2020年07月20日

説教 「愛の実践の伴う信仰」

2020年7月19日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
ガラテヤの信徒への手紙5章2〜6節
5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。


 5章1節の前半は原文のまま直訳すると「自由へと、キリストがわたしたちを自由にしてくださった」となるそうです。何からの自由かと言えば、@律法から;A「神でない神々」(4:8)から;B「日、月、時節、時などの諸霊」(4:9)からの自由です。「どのようにして自由にされたか?」。イエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じる信仰によって、です。「キリストへ信仰だけでは不十分」と説くパウロの敵対者たちに対して一貫して彼は「否」を唱え、キリストへの信仰の完全性を主張し、「しっかりしなさい」(5:2b)とガラテヤ人を励まします。「しっかりする」とはどういうことでしょうか。まず、「信仰のみ」「キリストのみ」の立場を明確にし、惑わされないことです。そうしながら、またその為にとも言えますが、「待ち望む」(5:5)ことです。イザヤ40章31節には「主を待ち望む者は新たなる力を得(る)」と記されています。これは「主に接して、主の近くで、主の近くで、主の前で」と解釈できます。確かに私たちは行為を通して主の働きを行います。しかし、待ち望むことによって魂は安らぎ、この安らぎの中で信仰は養われるのです。主を待ち望むとは、罪を告白する事、主への全き信頼と依存を新たにする事です。その時、生きるための知恵や力が与えられます。同時に、「義とされた者の希望が実現する」(5:5)日、つまり主の再臨の日を想起する時です。この中で「愛の実践が伴う信仰」が養われます。この信仰によって神と結びつく者にとって愛の実践は自然に起きる聖霊の実と言えます。無意識のうちに生み出している実とさえ言えるのです。計画的・組織的に愛の実践を行う事を否定はしません。しかし、一人ひとりから自然に生み出される愛の実践もあり、その実践を起こすのが信仰であり、その信仰を「主を待ち望む」ことで養いたいのです。主との時を大切にする私たちでありたいものです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 08:58| 主日説教要約