2020年04月12日

イースター礼拝説教 『恐れながらも大いに喜び』

2020年4月12日(復活祭)の説教
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書28章1〜8節
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

 主イエスのご復活を祝う朝です。だから今日は喜びに沸くはずの、イースター礼拝なんです。それなのに、経験したことのない寂しさが、この礼拝堂にはあります。いま、私の前には、いつもの親しい顔が誰もいない。藤森神学生の顔が、目の前にポツンとあるだけ。あ、藤森さんの顔が、どうと言うことではありませんよ。今日はいつもにも増して、愛らしい顔をしていますから。でも今日の礼拝は、教会成立にとって最も大切な「聖徒の交わり」が、つまり信じる者たちの群れが、消え去っているんです。会衆のいない礼拝堂を見ている。だから激しい寂しさを感じるのです。相模原教会がまるで死んだようになっていて、恐ろしささえ、感じられてなりません。人間は時に、へばりつくような恐ろしさを、抱えることがあります。それは、先行きの見えない、経験によって見通すことのできない現実の中で、それが不安となって、その不安が恐れを産むのかも知れません。それを今、私は礼拝の中で感じているのだと思うんです。それは私だけではなく、きっと今、ご自宅で、一人で礼拝をしておられる相模原教会の全ての兄弟姉妹が、不安と、そこから来る得体の知れない恐れを、経験させられているのではないでしょうか。そういう私どもが、しかしそういう中にある主日に、イエス様の御復活の知らせを聞こうとしているのです。私は思います、今年のイースターほど、イエス様からの「喜びの知らせ」を聞くことに、飢えている年はないと。今年ほど、私たちを、恐れから解放してくれる知らせを、復活の福音を、切望している年はないのではありませんでしょうか。

 現実の中にある「恐れ」は、あらゆる「不安」につながっているように思います。計画していたことが順調に進むと思っていたのに、突然その計画が閉ざされたら、途方に暮れて不安になる。また、今まで通りの生活をしていれば平穏に暮らしてゆけると思っていたのに、その平穏が突然消えたら、先行きが見えなくて、不安に包まれるのじゃないでしょうか。そこに言いようのない恐れも、起こって来るのです。そして、そういう不安と恐れの最たるものが、命の終わりである「死そのもの」なんだと思うんです。死に対する恐れは誰にとっても同じでしょう。死んだ先が誰も分からないからです。それは自分の死だけでなく、愛する人の死別にこそ、思わされるのかも知れない。その現実を前にしたら、人は、恐れに覆われてしまうではないでしょうか。

 イエス様が十字架の上で死なれた日から、3日目のこと。マグダラのマリアと、もう一人のマリアが、イエス様が葬られた墓に向かっていました。「死んでしまわれたから、何もかもおしまいになったけれど亡骸にでもすがれたら」と、死者が眠る、お墓に行ったのです。でも、でした。そこには、祭司たちが雇った兵隊がいたのです。見張りの番をしていた兵たちです。死んだイエス様の遺体を、弟子たちが盗み出さないように、用心したからです。その時、でした。その墓に天から、主の使いが降って来たのです。そして、墓の上に立ったかと思ったら、入り口を塞いでいた巨大な石をゴロンと、脇へ押しやった。石はまるで重みなど無いかのように、横へと転がる。その上に、天使は腰掛椅子のようにヒョイと腰かけて、墓の中を、丸見えに見せたのです。墓の中に在るべきものが、無いということを見せるためにです。死なれたイエス様のむくろが、そこには無いということを、人間の目に見せるために。墓を塞いでいた入り口の巨石が、取り除かれたのです。驚愕して震え出す番兵たち。訓練された兵隊なのに、体に力が入らない。全く予期していないことが、目の前で起こったからです。4節、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあった通りでした。彼らは、恐れに押しつぶされたのです。自分の経験にも、この世の常識にも、どこにも入らない事が起こったからです。何よりも在るべきはずの死者の亡骸が、墓で朽ちていくだけのものなのに、そこに横たわっていないんです。死の向こうには何も起こらないはずなのに、そこになお出来事が進んでいたのです。何があっても動じることのない屈強な兵士たちが、気を失って死人のようになるほど、恐れに押しつぶされたのであります。

 その恐れは番兵だけでなく、少し離れた所にいたマリアたちも同じでありました。だからです、天使が2人に向かって言ったのです、5節、「怖れることはない」と。この「恐れ」という言葉は、番兵たちが「恐ろしさのあまり」とあった恐れと、同じ語源の言葉です。つまり番兵が押しつぶされた「恐れ」と、天使が、マリアたちに言った「恐れ」とは、同じものだったということです。それは、神ご自身が、マリアたちも気絶してしまいそうな恐れを抱いていたことを、知って下さっていたということです。死が終わりでないなんて理解できなくて、自分たちが生きて来たこの世とは別の世界のことが起こっているようで、そこに自分たちが今、立ち合い、今触れているようで、不安になって、恐れに包まれたのです。それを神ご自身が天使を通して、「恐れがあるよね、分かっているよ」と言って下さったということです。そしてその上で、「しかし」と言うようにして伝えて下さったことがある。それが、主イエスの御復活の知らせであったのです、7節「あの方は、死者の中から復活された」と。それは、神様からの、人間の常識をひっくり返す、それも、人間を恐れから解放させる知らせでした。神が宣言されたのです、「死んだ先は分からないから、不安しかないと思っていたあなたがたよ。しかし、御子イエスは、その死を、虚無の塊、恐れの塊を打ち砕かれたのだ」と。

 それを聞いたマリアたちは、墓を背にして走り出しました。だから最初わたくしは、この説教の準備をした時、「マリアたちは復活の知らせを聞いて、恐れも吹き飛んで、喜びに満たされて駆け出した」と、そう思ったのです。墓に来る前は、暗い顔をして、トボトボやって来たけれど、復活の知らせに、墓から帰る時は、喜びに輝く顔をして走り出したと考えたら、そうだったら胸のすく思いがするじゃないですか。それが分かり易いんじゃないですか。それなのに、でした。よく読んでみたら、ちょっと違ったんです。そんな単純な、ハッピーエンドの物語では、ないようなんです。聖書が物語るのは、人間が望むようなハッピーエンドじゃなくて、聖書には、人間の真実の姿が物語られるんです。そこにこそ(人間の真実の姿にこそ)、福音は届くからです。それが8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」という姿だったのです。直訳調で読むならば「恐れを抱えて、同時に大きな喜びがあって」であります。つまり恐れが吹き飛んだのではないんです。恐れがパッと消えた顔をしているんじゃないんです。楽しいミュージカルなら、今まで暗い顔をしていたマリアたちに、パッとスポットライトが当たって、その瞬間、輝く顔で、歌い出す、踊り出すということにもなるでしょう。それが、観客の望むことだからです。でも。 人間の本当の姿は、違ったのです。彼女たちは、恐れを抱えたまま走り出したのです。そして、この「恐れながらも」とある「恐れ」とは、まさしく番兵たちが死人のようになった「恐ろしさ」と同じ言葉であり、またマリアたちが、天使から「恐れるな」と言ってもらえた、その「恐れ」と同じ言葉であったのです。つまり彼女たちは、恐れを捨てて走っているんじゃない、抱えたまま走っているんです。恐れが消え去っていたのではなかったのです。しかしその彼女たちに、ただ一つだけ、墓に来た時とは違っていたことがあって、それが、ご復活の知らせを聞いたという出来事であったのです。それが、恐れを抱えている彼女たちに、喜びも与えたのです。それはもはや、恐れだけに支配されているのではない、ということです。マリアたちは、恐れを抱えつつ、しかしそれを覆うほどの大きな喜びに、すっぽり包まれていたということなのです。

 彼女たちにはこの先、恐ろしい困難が山ほどやって来ます。マリアたちはイエス様が捕らえられ十字架で殺された経緯を、傍で見て来ましたから、そのイエス様を神の御子だと告白したら、自分たちも迫害を受けることを知っているんです。そのことを考えたら不安で、胸が締め付けられそうになるでしょう。そこに恐れが起こる。それは消えてくれたりはしないんです。でも、です。マリアたちはこの日、一つのことを、確実に悟れたのです。それは、あのイエス様の十字架は、そこでの「死」は、それで終わりではなかったということをです。究極の恐れの源であった「死」を、自分たちの常識ではもうどうしようも無いと思っていた不安の源を、打ち砕いたお方がいるということをです。死は終わりではない、それは「新しい生命の始まりだった」ということを、マリアたちは受け取ったのです。イエス様は確かに死なれた、しかしそのお方が「死人の中から復活された」と、天使から聞いた時、恐れの源である、死を超えるお方を知ったのです。その時、たとえ人生の中で、どんな大きな恐れを抱えても、そこに共に立ち、さらにその向こう側にさえ立たれたお方が居られるということを、受け取ったということではありませんか。彼女たちは信じたのです「恐れはある、しかしその恐れは、もはや私を支配しない」と。そして決意したのです「恐れを打ち砕いた主イエスの側に、私も立つ。主を信じて、復活の勝利の中に、私も生きる」と。

 今朝、そのご復活の知らせは、私どもにも届いています、「恐れながらも 大いに喜んで走れ」と。主は、「復活の私を信じなさい。私から喜びを受けよ」と招いておられるのです。私どもは今、誰も経験しなかった未曽有の事態に、先行きが見えず、自分の命さえ脅かされているような不安を、抱えさせられています。まるで恐れが、支配者のように振舞っているように見える。しかし主のご復活を祝う朝、私どもは顔を上げるんです。苦難と死を引き受けて下さり、そこに共に立ち、しかしその只中から復活された主イエスを見上げるのです。2020年の復活祭に、私は改めて、「ご復活の喜びそのもの」を戴いている思いになっています。復活の教理を学んでいるんじゃない、復活についての勉強しているのでもない。生身の恐れに介入して下さり、そこで私どもと一緒に歩んで下さるイエス様を見上げさせて頂いているんです。救い主は、私どもの弱さと、罪と、恐れの中に介入して下さる神であられます。私どもの恐れの只中に、喜びを運ぶためにです。それを戴けたら、私どもはたとえ恐れを抱えつつも、喜びの支配の中を歩み出せるのです。さあ行きましょう、与えられた今週の歩みへと。復活された主イエスを仰いで。
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