2020年07月26日

説教「神に愛され、召されて聖なる者となった一同」

2020年7月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ローマの信徒への手紙1章7節
1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 私は、「あなたは聖なる者となった」と言われたら、「いえ、とんでもありません」と反射的に答えたくなります。「聖となる」、この言葉は「多くの物の中から、特別に取り分ける」という意味です。その意味が6節に見事に言い換えられていて、それが「キリストのものとなる」でした。つまり、「聖なる者となった」というのは、「キリストのものと取り分けられた」ということです。「純粋で汚れ無き人になった」というのではないんです。汚れもあるし濁ってもいる、弱さもある人が、そうであるのに取り分けられて、「キリストの所有となった」ということなんです。キリストが、私をご自分のものとして下さるために、代金を払われたということなんです。そう気付いたら、「こんな私のためにイエス様が支払って下さった代金のことを、私は知っている」と思いました。「ご自分のものとされるために支払われた代価は、イエス様のお命だった、命が代価だった、それをボクは知っている」と。イエス様は、私どもの弱さも過ちも、今なお過ちを犯して自分中心で人を傷つけ、神を信頼しきれないで生きている私どものこと、つまり不良品である私なんだと十分知っていて下さって、それでもなお「あなたが欲しい、自分のものとするよ」と、十字架の上で、命で代価を払って下さったのです。

 「なぜ、こんな私なのに」と戸惑ってしまいます。そんな私どもに今朝聖書は、その訳も告げていました。それが冒頭の「神に愛され」という一言なのです。「神に愛されたからだ」と。神様は私どもに「あなたを愛した。ただその故に、あなたを自分のものとしたい」と願って下さったのです。

 私どもの価値は、ただキリストによって、どんでん返しにされたのです。罪人であるのに、聖なる者とされた。それが、救われたということです。神様は今朝、「それを受け取れ、ただ喜べ、信じれば、それで良いから」と迫っていて下さっているのです。
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