み言葉のパンで生きる365日
2020年5月
(新約聖書編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)
●1(金)
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。 (マコ5・22)
ヤイロの娘が、死にそうだった。その町の近くにイエス様がやって来られると知ったヤイロは、一目散にやって来る。群衆をかき分けて、イエス様の足もとに来て、ひれ伏して願ったのだ、「助けて!」と。
ふと考えた「私は、誰の所に駆け寄っているだろうか」と。自分の遣り方でジタバタした後に、やっと祈り始める。ヤイロのように一直線にイエス様にすがっていないかも知れない。真の神が傍におられるのに。
●2(土)
(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 (1コリ13・7)
「愛の賛歌」と呼ばれるカ所だ。十三節にもわたって延々と「愛とは何か」が語られる。いや「この愛を生きよ」と勧告されているのだ。厳しい命令なのだ。
私も結婚式の時、必ず読んで来た御言葉。一言一言かみしめながら、「あなたがたはこれから一層忍べ、信じ合え、互いに耐えよ」と。人生バラ色って顔をして聞く二人に「本気の勧告なんだぞ」と言って来た。「ここに留まるなら生涯、幸せは続くから」と。夫婦関係以外にも然りだ。
●3(日・憲法記念日)
主日礼拝説教
全員「家庭礼拝」
辻川篤牧師
●4(月・みどりの日)
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。 (使8・15)
「サマリア」とは、ユダヤの人にとっては忌み嫌った犬猿の仲の人たちが住む場所。そこにもペトロとヨハネが遣わされる。そして自分たちと同じように神の霊が注がれるようにと、その人々のために祈ったのだ。同じ神の民とならんがために。
最も嫌った隣人なのに、最も大事な恵みを主に願うなんてスゴイ。好きな人だけ愛するボクとは大違いだ。敵を愛し迫害する者のために祈ることに本気に生きる。本気の信仰がボクには足りなかった。
●5(火・こどもの日)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。 (ルカ15・7)
九十九匹の羊を野原に残して、迷子の一匹を探す羊飼いの例え話。その一匹とは、罪のゆえに神様のもとから離れた人のこと。「自己中心で歩くお前だ」と言われている。そして、その一人を探し出した時の御父の喜びの大きさを告げている。
「我は罪人、迷い出た一匹」と気付けた者にだけ、恵みがある。義人ではなく、罪人と悔いた者が、恵みの受け取り手だ。
●6(水・振替休日)
イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 (マコ3・5)
目の前に、片手の萎えた男が「癒されたい」と願いながら立っている。でも人々は、「律法によれば、今日は治療も禁止の安息日だ」と、心を頑なにしている。それを見たイエス様が、愛することを優先しない人々の心を悲しまれたのだ。
私も自分の「こうあるべき」が「愛すること」の上に立つ時、イエス様は悲しんでおられる。私の傍で、私を見詰めながら・・・
●7(木)
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 (1ペト1・22)
イエス様から真理を受け取り、魂を清められたら、そのあとは「恵みを感謝」と言っているだけでは終われない。キリスト者には、責任が生じる。それは貴い責任。それが、深く愛し合って生きることだ。
神様から戴き物をするだけでなく、応答(お返し)をする。それは親しい間柄。さらに戴き物が高価だと分かる人が、お返しも大きい。懸命に愛して生きよう。
●8(金)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 (ルカ6・46)
イエス様を怒らせた。それはなんと、主の弟子たちだった。
一番御言葉を聞いて学んでいるはずの者なのに、一つも生き方が変わらない。相変わらず自分の価値観の中を生きていて、それなのに「自分は少しは良い人間だ」と思い込んでいる。そういう弟子たちに向かって激しく怒られたのだ。「なぜ御言葉を生きないのか」と。
キリスト者の私に言われている気がしてハッとした。襟を正して生き直さねば。
●9(土)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 (1コリ6・11)
あなたは今や、主の十字架によって義とされていると言われる。でもこの「しかし」が気になって聖書を見たら、以前は不義を行い強欲で、人を悪く言い、物を奪っていたと告げられていた。ヒヤッとした。
日常生活が、救われた以前の姿のままだと気付いたから。申し訳ない、それは十字架の死を無にする行為だから。救われたはずの私が、主を悲しませる。今日こそ生き方を変えよう。聖とされた姿に。
●10(日)
主日礼拝説教
「会衆参加の礼拝」再開予定
辻川篤牧師
●11(月)
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 (マタ18・22)
ペトロがイエス様に、「赦すのは一回や二回でなく、七回(つまり完全にという意味)ですね」と物知り顔で言う。「よく分かっているね」と褒められると思った。しかしイエス様は「七の七十倍(完全×無限にという意味)だよ」と諭されたのだ。
自分の傲慢さが、赦すことにさえ現れる。「これだけ赦したら充分だ」と勝手に一線を引いて満足している。イエス様はその一線を叱られるのだ。無限だ、と。
●12(火)
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。 (ヘブ12・14)
「すべての人との」と言われる。自分と気の合う人とだけではない、避けている人や気に食わない人とも、ということ。なんて大きな目標だろうか、と思ってドキッとした。聖書を開いて続きを読んだら「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」とあったからだ。
単なる努力目標なんかじゃなかった。このように生きないと、主を見失う。大変なことになるんだ。最も失いたくないお方を失うんだ。真剣な招きなんだ。
●13(水)
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。 (2コリ5・21)
「神と和解させていただきなさい」と語られた後に、このみ言葉が続く。神様との関係が断絶していたからということ。神様にすがりたいことがいっぱいあるのに、関係を崩した原因は、全て私の神への背き。だから和解が必要だった。でも! そのために必要なことを、神の側がして下さったと、今日のみ言葉は告げているのだ。
「我が主」と親しく呼べることは、普通の恵みじゃない。破格の恵みだったんだ。
●14(木)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。 (ヨハ2・25)
イエス様が多くの奇跡をなさったので、たくさんの人々がイエス様を信じた。その出来事の直後に、この御言葉が告げられている。まるで「お前たちは、自分の欲していることを満たしてくれる召使のような魔術師を求めているだけだ」と見透かされている。イエス様を見ても、主ご自身を喜ばずに、奇跡だけを求める心が見抜かれている。「奇跡を起こす主ではなく、十字架の主にこそ従いたい」と祈り求めたい。今日が、信仰再出発の日だ。
●15(金)
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 (エフェ6・17)
悪魔の策略に対抗して戦うための「神の武具」が並べられる。胸当て、盾、兜も。その中に、剣も挙げられるのだ。戦いのために万全の準備が提供される。それは、襲い来る悪は強敵だからだ。
それにしても神の言葉の剣って、どういう風に使うんだろう。御言葉を誰に突き刺すんだろう・・・。そうだ! 悪は私の内に起こる自己中心の思いや自己正義化の誘惑。そこに御言葉を突き刺すんだ。「御言葉に従え」と切りつけるのは私の傲慢。ン? 悪の本陣、我が内にあり?!
●16(土)
ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。 (使7・60)
キリストを伝えたステファノが、暴徒化した群衆の投げつける石によって殺害される。そのとき彼は主に祈って叫んだのだ、「この人々の罪は、自分が何をしているのか知らないで犯している。彼らをも私は愛している。だからこの罪を彼らに負わせないで」と。そして殉教したのだ。
イエス様の福音を伝える時、石つぶてを受けることになるのかも。言葉や態度による拒否が。でもその一人を愛したい。その一人が救われることが、喜びだから。
●17(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●18(月)
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 (マタ2・10)
イエス様がお生まれになったことを示す星が輝いた時、東方の博士たちは喜びに沸いて旅に出た。真の王の中の王に会いたくて、拝みたくて。
たった一つの小さなしるし。夜空の星という小さなしるしを見ただけで、喜びに溢れた彼ら。それに比べて私は、たくさんの主の言葉を受け取っている。御言葉が主ご自身として迫って来る。しっかり受け取らなきゃ。博士たちは馬小屋に駆け込んだけど、私も聖書に駆け込まなきゃ。
●19(火)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。 (ガラ3・18)
善い行いが出来たら神様から恵みを戴けるのではない。ただ神が「与える、無償で与えたいから」と約束なさったことを、神が守るというゆえにだ、と告げられているのだ。神の側の自由な決定権。人間の側のどんな条件にも依らないのだ。
だから「罪人であるにもかかわらず」恵みを戴けるのだ。その嬉しさはきっと自分に何の条件も見い出せない貧しい人、罪まみれの人にこそ大きい。今日、罪を直視しよう。恵みの貴さが味わえるから。
●20(水)
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 (ルカ6・21)
「エッ、泣いている人が幸いなんて、どういうこと?」と驚いて聖書を開いたら、イエス様の『平地の説教』(マタイの山上の説教の並行箇所)のカ所だった。全く貧しくさせられ、生きる支えが自分の中に何も無い人は、神にのみ頼って、そこで神様から恵みを受け取る人になると言うのだ。
委ねるしかない人が、恵みの最も近くにいる。自分の非力を見詰めて、手を主に挙げよう。「主よ、主よ」と生きよう。そこで賜る恵みに、笑みがこぼれるから。
●21(木)昇天日
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。 (1ヨハ2・17)
「世にあるものを愛するな、欲するな」と戒められる。なぜなら世にあるものは、全てはかなく過ぎ去って、消えるものだから、と。ならば何を求めて生きるのか。それが、神の御心・神の言葉を生きることなのだ。それは、永遠の命に繋がる道。
2つの道が目の前にある。自分の欲が望む道と、神が望まれる道。今日という一日も、その選択の連続だ。踏み出す道を見誤るな。祈りつつ、考えて、選べ。
●22(金)
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 (使2・32)
イエス様の十字架の死とご復活を語るペトロの説教での言葉だ。その中で「このイエスを」と言われた「この」って「どの?」と思って聖書を読んだら、旧約の時代から神によって告知されていた救い主の到来のことだった。預言が、「このイエス」に成就したのだと言われていたのだ。
私もずっと救いを望んで来た。その救い主の到来が、あなたにも来たよと告げられる。改めて「私の救い主よ、イエス様!」と仰ごう。望みの実現がここにあるから。
●23(土)
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。 (ルカ12・33)
イエス様が「思い悩むな」と語られる話しの中にある一つだ。財産への思い悩みについて、驚くことに、まず「売り払って施せ」と。自分のためでなく隣人のために使ったら、天に財産を蓄えたことになるから、と。その宝は誰も盗めないから、と。
人は老い先も豊かでいたくて蓄えるのだろう。でも主はそのやり方は「思い悩みを蓄えているだけ」と言われる。隣人を愛したら、そこに豊かさは溢れるからと。神と人を愛する、人生そこに尽きるのかな。
●24(日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●25(月)
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。 (使12・5)
ヘロデ王はヤコブを殺し、ペトロも投獄した。この危機を前にして、教会は祈ったのだ。打倒ヘロデに、拳を挙げて決起したのではなく、神に委ねて祈ったのだ。
教会は、信徒たちで埋め尽くされていただろう。大音声だったか、静寂だったかは分からない。でも思いは一つとなって主に向かっていた。そこに神の御業が起こったのだ。祈りこそ武器だ。神の武具だ。
●26(火)
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 (コロ3・8)
不従順な者として歩んで来た生き方を、「捨てよ」と言われる。神の怒りがあるからだ、と。そして、その生き様のこれらだと示されたのが、今朝のみ言葉だ。
一つひとつを見て考えた。「どれもが、心の奥にいつもへばりついていて、私の心と一体になっているものばかりだ」と。あっ、と気付いた。「これらを捨てることは、結局私を捨てること。古い私を脱ぎ捨てることなのかも」と。新しい私に、日々新しくされねばならないんだ。
●27(水)
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 (ヨハ6・9)
男だけで5千人の大集会に、集めた食料はごく少し。そこで弟子が主に言ったのだ。「どうしようもないでしょ」、と。
目で見た物を常識的に判断して生きる方法がある。でも信仰の生き方は、そこにはない。微塵もない! 信仰生活とは、まずイエス様に「私はどうしたら良いですか」と祈って、聞いて、従う生き方。私の心よ、そちらを選択するんだ、今日も!
●28(木)
わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。 (ルカ10・16)
イエス様が弟子たちを教えて、悔い改めない町の人々のことをこのように言われたのだ。「私の言葉を拒むのは、父である神ご自身を拒む者なのだ。神を拒んで軽い罰で済むはずがないぞ」と。
主の言葉(聖書の御言葉)と、自分の常識が持っている言葉・生き方とを、天秤に掛けている場合じゃない。むさぼるように御言葉を探して、自分のものにしなければ。神様から「お前は私を拒む者」と烙印を押されるなんて絶対イヤだから。
●29(金)
すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベタイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 (マコ1・20)
十二弟子のゼベタイの子ヤコブとヨハネを呼ばれた時、立ち上がった二人は財産も地位も家も失ってしまった。それでもイエス様に従う方を喜んだのだ。
主は彼らを招く時、彼らが一切を捨てると信頼しておられたのだろうか。もしかしたら彼らの決意というよりも、主が彼らを信頼されるお心が一途だったのかも知れない。主に呼ばれた全てのキリスト者には、それと同じ信頼が寄せられている!
●30(土)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 (2テモ1・7)
福音を伝えるために、キリスト者は苦しみを負うことになる。しかしその者にこそ神の力が降る。聖霊が降るのだ。「臆病になるな、分別を備えよ。愛を持て。その全てを、聖霊が与えてくれるから」と。
神の力であり、神ご自身である聖霊がキリスト者に降った。それは、私にも。そしてそれは、神の目的を果たすためにだ。主を証し、福音を伝えるには勇気がいるから。主よ、私の小さな口をも用い給え。
●31(日)聖霊降臨日
ペンテコステ礼拝説教
辻川篤牧師
礼拝後、ペンテコステ祝会予定