2020年08月31日

『日々の聖句』2020年8月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年8月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。    (マコ14・38)

 十字架に架けられる直前、ゲッセマネで弟子たちと祈られるイエス様。でも弟子は一人残らず眠ってしまう。睡魔に襲われたから。そんな弟子たちを、それでもなお気遣われるイエス様。死が迫っておられるのに、気になさるのは弟子のことだった。
 私も、ここでこそ祈らねばならないという時でさえ、自分の思いという殻の中で惰眠する。その私をさえ気遣って下さるイエス様。今度こそ従おう、このお方に。


●2(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。    (マタ9・29〜30)

 二人の盲人が主にすがる「憐れんでください」と。主が「わたしにできると信じるか」と問う。「はい、主よ」と即座に答える二人。そして、この御業が起こった。
 主イエスとの遣り取りを通して、御業が起こる。私は、この貴い遣り取りの途中で、自分で中断させてしまうのかも。だから御業まで繋がらないのかも。本気で信じることが、御業へと繋がる道なのに。


●4(火)
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。     (ヤコ1・19)

 主に喜ばれる人になる道が語られる。「人のいう事を聞く人になれ。自分の言いたいことを一方的にまくしたてるな」と。
あれっ、ボクは逆になってるかも。人の言うことは受け入れず、まず「でも」とか「しかし」とか思ってしまう。そして自分の考えが普通で常識的なんだとまくしたてる。怒るのに遅くと言われても、ボクは瞬間湯沸かし器。パッと熱くなる。弁解の余地なしと気付いた。そのボクが変わらなきゃ、主を悲しませるばかりなのかも。


●5(水)
兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。   (ヤコ4・11)

 「よし! この御言葉を、あの人に言ってやろう。あの人にピッタリだから」と思って、アッと気付いた。よく読んでみたら「悪口を言い合ってはなりません」とあったから。つまり、私も悪口を言っているということ、これは私自身への忠告だったと気付いたから。これを隣人に言いつけること自体が、悪口だった。危ない、アブナイ。


●6(木)
わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。      (ヘブ13・13)

 イエス様は、神殿の外で十字架に架けられた。同じように、私たちも福音を実らせるために、「宿営の外に出て」と言われている。そこに行けと促されている。
「外」ってどこ? それは教会の門の外のこと。そこにいる友人や家族のもとで福音を広げよ、ということ。そこが主イエスの「みもと」なのだから。先立って主が、教会の塀の外で伝道しておられるのだから。主を独りにさせておいてなるものか。

●7(金)
むしろ末席に行って座りなさい。    (ルカ14・10)

 「末席に行くって当然のこと。上席に座りたがったりしないよ」と思う。でも、その「末席」ってどこだろう。この世なら、一番後ろとか、入り口近くかな。ふと、集会中の部屋を思い浮かべた。そうしたら、後ろの方に人がひしめいている様子が浮かんだ。きっと皆、奥ゆかしいからかな?
 でも待てよ。どうして「前から座って」とお願いされても、前はガラガラで後ろの席取り合戦するんだろう。もしかしたらそこが居心地が良い「上席」なのかも。はて、イエス様が言われた「末席」ってどこかな。


●8(土)
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。        (1ヨハ2・4)

 「信仰がある」と言いながら「御言葉を守らない者は神に対しても偽善者だ」と聞こえて来て、ドキッとした。心の中で信じていれば、行いは別だと思っていた。
 でも、それは自分に向けての言い訳なのかも知れない。行いを棚上げする詭弁だ。だって今日の言葉が「その人は真理なき偽り者だ」と指摘しているのだから。
 ドキッとしたボクは、まだ立ち帰れるチャンスはあるのかも。まずいぞと分かるから。

●9(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月・山の日)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。     (ルカ3・4)

 洗礼者ヨハネが、「救い主イエス様を迎える前に、まずあなたが歩んでいる道を整えよ」と叫ぶ。「神に喜ばれる者として、御言葉を聞いて行う者としての道を歩め」と。そのためには、まず自分の生活の歩み方を見詰めること。そうしたら誰もが悔い改めから始めないといけなくなるはず。一人だに義しい人はいないのだから。
 毎日、この準備から始めねば。自分が見当違いの道の上を歩いてたら、救い主に会えないぞと、ヨハネは言うのだから。これって脅し? そうだ、愛からの脅しだ。

●11(火)
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ2・7)

 イエス様が降誕された日のこと。臨月のマリアが「宿屋の片隅でいい。相部屋でもいいから」と懇願したのに、一人さえも場所を譲らなかった。だから、家畜小屋で赤ちゃんイエス様は生まれなければならなかったのだ。
 自分の主張や自分主義は、イエス様に場所を譲らない。いつまでも自分が居座ろうとする。まさにそれが罪人の姿。
御言葉に自分を明け渡さない姿こそ、罪人の私の姿なんだ。主の悲しむ御顔が、頭をかすめた。


●12(水)
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。   (ヘブ12・12)

 生活の中で、信仰心の手が萎えてしまうことがある。「もう委ね切れない、倒れて立ち上がれない」と思う日がある。でもその日、神様からのみ言葉が届くのだ「あなたの天の父なる神が、あなたを鍛錬しておられるんだ。今も、その御手の中、ご計画の中に居る。あなたは今日も神の眼差しの中。だからもう一度力を込めて、信じて委ねることに立て」と。
 さあ行こう、今日の歩みへと。鍛錬のバーベルをもう一回持ち上げるんだ。


●13(木)
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。  (1コリ9・19)
   

 パウロは、誰にも縛られず自由に生きる。同時に誰のためにも奴隷のように仕える者になる。なぜ? それは全ての人が、キリストを信じる人に加わって欲しいから。福音も、押し売りしたら追い払われる。上から目線じゃ聞いてもらえない。だから、下からなんだ。自由に下に立てる人が、伝道する人になれるのかも。
 私も、そんな人になりたい。「どうしてそこまでするの」と言われるほどに仕えたい。


●14(金)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。     (エフェ1・13)

 聞いて→信じて→聖霊を受けた。あ、この順序は、私と一緒だ。教会に来た日に初めて福音を聞いた→そして信仰の芽吹きを与えられて育てられ→ついに受洗。その日に、聖霊の注ぎを受けていた。
 手続き万全、私も正当な神の家の子になった。それは、キリストという紋付きを着ているということ。なんて凄い手順を辿っていたのか。ただ恵みのみ、感謝のみ。

●15(土)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。   (ルカ5・10)

 イエス様が、ガリラヤ湖の漁師だったシモン・ペトロに声を掛ける。ご自分の弟子へと、お招きになる出来事が起こるのだ。そのときのイエス様の一言がこれだ。
 ペトロに告げられたのは「安心しなさい」という慰めでなく「信じなさい」ということでもない。人々を神の国に招く人になれ、という〈使命〉だった。キリスト者が主に従うということについて、ここに大事なことが言われている。それはイエス様の使命に生きるということ。それって忘れがちかも。恵みを戴く事ばかり気にしてるから?


●16(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。   (コロ1・18)

 「第一」であられる「御子」イエス様。「すべてのこと」と言うのは、聖書を開いたら本当にあらゆることにおいてだった。天地創造の前から居られ。教会という主の体の頭であられ、また復活においても最初に甦られた方。イエス様を信じるというのは、恵みを願う信仰とは別物だった。
 私が被造物で、僕であることに着座すること、わきまえること。まずそこからだ。


●18(火)
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。   (コロ4・6)

 「塩で味付けされた」ってどんな言葉か気になるなぁ。きっとそれが在ると、聞く相手が「ああ美味しい、嬉しい」と喜ばせる言葉。さらに相手を活かす言葉なのだろう。でも、もしかしたら・・・
御言葉が、「いつも」と言っていることにも心を留めなきゃいけないのかも。自分が言いたい時だけ、余裕がある時だけとか、言いたい相手だけというのでなく、「口から出る言葉すべて」というのが「いつも」ということかも。きっと、そうだな。イエス様を思ったら、そうなさっていたもん。


●19(水)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。    (ガラ1・12)

 パウロは、ガラテヤの信徒に自己紹介する。そこで、自分がなぜ主の弟子とされたかを詳らかに伝えていくのだ。その話の冒頭が、福音をキリストから(上から)直接示されたのだと告げたのだ。学び(下から)という手段によって知ったんじゃないと。
 私もそこは一緒だ。神の言葉(御言葉)を直接上から戴いて、聖霊が上から注がれて「あ、救いがある」と知ったんだ。感謝


●20(木)
その言葉には、権威があった。         (ルカ4・32)

 人々を教えるイエス様。その教えに皆驚いた。その理由が、今朝の一言だ。
 私たちにとっても、イエス様の語られることは「良い話」とか、「教訓として学ぶべきことが多い」とかいうことじゃない。「人生の指針になる」とか「幸せになるための秘訣」とかいうことでは一切ないんだ。
 じゃ、何なんだ。それは、我が君主からの言葉として、全身全霊で聞き従うべき言葉だ。それが権威ある一言ということ。「主よ、お言葉のままに」と答えるべきなのだ。今まで、勘違いして来たかも。


●21(金)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。   (マタ10・30〜31)

 「髪の毛までも一本残らず」数えていて下さるってスゴイと直感する。さらに「どういうことだろう」と思い巡らしたら、本当に有難いと思えて来た。だって、自分で数えられないほどの小さな苦難や、まだ気付いていない小さな重荷も、神様は全部知っていて下さるということだから。
 自分で思い煩わなくて良い。今日、私のすべきことは一つと分かった。ただ頼ること、本気で委ねることなんだと。


●22(土)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。   (フィリ1・27)

 「福音にふさわしい生活を送る」と聞いて、「ボクも当然そうするよ」と思って、アレッと気付いた。「ひたすら」という一言ってどういうことかな、と思い巡らしたから。それは日曜のことだけじゃない。仕事の時も、食事の時も、苦手な人に会う時も、会議の時も、全ての時でということ。生き生きと元気な時も、病む時も、死を目前にしている時もということだ。
 これは、自分の「ご都合信仰」への挑戦となる。これは自分との闘いだ。


●23(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
愛は自慢せず、高ぶらない。    (1コリ13・4)

 聖書の中で「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所だ。世界中の教会で、この御言葉は代々にわたって告げられて来た。それは結婚式の場で、だ。
 愛する生活を始めようとする二人に語られ、また長い夫婦生活をして来た列席の夫婦の耳にも届けられて来た。御言葉の通りに生きれば、本当に愛は実るんだと。それって、愛は心情の問題じゃないということかも。心の話しでもあるけれど、愛って行いの話しなんだ。言葉において態度において、自慢せず高ぶるな、だ。


●25(火)
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。         (1ペト2・2)

 「霊の乳を慕い求める」ってどうやったら良いのだろう。聖書を見たら、私たちは「神の生きた言葉によって新たに生まれた」赤ちゃんだということ。ならば、お乳は生きた神の言葉だよね。御言葉を慕い求めて生きれば良いんだ。
それ無しには生きられなくて、赤ちゃんが泣いて求めるように、貪るように求めるんだ。そうさ、命に関わることだから。

●26(水)
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。   (ヘブ3・13)

 御言葉が私を見詰めて、切迫している私の危機が見えているように「危ない、急げ、今日という日のうちに」と迫って来る。今日を逃したら、あとは罪の奈落の底に落ちて行くんだと。
 僕は自分自身の罪を、こんなに真剣に考えていなかったかも知れない。でも今、急いで、具体的な罪の業を捨て去らねば。罪の泥沼に飲み込まれる前に。


●27(木)
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。    (エフェ5・17)

 この御言葉は、「神に倣う者になれ」「光の子として歩め」「何が主に喜ばれるか吟味せよ」と言われている文脈に告げられていた。それらを無視して歩むのが、無分別者ということ。分かっているのに、知らないように生きるのが、超無分別。
ああ、ボクは無分別が何かを分かっていた。それなのに、知らない振りをする時がある。それって一番嫌われるタイプの人間じゃないか。主に嫌われたくない。自分が変わらなきゃ。今日、変わらなきゃ。


28(金)
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 (ルカ1・44)


 従姉のエリサベトのところに、受胎したマリアが訪ねてきた時のこと。彼女は聖霊によって、マリアがイエス様を身ごもったことを知って喜んだのだ。エリサベトの胎内の子さえ喜びに踊ったと言うほどに。
 私は、彼女たちの降誕を喜ぶ姿に、自分の喜びはあまりにも小さいと思ってしまう。年に一度のお祝いぐらいにしか思っていないのかも。はらわた踊る程の喜びに生きていたい。救い主の到来なんだから。


●29(土)
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。    (ヘブ12・6)

 「天の父がなさる鍛錬って何?」と思う。「病気とか苦難や試練かなあ。どれもキツイしなぁ」と考えて「あっ、そうだ、聖書を見なきゃ」とこの箇所を開いた。
 そうしたら、鍛錬と言うのは私たちが自分の罪と、血を流すほど戦わせることだった。自分の罪と戦い抜く、それも全力で戦うようにボクを追い込むことだった。これまでひどい勘違いをしていた。
 避けてはいけない、逃げてはいけない戦いだから御父が一緒にいてくださるのだ。


●30(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)

       


●31(月)
いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。 (ヘブ13・9)

 異なった教えは、「いろいろ」あると言われている。そんなにたくさんあるのかなと思ったけど、それらは私たちを取り巻いている生活の中で溢れているらしい。その教えは、今まで住み慣れたこの世で語られた教えなんだ。
 聖書を離れまい。心して、この「一書」から離れまい。「一書のみ」の信仰生活を歩みたい。だって、迷わされた道の行き先は、神を嘆かせ、人を傷つけてしまっている場所だから。ボクは、そこに決して戻りたくないんだ!


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 『日々の聖句』