2020年04月26日

説教 『イエスはこれらの人々をいやされた』

2020年4月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章29〜31節
15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。


 この礼拝準備のために、今朝の箇所を最初読んだ時、私はすぐ「あれ」と思いました。「これって直前の14章に書かれていることと、全く同じ、ダブっているみたい」と。そして、「だとしたら説教も同じになる、こりゃ参ったな。コッソリここを飛ばしてしまおうかな」とね。でも悪代官にも三分の理で、名だたる註解書もこの箇所を飛ばしているんです。さらに、イエス様のご生涯を同じように書き留めたルカ福音書では、この出来事を省いているんです。だから「私だって飛ばしても良いんじゃないの」と思ったわけで。でもそう思いつつ、ふと考えたのです。マタイがこれを書き留めたのは、わざわざ書き残したということで、つまりそこには何か訳がはず、と。そう気付いたら「それは何なんだろう」と改めて聞きたいと思って、祈りつつこの箇所の準備を、始めたのです。

 今朝の冒頭、29節には「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた」と、ありました。どこからガリラヤまで来られたのかなと思って、直前箇所を辿りましたら、それは異邦人だけが住む町「ティルスやシドン地方から」ということでした。その土地で、奇跡の御業をなさって、一行はガリラヤまで移動して来たのです。その一行の後を、たくさんの異邦人も一緒に付いて来たと思われます。ガリラヤ湖畔というのも、異邦人がたくさん住んでいた土地ですから、このときイエス様を取り巻いていたのは、もしかしたら殆どが、神様のことを知らない異邦人だったのかも知れません。そういう人たちが、病や、身体に重荷を抱えた家族や親友を、背負って来て、30節、「イエス様の足もとに横たえた」ということなんです。それもこの「横たえた」という言葉は、他の聖書箇所では、「投げ出した」とか「投げつけた」という、ちょっと乱暴な言葉なんです。つまり、イエス様に対する恭しさは無く、どちらかというと「治せるなら治してみてくれ。お前に出来るかどうか、見たら敬おう」という関わり方なのです。確かに人々は、今まで苦労して来ました。重い病の家族がいると、自分だって、苦しみますよね。愛しているからです、当人だけが苦しんでいるなんてこと、ないんじゃないですか。同じように重荷を背負うんです。それが、愛するということじゃないですか。愛するなら、その愛する他者のために、自分自身も何かを削るんです。単に看病することだって、時も財も、そして体力も心も削る。だから一緒に、心も体もクタクタになったりするんじゃないですか。愛するということは、自分自身を削ることだからです。そういう人たちが、一緒に重荷を背負い合って、神様のことを良くは知らないけれど、イエス様の前にやって来たのです、「あなたに、癒せるだろうか」と思いつつ、でした。
その人々を見て、イエス様は小言の一つも言われず、今までなさって来たと同じように、人々を受け入れ癒されたのです。そこになんの躊躇も在りませんでした。普通だったら、イエス様から見るなら、「奇跡だけ求めて来るお前たち、ご利益宗教のようにたかって来るだけなのか。いい加減にしてくれ」と言いたくなる場面じゃないですか。私、毎朝、御言葉に聴いて祈る時間をいただいていて、そのあとに朝ご飯を食べるのですけど、その時見ているドラマがあるんです。今やっているシリーズは、グータラ亭主が登場して、何度も嫁さんに迷惑をかけて、いつまでも小遣いをせびる。見ている私がイラっとします。その亭主に、ついに嫁が言ったんです「いい加減にして、私にせびるばっかりで、もう付き合い切れない」とね。見ていた私の胸もスッとする。同じことを繰り返す理不尽な相手に「いい加減にしろ」と言うは普通の反応じゃないですか。それなのにイエス様は、繰り返してご利益を求める人々との出来事なのに、今までと同じように、まったく躊躇もされる様子もなく、全ての人を癒されたのです。

 ここはガリラヤですから、当然、群衆の中に、ユダヤの民もいたでしょう。異邦人じゃないけれど、でもそのユダヤの人々も、まるで神を知らない異邦人に逆戻りしたようになっていて、イエス様のことを、自分に都合の良い奇跡をする人としか見ないで、恵みをせびったのです。そうであるのに、でした。彼らは、イエス様から怒られもせず、呆れられこともなく、何故なのか丁寧に、恵みをもらえたのです。30節、「イエスはこれらの人々をいやされた」とある通りに。何故だろうと思いつつ、そんな人々の姿を思い巡らしていた時にです、ふと気付いたことがあったのです、それは、「この群衆は、私に似ている」と。私もかつて、神様から具体的な生活に関わる、数えられる恵みを受けた時、心からの感謝をしました。自分の道が拓かれた時も、苦しかった人間関係で和解を得た時も、娘の病が癒された時も、祈りが聞かれた時々に「神は生きておられる、この私にも関わっていて下さった」と嬉しくて、神様が共にいて下さることに喜びが溢れて来ました。でも、それなのに、その心の躍動がまだ鎮まらない内にです。次の試練が襲って来た時に。また初めのように狼狽えて、神様をじっと信頼していることが出来なくなって、森の木々が風に揺れ動くように動揺し始めて、ついに、神が居られることを知らない者かのように、「もうダメだ」と思い出す。そうなったら「御心を成して下さい」なんてとても言えず、祈れず、ただ奇跡をせびる者のように「早く、どうにかしてくれ」と、恵みだけを求める者になっていたのです。それも最悪なことに「こんな具体的な問題は、神様だってどうにもならない」と、神を見くびり始めて、それでいて、苦難が解消しないことに「いつまでこの辛さを抱えないといといけないんですか」と、神様に文句を溜め込んでしまう。もう勝手なことを思い放題、言い放題で、神様との関りの中に生きている信仰者ではなく、神を知らない異邦人のようになってしまっていたのです。そんな姿に、私はこれまで何百、何千回もなって来ました。信じて雄々しい姿だったのはほんの瞬間で、不信と不満の思いに身を焼いていた姿が、人生の殆どだったのです。まさに私こそ、神を知らない者に、繰り返し逆戻りしていたんだと気付いたのです。しかし。その時、そう気付いたのと同時に、でありました。

 イエス様は、詰めかける人々に「いい加減にしてくれ」とは一言も言われず、そんなこと微塵も思われずに、全ての人を癒されたのだと知って、改めて「それが伝えたかった『特別なこと』だったのだ。それ自体が、良い知らせだったのかも」と思ったのです。この出来事は、繰り返し神を知らない者のようになる私どもに、それでもイエス様は、何度でも、初めてのように慈しみを注いで下さるお方だ、ということではありませんか。イエス様を取り囲んだ人々を、決して突き放しもせず、裁くこともなさらない。何度でも丁寧に、御手の業を一人ひとりに尽くして下さる。それも、ためらうことなしにです。つまり与えることだけに必死になられて、御自分への見返りを計算されないんです。繰り返し不信仰になる私どもに対しても、なのです。イエス様は神の御子なのですから、天の高見から人間を見て、「熱心な信仰者になったら救ってあげよう」と、なさっても良いはずなのに、そうはなさらなかったお方だということですよね。それどころか、神の居場所であるはずの「天の玉座」から、イエス様は飛び降りて、私どもの傍に低く降って来て下さったのです。神を信じ切れないという、神ご自身にとっては敵であるような者のところに降って、私どもの足もとで、私どもに跪くようにして、私どもに仕える方となって下さったということではないですか。真の神は、不信仰な罪人を裁く神ではなく、罪人に仕える神であられたのです。罪人の僕になられることを選ばれて、降って来られた御方なんです。それが、私どもの救い主イエス様だったのです。「そういうお方だったから、ここでも全ての人々を癒された」と分かって、さらに「だからだ」と思いました。このお方が、とうとう行き着いた場所は、全ての罪人に対して「いい加減にしろ」とは言われず、繰り返し「あなたのために何でもしてあげよう」と、命さえも与えて救おうとされた、十字架での死という場所だったんだ、と。イエス様は、私ども罪人を真に癒すために、とうとう命さえも与えて下さったのです。

 信じることにおいて、同じ失敗をしてしまう私どもであります。苦難と、現実に背負う生活の苦しみに、神様に委ねることが、何度も揺さぶられてしまう。そんな私どもであっても、なのです。主イエスは私どもに、繰り返し語り掛けて下さるんです、「私はあなたを見放さない、何度でも恵みを注ごう、繰り返し注ぐから」と。皆さん、辛抱して相手を信じているのは、私たちの方ではなくて、イエス様の方なのです。御子なる神の方が、忍耐して私どもを信じ続けていて下さるのです。「あなたを愛しているから」と言って、傍を離れないでいて下さるのです。「あなたにとって必要なことは、私がすべて分かっているから、大丈夫、それをしてあげよう」と言って下さるのです。

 『イエスはこれらの人々をいやされた』、今この福音を聞くことが必要なのは、私ども自身ではないでしょうか。それは、前代未聞の、長くて苦しい日々を過ごしているからです。だから、さあ今朝、み言葉を受けましょう。そこで、「一緒に礼拝が出来ない私どもの痛みも、主が、必ずいやしてくださる日が来る」と、希望をいただきましょう。そして今週も、私どものために躊躇なく、最善をしてくださる主イエスを見上げて、ご一緒に、一週間の日々を過ごしてゆこうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:48| 主日説教要約