2020年08月09日

説教「スピリチュアル ギフト」

2020年8月9日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ローマの信徒への手紙1章8〜15節
1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 パウロは「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えたい」と願って、ローマの教会を訪問したいと言います。その「“霊”の賜物」とは、「聖霊なる神からの賜物」です。それも、一人が全ての賜物を持っている訳じゃない。それぞれの兄弟姉妹が、教会というキリストの体の一部分として、神様からそれぞれに賜物をいただいているということです。

 でもなぜパウロは、「あなたがたに、いくらかでも分け与えたい」と言えたのでしょう。大伝道者だから持っているものがたくさんあったからでしょうか。いいえ違います。彼は、自分が取るに足りない者だと自覚していました。キリスト者を迫害しようとダマスコに向かっていた時、ご復活の主イエスが、現れて下さった、そこで全てが分かったのです。自分が自分でかき集めた物は、一切が「塵あくた」だったと。そして彼は、「誇る者は、ただ主を誇れ」と悟ったのです。主イエスこそ神であられたのに、罪人のために、(パウロは自分のことだと分かっていた、傲慢で、神に背を向けて生きていた自分こそ罪人だと)、その罪の身代わりに、償いのために死んで下さったお方。それがイエス様。それが分かった時、彼は「自分はむしろ神の目には敵だった。でも、そんな私でも御子イエスのものとして戴けた、救われた。それが、私が得た財産の全て」と分かったのです。パウロは、「自分は、神に愛された罪人」と分かって、だから今度は、自分がそのお方を愛する者となりかたったのです。命懸けで愛されたと悟ったから、その日から彼は、イエス様のように生きたいと生き始めたのです。それは、人々の足元に降る姿となった、「私の持っているものをあなたにあげたい。いくらかでも、貰ってもらえるなら、分け与えたい」と生きたのです。

 改めて今朝分かります。“霊”の賜物を分け合って歩む、そこに進むべき道がある、と。そういう群れに属する喜びをもって、新しい1週間を過ごしたいではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:39| 主日説教要約