみ言葉に続けて「義とされたのはこの人であって、ファリサイ派の人ではない」とイエス様が言われていた。
「あなたは不信仰者」と言われてムッとするなら真の不信仰者。自分は罪人だと分かっている不信仰者は、少しは義しいと思っている不信仰者より、主の喜びに近い。あれっ、結局皆、不信仰者? じゃあボクは、悔いる不信仰者でいよう。
●3(木)
わたしたちは神に属する者です。 (1ヨハ4・6)
人間が作り出した「常識」「当たり前」を生活の基にするのが「この世に属する者」。神の言葉のみを基にするのが「神に属する者」。端的に聖書は言い切る。
ボクも主のみ言葉を愛して生活しているから、「神に属する者」に入れてもらえているのかな。しばしば、中途半端に両方に足を突っ込むようなことをする罪人だけど、それでも神様は「私に属する者だよ」と言って下さるのかな・・・。
どうもそうらしい。それが福音なんだ。その御心に応えて生きたい、今日こそ。
●4(金)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。 (ヘブ4・15)
「この大祭司」とは、天に居られる御子イエス様。その「大祭司って何?」と考えたら、神と人との間に立って執り成す働きをしてくれる人のこと。イエス様が、私の大祭司として居てくださるんだ。それも私の弱さを知って、同情しながら。
その「弱さって、苦手な事とか?」と考えて、アッと気付いた「それは私の罪」と。私の罪と過ちをイエス様が執り成して下さる。お陰で私は赦された。つまり私は、主のお陰という存在だ。それが有り難い。
●5(土)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。 (1コリ2・5)
「神の力によって信じるようになるため」に、パウロは何をしたのか。それは一つのことだ。それが、神の御子なのに十字架で死なれた出来事を伝えること。またあらゆることをしなかった。それが、信じたらこんな恵みがあるとご利益を巧みに語ること。神の力は、神の十字架の死を聞くところに働くからだ。
私もそこに立ち続けたい。十字架にすがる姿を見て欲しい。それを伝えたい。
●6(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●7(月)
神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 (1テモ2・5)
イエス様は、真に神であられる方。同時に降誕された真の人であられる方。だからこの方こそ、神と人との間に立つ仲介者になれるお方なんだ。それもキリスト・救い主として立って下さる。つまり私の罪も弱さも、過ちも自己中心さも全部知って、身代わりに償って下さったお方が、神に執り成してくれるんだ。
私は、この仲介者から離れたら生きてゆけない。それに気付く時、信仰の中核に触れているんだ。そこにしがみつけ。
●8(火)
互いに重荷を担いなさい。 (ガラ6・2)
隣人の苦しみを一緒に担えと言う。また「互いに」だから。自分も素直に担ってもらうこと。そういう関係に生きよと言われている。単なる助け合いではない。「隣人とそういう関係になれ」と言われているのだ。そうしたら、「キリストの律法を全うできる」とさえ、続けて言われていた。
隣人に対して「何をするのか、どう生きるのか」の土台には、「どういう関係になるのか」があるのだ。そこを忘れたら偽善者になる。「何をしたか」は、自分を誇らせるから。互いにという「関係」にこそ立て。
●9(水)
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。 (ヤコ4・12)
ドキッとした、神様から鋭い矢が私を目掛けて飛んで来たから。ブスリとこの御言葉の矢が、心臓に刺さったのだ。
振り返ったらボクは、いつも正義面して隣人の悪口を思ってしまう。大事な家族のはずなのに、気付いたら裁いている。
今朝、御言葉がそんなボクの心臓に刺さってくれた。だから悔い改めの痛みをもって、今までの自分から飛び退ける。そうしたら、もしかしたら主に赦してもらえるかもしれない。そうしたら、隣人関係がもっと幸いになれるかも。きっとなれる。
●10(木)
わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。 (ヘブ3・14)
信仰生活は、教会に来るようになって洗礼を受けたら、そこで終わりじゃないんだ。卒業って無いんだと、薄々分かってたけどね。だって、学校じゃないんだから。
信仰生活はイエス様と一緒に歩く人生の日々なんだから。主の言葉を聞いたら、その言葉と一緒に歩む。それも独りじゃないよ、主の霊・聖霊との二人三脚。さあ今朝も、今日という旅に出発しよう。
●11(金)
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 (1コリ14・33)
これは教会の中で預言や異言を語る時、さらにその解釈を聞く時の整然とした秩序の勧めだ。「相模原教会では異言が語られることはないから、これは関係ない」とは言えない。全ての教会の集まりの中にあるべき秩序の話なのだから。
「教会なのに秩序って堅苦しい。教会って自由な所じゃないの?」と思って、すぐに気付いた。共に集い尊重し合う、そこに主にある平和の秩序があるから真の自由がある。自由と自分勝手は異質だ。
●12(土)
あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 (ヨハ1・26)
バプテスマのヨハネが告げた「知らない方」とは誰か。それは御子なる神・真の救い主イエス様のこと。でも「知らない」ってどういう意味なんだろう。「イエス様のことは知っているのに」と考えて、アッと思った。
聖書では「知る」って「一つになるほど分かる」という風に使われてる。それは頭の中の知識じゃ駄目なんだ。それを見透かしているように御言葉は告げる、知らない方が「お・ら・れ・る」と。愚か者の中に、既に内住されるイエス様。感謝です。
●13(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●14(月)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 (マコ1・35)
イエス様がいよいよガリラヤ中に大伝道を開始される直前。静かな所で御父と一対一の祈りの時を持たれた。
そういえばイエス様は、大事なことが始まる直前、また忙しくなる前に必ず御父に祈っておられる。
そういえばボクは、祈りの時間を削ってバタバタ立ち働いてしまう。全く逆のことをしていた。よし、今朝はじっくり祈る事から始めよう。忙しくなりそうだから。
●15(火)
掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。 (1ヨハ3・23)
「神の掟」を一言で言うなら、「愛し合うこと」。イエス様の命令を一言で表すなら、「愛し合うこと」とヨハネは告げる。
私は今まで「愛する」って、ほんわかした甘いイメージに捉えていたかも。しかし、愛を生きることとは、神の掟を生きること。これこそ「掟だ」と聞いて、ドキッとした。神の厳命だと知ったら、命懸けで第一に取り組むことなんだと悟れたから。背筋が、ビシッとしたゾ。
●16(水)
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。 (ヤコ4・3)
欲していても、熱望して祈っても得られないことがあると御言葉は言う。人と争うため、自分の主張を押し通そうとして求める願いだからだ、と。それは、得ても神の敵となるものだからだ、と。それを「間違った動機」と告げているのだ。
もしかして、正しい動機で求めたものは得られるの? 人の重荷を負うため、人を愛するため、人を赦すための求めは得られるのかな。そうさ、きっとそうだよ!
●17(木)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 (コロ3・17)
ここに、今日の一挙手一投足、更に心の向け方までが詰まっている。
「だって腹が立つからこう言いたい」とか「だってこう言ってやるのが正論だから」とか「私がこうしたい、ああしたい」とか「願いが叶わなかったから、感謝できなくて当然」とか、いつもの言い訳をするまい。今朝の御言葉に一言も足さず一言も減らさず、そうやって今日を生きてみよう。それが「御心を生きること」と信じて。
●18(金)
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。 (1ヨハ1・10)
いきなりドキッとさせられた。御言葉に言い当てられてしまっているから。「お前には罪がある。自分には具体的な罪は無いと思っていたら大間違い。神は見通しておられるぞ」と迫られている気がしたから。
「ああ、どうしよう」と心細くなって、この箇所を開いたら、「自分の罪を公に言い表すなら、神は罪を赦し・・・」と言われていた。「救われた」と思った。そして、罪に気付く場が、救いへの入口と気付いた。
●19(土)
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。 (ルカ10・3)
イエス様が七十二人を選んで、町や村に伝道のため派遣される。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだと知っておられながら。それでも「あなたを遣わす。行け」と命令されるのだ。
伝道する時の私たちの恐れも、イエス様は知っていて下さる。困難もご存じでいて下さる。しかしなのだ、だから撤退して良いよとは言われない。諦めて良いとは言われない。「あなたが必要だ、行っておくれ」と背中を押されるのだ。だから行こう、もう一度だけ勇気を振り絞れ、自分!
●20(日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)
●21(月・敬老の日)
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。 (フィリ4・6)
「思い煩うのはやめる」って、どういうことかな。自分が思い悩むことをやめてしまえば良いのかな。いや、実際はそんなことでは済まないとも思うし・・・アレッ、これってもう思い悩んでいる?
聖書は言う、思い煩うことを自分で握らず手放せるのは、手放す先があるからだと。それは、私に最善を備えて下さる主。だから「求めているものを神に打ち明けろ。何事につけ感謝をこめて祈れ、神様に話せ」と促すのだ。主が守るから、苦しみを握り続けなくて良いんだよ、と。
●22(火・秋分の日)
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 (1ヨハ5・13)
イエス様の御業を受け入れたら、救いの恵みを戴ける。でも、賜物はそれだけじゃないと告げる。「もはや死なない身となりぬ」という永遠の命も戴けたとのだと。
神様が私になさることは「与えるのみ」の御業。そうやって恵みで満たそうというのが御心。そうか! 御心に従うということは、窮屈じゃない。恵みを戴く側を歩くということ。選択の迷いは吹き飛んだ。
●23(水)
まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 (マコ8・17)
イエス様の激しい叱責、または嘆きにも聞こえる。何があったのか聖書を開いて分かった。イエス様ご自身と、お言葉に頼らず、自分の常識で考えてしまう弟子たちに、呆れられたのだ。
イエス様に従うことは弟子たちでさえ難しかった。自分の中にある人間的常識が、一番の障害物だと気付いていなかったから。きっと常識で生きる大人は、信じることから遠いのかも。ボクは幼な子になりたい。信頼するしか知らない幼な子に。
●24(木)
相変わらず肉の人だからです。 (1コリ3・3)
「肉の人」というのは、ここでは「お互いの間に妬みや争いが絶えない、ただの人」ということ。それも、福音を聞いたのに「相変わらず」だと言われている。
責められているように感じる。そうだ、責められているんだ。福音を知らされてなお自分勝手に生きているから。呆れられているんだ。諦められてしまう前に、立ち帰らなきゃ。いい加減にしなきゃ。
それにしても「相変わらず」の一言が耳に痛い。いや、痛いと感じたから助かったのかも。立ち帰らなきゃと気付けたから。
●25(金)
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。 (1ヨハ1・5)
「神は光である」と端的に宣言される。続いて、あなたが神の子とされたのなら、光の子として歩んでいるはず、まだ闇の中で歩いているようならおかしいぞ、とも。
ハッとした。ボクも受洗の日に、神様の家の子に養子縁組して頂けたのだから、誰から見られても「あの人は神の家の方だよね」と噂が立つように生きなきゃね。
●26(土)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 (ヨハ3・16)
私の幼い頃に、教会学校で何度も口ずさんで暗唱をさせられた御言葉だ。これが、心に刷り込ませねばならないほどに大切な御言葉だったからだ。
ここに、神が御自分の独り子を「辻川のために」与えたと記されている。ここで天の御父の思いが分かる。どんなに私が愛されているかが分かる。私の価がどんなに高いかが分かるんだ。
それを知ることが、人間にとって第一に大切なことだと、今は人にも伝えたい。
●27(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●28(月)
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。 (ロマ5・3〜4)
中を飛ばして一言で言うと、「苦難は→希望を生む」ということになる。エッと思った。苦難が行き着く先は、不安とか、失望とかであるはずなのに・・・
一体どこから来る希望なんだろう、知りたい、と思ってこの箇所を開いたら「キリストのお陰で」「神の愛が注がれているから」「義とされたから」という御言葉が次々に目に飛び込んで来た。
キリストにあって生きる、そこで、苦難も希望へと繋がるんだ。主にすがらん!
●29(火)
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 (ヨハ3・3)
頭脳優秀、品行方正のニコデモ。でも不安で、夜中に隠れてイエス様を訪ねたのだ。「私は天国に行けるのですか? 誰よりも資格はあると思うんですが、でも何か大事なものが足りない気がするのです」と聞いた彼に、主が答えられた。
主は、全ての人に言われる、「洗礼を受けなさい。唯それだけでいい、それが天国への扉を開ける鍵だから」と。無償で与えられる鍵、だから洗礼は恵なのですね。
●30(水)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。 (ルカ6・19)
病を抱えた人たちが、イエス様なら癒して頂けると信頼して押しかけて来た。癒し目的だけど、でも「何とかして」と必死になって。その「何とかして」の一言が心にとまった。
「ボクはそれほど必死にイエス様にすがるように祈っているだろうか」と思ったから。「何とかして」と必死さが、在るだろうか。身を投げ出すほどの信頼が欠けているんじゃないだろうか。今日からは「何とかして」と全身ですがって祈ろう。そうやってイエス様にぶつかるように近付くんだ!