2020年08月02日

説教「覚えていないのか」

2020年8月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書16章5〜12節
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 イエス様のもとに、弟子たちが遅れて合流して来ました。慌てて出発して、イエス様の所に着いてから気が付いたのです、「パンを忘れた」と。「忘れた、どうしよう」と不安に、心が捕らわれ、彼らの心は騒いだのです。本当は、守って下さるのはイエス様で、守って頂くのは自分たちで、そこに委ねれば平安があるのに、それが逆転していた。そこでは、守られている事を見失ってしまうんです。

 その弟子たちの心を見通されて、イエス様がおっしゃいました、「信仰の薄い者たちよ」と。続けて、つい先日の男だけで5000人にパン5つで満腹にされたこと、さらに4000人に7つのパンで満腹させた御業のことを話し出されたのです。彼らの頭の中にある記憶を、彼ら自身に思い起こさせてあげるように、ゆっくり話し始められたのです。それは決して、弟子たちを突き放す姿ではありませんでした。イエス様は、彼らの戸惑いの中に分け入って行かれたのです。彼ら自身が持っている記憶を一緒に辿って歩かれるように、「あの5つのパンだよ、あの7つのパンだよ。あれだよ、日毎の糧は、私が用意しただろ、それが私だよ」と、彼らの鈍い心を導くように、彼らの真横で、信仰が取っ散らかっている真横で、語りかけて下さったのです。

 この「信仰が薄い」という言葉は「信仰が小さい」という意味の言葉です。ですから全くないわけじゃないんです、しかし小さい。でも主は、その小ささを憐れんで下さるのです。「肝心な時に忘れちゃったのか、でも覚えているだろ、そのはずだろ」と。その御声を聞いた時、弟子たちはもう、自分で気付き始めます、「このお方に信頼すれば、そこに平安があるのだから」と。そして、そこから離れてしまって「自分の力で自分を救おうとするのが、ファリサイ派の教え、サドカイ派の教えだった」と…。「そこに注意しなきゃ、自分たち自身が」とも、気付いてゆけたのではないでしょうか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:50| 主日説教要約