み言葉のパンで生きる365日
2020年7月
(新約聖書編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)
●1(水)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 (ヤコ1・21)
心に植え付けられた御言葉を、あなた自身が受け入れなさいと言われる。その御言葉が、あなたの魂を救うから、と。
私は、自分を救ってくれるものを自分勝手に想像して、無駄に捜し回っていたのかも。力とか、奇跡とか、権力とかが私を救うと思っていたから。でも、本当に私を根底から救うのは全く別のものだった。
それは神の言葉、私を愛する全能者の言葉。その言葉が私の中にあるなら、それに頼る者は満たされる。たとえ病の中でも、困窮の中でも、喜びに生きられる。
●2(木)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 (1コリ15・53)
死者の復活についての福音宣言だ。いつもこれを「葬りの式」の時に朗読して来た。大切な人との地上の別れをした遺族にとって、何よりもの慰めになるから。
人の命は、この地上の命だけで終わらず、「死」は「新しい生命の始まり」だ。だったら、精一杯地上の日々を生きれば良いんだ。今日という日を大切に、丁寧に生きれば良いんだ。その先の心配はいらないから。その先にも希望があるのだから。
●3(金)
しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。 (マタ5・34)
主が山上の垂訓で「一切誓いを立てるな」と言われた。「なぜ?」と思う。もしかしたらそれは、誓う事柄は、結局自分がやりたいと思うことから出て来るからかも知れない。つまりそれは、自分中心な決意なのだ。
主は言われる「神が望まれることを『その通りにします』と従い、神が望まないことを『その通りにしません』と生きよ」と。誓う生活に自己中心が入り込む。聴従から引き離されるのだ。あぶない危ない。
●4(土)
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。 (ルカ6・35)
「何も当てにしないで」というのは、難しい。人から褒められる事、感謝される事を求めてしまうから。だから「良かったね」と評価されたら有頂天だし、「有難うの一つも無い」と不満も起こる。そんな情けない自分に気付いてもいない時さえある。
イエス様がこれを、「敵を愛せ」という文脈で語られているのを知って、ハッとした。評価を求める人が、攻撃して来る「敵」を愛せるはずもない。結局自分を愛しているだけだから。ああ、人を愛する人になりたい。何も当てにしない私になりたい。
●5(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●6(月)
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。 (1コリ1・25)
「神の愚かさ」「神の弱さ」とは何か。それは、ご自身の御子を、罪人が処刑される十字架で死なせること。ご自分の御子なのに、敵である罪人の身代わりとならせること。・・・しかしその身代わりによって、人々を救えるのだ。それが神の賢さ。それを引き受けられたのが、神の強さ。
これは単なる教理じゃない。今朝の一文に、神が人を愛された秘密が凝縮されている気がした。ボクはその愛を賜ったんだ。受洗の日に、この激しい愛を。
●7(火)
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 (黙21・6)
ヨハネの黙示録の最後のほうで、新しい天と新しい地の到来が告げられる。そこで、天の玉座から語りかける神の言葉が聞こえて来るのだ。その貴い言葉の一つがこれだ。
神はいつも、そして最後まで、私に呼び掛け続けてくださるのだ「あなたは渇いていないか? 一人で大丈夫か? 私が傍にいるから私の所においで! 命の水を飲ませてあげるから」と。そのお声は、今日も私を招き、そして支えてくれる。
●8(水)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (1コリ12・26)
「一つ」とは、一つのキリストの体、つまり教会のこと。一人ひとりがその体の「部分」なんだ。そこには昼食を作る「手」の人もいる。支える「腰」の人もいる。ボクは盲腸って言われたらどうしよう。でも、盲腸だって、そこが痛むと体全体が苦しむよね。体全体が、一つの部分のために祈るよね。あ、ちょっと分かったかも。つまり、「教会に所属しているって、いいな」とね。
●9(木)
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 (マタ5・39)
これはイエス様が語られた「山上の説教」。「この世の常識では許される反撃がある、抵抗権もあるだろう。しかし!」と。「悪人に一切手向かうな。下着を取られたら上着も持たせなさい」と。そして「侮辱されて殴られたら、辱められるまま受けよ」と言われたのが今朝の御言葉。
そんなこと誰が出来るのかと思って、アッと思った。イエス様ご自身がそこを歩まれたから。半歩でも良いから御跡を行こう。幸いは、そっちにしかないのだから。
●10(金)
あなたの神である主を試してはならない。 (マタ4・7)
「神様を試すなんて、そんな恐ろしいこと絶対ない」と思って聖書を開いたら驚いた。荒野でイエス様が悪魔に、「御父はあなたを必ず守るはずだから、いっぺん神殿から飛び降りてみたら」と唆されて、それへの返答だったから。私も「神様、ボクを守ってください。守ってくれると信じていますよ」と祈っている時、ちょっと変なことをしているんだ。心の端っこで、守ってくれるかどうか、様子見をしている自分がいる。
「御心が成るように」と一言の祈りをささげて、ただ無心に主を拝もう。
●11(土)
愛は隣人に悪を行いません。 (ロマ13・10)
「愛」と、「悪」という言葉が心に刺さる。それは自分で自身が、「愛がない」ということと、「悪い事をしてしまう」姿を自覚しているから。在って欲しいものがなく、無くていいものが在る。ボクは矛盾のかたまり。
愛するということに心を向けて、どこまでもソコに執着すればいいんだ。愛に留まる人になりたい! 聖書はこの後に「愛は律法と全うする」と続けていた。全ては愛への一点集中だ。まさにその姿は、イエス様のご生涯そのものだ。御跡に従いたい。
●12(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●13(月)
なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。 (マコ4・40)
舟がイエス様を乗せて、ガリラヤ湖を進む。突然、激しい風と波に、舟は浸水し始めた。慌てる弟子たちが船の艫を見たら、イエス様は眠っておられた。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と問い詰める弟子たちに、主イエスが言われたのがこの言葉だ。
現実の苦難の嵐に溺れそうになる私。その時私も、この弟子たちそっくりに叫ぶ。イエス様の嘆きは、私への語り掛けだった。主を困らせ嘆かせるのはボクなんだ。
●14(火)
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。 (ヨハ14・14)
イエス様が捕らえられ十字架に付けられる直前、弟子たちに告別説教をされる。「天の御父と私は一つだよ」と、また「私を信じなさい」と繰り返される。そこに続けて今朝の言葉を言われたのだ。だからイエス様に願うことは、天地創造の神に願うこと。何でも叶えられるはず!
だからこそ、ランプの精に願うような心ではだめ。緊張して言葉を選ばねば。そうだ、整えられた言葉を知っている。それは「主の祈り」、ここに全て集約されている。
●15(水)
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 (エフェ1・23)
御父は、キリストを教会の頭としてお与えになられたと告げられ、その故に「教会はキリストの体なのだ」と言われているのだ。相模原教会の群れに召された一人ひとりは、イエス様の体の一部。なんて嬉しいことと思う。それと同時に、司令塔はイエス様だから、なんて安心と思う。
頭と肢体が一体で動けば、全体が気持ちいいよね。主に従うって、本来気分爽快なことなんだ。そんな教会大好き!
●16(木)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 (マタ6・3)
「施しをする」というのは、当時の人々にとって、必ずしなければならない律法の一つだった。それを守れている事を誇らないように、いや更に自分自身も気付かないほど無心で成せと言われているのだ。
小さな奉仕でも、人からどう見られるか気になるのは、結局誇りたくて、褒められたいと思っていること。いやらしい根性だなぁ。そんな私の根性が、全部イエス様にバレている。そして「いい加減にやめなさい」と言われている。私への直球の御言葉だ。
●17(金)
今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです。 (ロマ5・9)
「信仰義認」の中核が語られている文脈に今日の御言葉がある。イエス様が私の罪の贖いのために十字架で死なれ、それによって私は義とされたということ。
でも思うんだ。信仰義認を理解することと、感謝して、そこに喜んで生きていることとは別問題だって。自分を見て、そう思うんだ。頭デッカチで、かえってどうしようもないほど信仰者の姿から離れている。ボクはただ「イエス様、感謝です。あなたを愛しています」と生きる者でもありたい。
●18(土)
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。 (ヘブ5・2)
「大祭司」とは、神と人との間に立って、人間のために神に執り成しをしてくれる働き。そして、大祭司の中の大祭司が、主イエスなんだと言われている。それも人々に嘲られ、弟子にも見捨てられ、十字架で死なれた最も弱さを味わわれた方が、私の側に立つ大祭司になって下さるのだと。私は、ただこのお方に全てを打ち明ければ良い、どこまでも私の味方となって下さる方に。私の大祭司だから。
●19(日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)
●20(月)
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 (ルカ13・9)
イエス様の例え話。3年間世話を続けても、まったく実が生らないイチジクの木(それは私のこと。信仰の実りがないこと)。そのイチジクの木を見て、畑の持ち主(神のこと)が園丁(イエス様のこと)に「切り倒せ、役に立たない木なのに、土地がもったいない」と。しかし、園丁は執り成して「もう1年だけ待って下さい」と願い、今朝の言葉を続けたのだ。
私はいつまで園丁のイエス様に執り成させ、待たせ続けるのか。いつまで忍耐させるのか。一粒でも良い、実を生らせたい。
●21(火)
二人の目が開け、イエスだと分かった。 (ルカ24・31)
エマオ途上で二人の弟子が御復活の主に出会う。でもそれがイエス様だと気付けない。その夜、宿泊した家で食事の時、イエス様が心の目を開いてくださって、初めて「目の前におられるのは、甦らされたイエス様だったんだ」と分かったのだ。
見ても、見えていない。ただ主が私の信仰の目を開いてくださる時、復活が分かるんだ。きっと復活だけでなく、十字架も、罪も・・・、全てイエス様が目を開いてくださることによって、だ。何から何までお世話になって、信仰生活があるんだな。
●22(水)
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 (1ヨハ4・15)
神はご自分の霊を私たちに分け与えて下さったよ、とヨハネは言う。だから私たちの内には既に神が留まっていると言われているのだ。だから信仰者は本当は「イエス様は御子なる神だ」と分かっているのだ。
自分の知識で難しくしないで、素直になれば神が分かる。それなのに、その素直さから、大人のつもりでいる僕は、いつも迷い出してしまう。幼子に、戻りたい。
●23(木・海の日)
わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。 (1テサ5・8)
私たちはキリストによって光の子とされているから、とパウロは語りかける。だから顔を上げ、闘いのために胸当てをして、兜だってかぶろう、と。でも「だから信仰の闘いを闘うぞ」と言うのかと思ったら、「身を慎んでいよう」だなんて。これって、急にトーンダウンしてるってことなの? いいえ、大声出す人より、慎み深い人の方が本当は強い。それが光に属する人だ。
●24(金・スポーツの日)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 (ロマ12・21)
「悪に負ける」ってどういうことかなと思って聖書を開いたら、悪を持って悪に返すこと、つまり復讐だった。テレビで「やられたら十倍返しだ」って大流行したけど、その生き方は間違いなんだ。ハッキリ「悪」なんだ。復讐は復讐を招くから。
「善をもって」って何かなと聖書を見たら「敵が飢えたら食べさせること」だった。この世とキリスト者の姿は、違っていて当たり前なんだ。「百倍返し」って笑っているのはテレビを見てる時だけにしようっと。
●25(土)
心を騒がせるな。神を信じなさい。 (ヨハ14・1)
この直前にイエス様は、ペトロが御自分のことを「そんな人は知らない」と否認することを予告しておられる。つまり御自分が一番心騒がされる状況におられるのに、心配しているのは御自分のことじゃない。そうではなくて、この先で主の十字架に直面する弟子たちのことだなんて。
どこまでも一人ひとりのことを思ってくださり、最善の言葉を届けて支えようとして下さる。そのイエス様に、私も今日を守られているんだ。だから踏み出そう。イエス様が言われた御言葉の中を。
●26(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●27(月)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 (マコ4・8)
イエス様が、「御言葉」という「種」を懸命に蒔いて、人々が聞いて実ることを待っておられる姿を、種を蒔く農夫の姿で例えられた。(イエス様は例え話をたくさんしてくださる。でもいつも例え話の方が、ちょっと難しかったりするんだよなぁ・・・)
今日の例えも良く読んだら「お前も実を結ぶ良い畑になれ」という教訓じゃない。御言葉を蒔く人・イエス様の忍耐深い愛の話だ。「待っているから、実れよ」と。
●28(火)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 (ヘブ11・1)
これは、教会学校の子供たちも暗唱する聖句。それほど大切で、これからの人生を支える御言葉なのだ。この聖句のあとに、「見えない将来も主が共におられる」と信じた父祖たちの生涯が数えられる。アベル、ノア、アブラハム、ヨセフ等々。
見えない未来を神に預けること、この神関係こそ「信じる」ということなのだ。私も神が計画してくださる未来こそ最善だと委ねて歩もう。今日という日が、そこへと向かう一歩だと心に据えて。
●29(水)
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。 (ヤコ4・8)
神様が近づいてくださっていないように思えていた時、私が神様の所へ行こうとしなかったからということなのかな? 私が神を避けて彷徨っていたからということ?
だったら神に近づくってどうしたら良いのだろう。確か「神は我々と共におられる」って方だと知っている。ならばボクはただ振り返れば良いのかも。自分のことばかり見ていた視線を、反対に向ければ良いのかも。もしかしたら、それが祈る瞬間なのかも。よし祈ろう、顔を主に向けて。
●30(木)
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 (1テサ2・12)
神が私たちに贈り物をしようとしてくださる。それなのに欲しくない者のように、この世にどっぷり浸って自分の欲のままに生活をしている。きっと贈り物の中身を、ちゃんと知らないからかも。
贈り物の箱には、神の国の家紋が入った指輪と、家紋が付いた羽織が入っている。その指輪をはめて羽織を着たら、神の国の正式な子供となる。それは御国の栄光の相続人になることだ。破格の贈り物なんだ。知らぬ顔でいられようか!
●31(金)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 (1ペト1・23)
「新たに生まれた」って、私に向けて言われている。それも、「朽ちない神の言葉によって生まれた」ということだよと。
生まれたってどういうことだろう、と思い巡らして気付いた。神様から「お前の罪は赦された」と、神と私を隔てる罪の壁を取り去る言葉を戴いた時に、私は神の子に生まれたということ。受洗の日に起こっていたこと。そんな私の栄養は、やっぱりいつも、いつまでも、神の言葉だね。