相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙5章7〜15節
5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
「召し出す」(8節)には「呼ばれた」「招かれた」「選ばれてキリスト者とさせてくれた」という意味があります。しかも、現在完了形で用いられているので、私たちはこの「召し」に継続的に応え続けなければならないということなのです。そうでなければ、「わずかなパン種」(9節)=ちょっとした誘惑が大きな落とし穴になりかねないと警告しているのです。そして、パウロは今なお迫害を受けている現状を報告します(11節)。社会や他の指導者たちに迎合して「十字架プラスα(律法)」を福音として語らず、十字架と復活のみによる福音を説いているからです。「十字架プラスα」なら人々は躓かなかったでしょう。しかし、十字架のみによる救いを伝えた時、人々は躓いたのです。十字架あるいはキリストが「つまずき」(「道に敷かれた障害物・落とし穴」また「腹を立てる」の意味)となったのです。しかし、十字架は父なる神が、そして、子なるイエスが命を懸けて拓いてくださった救いの道なのです。人に対する御神と御子の愛の印なのです。そこに御心が凝縮されているのです。それを語らなければ、「真理」を曲げてしまうことになる。神の御心を無視することになる。神を悲しませることになるのです。この箇所以降でキリスト者が、十字架を負った者として、いかに生きるかを具体的にパウロは伝えます。十字架には罪からの救いがあります。この救いに与った者には「愛の行為」と「キリストと共に苦しむ」ことが伴って来ます。つまり、キリストと同じように「愛の行為」に生きる。そして、キリストと同じように「苦しむ」ことを覚悟する。これが古い律法ではなく、「キリストの律法」、言い換えるなら「愛の律法」、またイエスが遺言として残された「新しい掟」(ヨハネ13:34)に生きるということなのです。具体的な表れが「愛によって互いに仕え合う」(5:14)ことです。この内容を次回、学んでみたいと思います。