2020年03月31日

『日々の聖句』2020年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2020年3月

(新約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
心は燃えても、肉体は弱い。    (マタ26・41)

 十字架につけられる前夜、ゲッセマネで悶えつつ祈られるイエス様。その傍らで弟子は一人も起きていない。一人も祈っていいなかった。それを見て「一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」と嘆きつつ、続けられた言葉がこれだ。喝を入れられたのだろうか、深い嘆きか。
 「お前は一時も私と祈っていない」と、御言葉が突き刺さる。願い事しかしない祈り、心が伴わない形式的な祈り・・・それらは主が共にいない祈りだ。祈りにおける惰眠は、誘惑に陥る入り口なのに。


●3(火)
神は、・・・あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。    (2コリ9・8)

 コリントの人々に献金を募る。惜しまず与える人になれと、勧告しながら。でもその直後に、あなたの献げた手に、神が更に恵みを満ち溢れさせるほど入れて下さるから、と言ったのが今日の御言葉だ。
 献げる人の手は空にならない。多く献げてもなお溢れて来る。それは神の奇跡の補充! 一度経験しなきゃ。いや一度じゃ勿体ない。生涯、神の業を味いたい。


●4(水)
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。   (ロマ6・14)

 キリストと共に生きるということは、私の罪の償いのために身代わりに命を捨てたイエス様と結ばれて生きるということ。もはや罪の支配下に居ないのだ。もはや恵みの真下に立つのだ。御言葉は、それにふさわしく「生きよ」と語りかける。
 イエス様の十字架の死を無駄にするまい。あなたに所属する者として、恵みの直下を晴れ晴れ歩きます。誰から見られても、あなたを愛している者と分かるように、十字架を誇って、今日を生きます!


●5(木)
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。    (ヨハ12・36)

 ユダヤの当局者たちがイエス様を殺す計画を進めている。その中で、ご自分も十字架の死を覚悟してゆかれる。それでも群衆は、何も悟ろうとしない。その人々に向けて、主が言われたのがこの言葉だ。
まるで「光である私を信じてくれ、あなたと一緒に居る間に信じる者となっておくれ。もうすぐあなたの傍にはいられなくなるのだから」と叫ぶ声に聞こえる。まるで「お前を失いたくない、早く私の所に来るのだ」と必死に招く声に聞こえて来た。


●6(金)
罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう。     (ルカ7・49)

 罪深い女がイエス様に近寄り、涙で御足を濡らし、髪の毛で拭い香油を塗った。その女の心を見て、イエス様が「あなたの罪は赦された」と言った時、同席の人が動揺して今日の言葉を言ったのだ。罪の赦しは、神のみが出来ることだったから。
 この時の人々の問いは、真実を射抜いている。罪を赦したイエス様こそ、まことに神の御子だから。あとはそれを受け入れるだけで良い。そうすれば目の前の方が、救い主となるのだから。皆気付いてはいる。でも次の一歩で、生死が分かたれる。


●7(土)
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。    (1ペト3・18)

 「罪のため」とは、人々の罪のために。いや、私の罪のためということ。「ただ一度苦しまれた」とは、私の罪の身代わりに十字架で死なれた苦しみだ。正しい方・イエス様が、正しくない者・罪人の私のために死なれたと、今日の御言葉は告げる。
 淡々と語れているが、尋常ではないことが告げられている。淡々と聞き流すまい。頭の中で受け取るまい。神が死なれたのだ! 私の心の中心で受け取らねば。


8(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師




●9(月)
あなたが信じたとおりになるように。    (マタ8・13)

百人隊長の僕が中風に苦しんでいた。そこで隊長がイエス様に癒しを懇願する。それも、遠くから、一言治るように命じて下さるだけで充分ですからと。その信仰を見てイエス様が言われたのがこの言葉だ。そして僕は癒された。
「自分が信じたとおりになる」ってすごい。でもそれは、自分が願った通りになるという自己中心の話じゃない。私の願いが御心と重ならねば。もしかして信じるとは「私の願いは、あなたの願いが成ること」と祈ること。ふむ、禅問答のようだ。


●10(火)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。    (1テモ2・4)

 パウロが「信仰によるまことの子」と愛したテモテに、励ましの手紙を書き送る。その中で、為政者のために祈れと勧めた。それはキリスト者が平安に信仰生活を送れるため。いや何よりも先ず、神が彼らの救いを望んでおられるからだ、と。
 私も為政者のために祈ろう。「政治にあたる者が真理と公平をもって御心を行うことが出来るように」と。あ、これは礼拝で祈っている牧会祈祷。そこに心も乗せねば「為政者が救いを知るように」と。


●11(水)
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。   (1テモ1・15)

 イエス様が来られた、十字架で死なれたーその事実をテモテに語り直すパウロ。その出来事の一切は、ただただ罪人のためだったのだ、と。ここに真理があると。
 これは聖餐式のたびに語りかけられる招きの聖句だ。「ああ、私のため、それも罪人の私のため」と信頼し切って、恵みの座に出てぬかずこう。「そのまま受けよ」と私に差し出される十字架の恵みを。


●12(木)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。   (ルカ2・11)

 エルサレムの寂しい郊外で、夜通し羊の番をしていた羊飼いに、天使が神様からの知らせを告げた。良い知らせなど一度も貰ったことがない貧しい人生。そこに、誰も貰ったことのない最高の知らせが届いたのだ。あなたの救い主が生まれたと。
 この知らせは、今日私にも届く知らせ。いや、友人にも家族にも届いている。ただその声の方に、顔を向ければいいのだ。「あなたがたのために」とは「わたしのために」なんだと。気付けばいいのだ。それを伝えなきゃ。あの人に、私の大事な人に。


●13(金)
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。     (1ヨハ4・12)
   

 神は目に見えない。でもヨハネは「見える」と言う。どこで? 人と人とが互いに愛し合う姿においてだ、と。
 私が隣人を愛して重荷を負い、かつ私も隣人に愛されて重荷を負われて生きるなら。神が私の内に生きておられると伝わるんだ。今日、そんな私でありたい。


●14(土)
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。   (ロマ1・16)

 あらゆる人を救う「神の力」がある。何も功績がない人も、貧しくても、神に背いた罪人さえも救う「神の力」がある。ただ「信じたい、信じます」と告白するだけで、神の子とされる「神の力」がある。「福音」にその力がある、と告げられていた。
 神の力って、天変地異の奇跡じゃないんだ。人を罪から救うために注がれる。救いの良い知らせ(福音)そのものが、出来事を起こす。あっ、それこそ奇跡なんだ。


●15(日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月)
舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。           (ヤコ3・8)

 ヤコブは、同じ人間の口から神賛美と、隣人への呪いが出ると嘆く。それも一旦口から出た言葉は、人に死をもたらす毒に満ちていると。さらに、そういう舌を制御できる人は一人もいないと言うのだ。
 一体私はどうすれば良いのか。ただ分かることは、自分がその舌の持ち主だと悔いることだ。いや具体的に「申し訳なかった」と隣人に赦しを求めること。毒を出しっ放しにすることこそ、弱さだから。


●17(火)
十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。   (マコ6・7)

 イエス様が、弟子たちを村々に派遣される。神の国の知らせを告げて伝道させるために。そのとき決して一人では行かせられなかった。二人ずつ組にされたのだ。
 私も御用を授かって遣わされる。伝道であったり、奉仕の場であったり。でもそこでのイエス様の思いは「一人で抱えるなよ。必ず二人でするのだよ」ということ。ならば奉仕をするにしても何にしても、まずパートナーを見つけることから始めなきゃ。一人舞台は、御心じゃないんだ。


●18(水)
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべきお方です、アーメン。    (ロマ1・25)

 この御言葉の直前に、あらゆる罪の業が数え挙げられてゆく。その最たるものが、造り主の代わりに造られたものを拝んだことだと言われる。そして今朝の御言葉が宣言されるのだ。これはコッチを見よ、真の造り主を、という強い迫り。同時に、自分の欲、自分の遣り方、自分の腹という偶像を見るなとの迫りでもある。
「コッチへ」の標識を、確かに見た。だから「あなたこそ造り主」という道へハンドルを切らねば。アクセルもその道で踏め。


●19(木)
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。   (ヤコ4・7)

 神に従って生きることと、悪に対抗して歩むことは一対の事。そうすれば悪の誘惑は近づかなくなるからと勧められる。一方だけではダメだ!と。
 御言葉に従いたいという歩みをしているつもりだけれど、一方の足は自分のしたいことをしてしまっている。自己中心という悪の道を、片足は進みたがる。ああ、《片足信仰》だから誘惑が押し寄せ続けるんだ。片足を取られて、ひっくり返るんだ。


●20(金・祝日)
(マリア)「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」   (ルカ1・38)

人間の思いの世界では想像することさえできなかった処女マリアの受胎告知。でもマリアは、天使から「神にできないことは何一つない」と聞いた時「お言葉どおり」と受け入れた。理解できたんじゃない、ただ委ねたのだ。
 信じて歩き出すというのは、理解できたとか、学び終えたとか、納得できたとか、そんなこととは別次元にあることかも。
そうだ、信仰は神の世界にあること、委ねる世界にあることなんだ。


●21(土)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。   (エフェ5・21)

 「互いに」というのは妻と夫だ。妻よ、主なる神に仕えるように夫に仕えよ、と。また同時に、夫よ、主が御自分の全てをお与えになったように妻を愛しなさい、と。
 これが命じられるということは、つまりこの通りにできていないからなんだ。神様が、「この通りに生きていないから、家の中に辛さが起こるんだよ」と知っていてくださる。だから招かれる、「この御言葉に足を乗せて生きよ、この通りに生きてご覧、あなたの家に幸が生まれるから」と。


●22(日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月)
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。         (使2・38)

 聖霊を受けたペトロが、群衆に語り出した。「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、神は救い主となさった」と。それを聞いた人々はざわめき「どうしたら」とうろたえる。そこへペトロが告げたのだ「悔い改めて、赦されよ」と。
 「私が御子を十字架に架けた張本人」と知ることが、救いへの唯一の道。2千年前も、今の私も同じ。それ以外救いの道はない。しかしただそこで、救いは成る!


●24(火)
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。   (ルカ2・47)

 イエス様が少年の頃のこと。神殿で律法の学者たちを相手に問答をした。そのイエス様の言葉に、大人の皆が驚いたのだ。
 「そんなこと当たり前。聖書の言葉なんだから、神の御子が良く知っていて当たり前。だって、御父が命じた律法なのだから」と思って、ハッとした。「正にそうだ。聖書の言葉は神の御心そのものなんだ」と気付き直したから。神の思いがここにある。ここで御心を聴ける。そうやって聖書を開き続けよう。ワクワクして開こう。


●25(水)
愛することのない者は、死にとどまったままです。   (1ヨハ3・14)

 愛弟子ヨハネが語るー主イエスが命を捨ててまであなたを愛したことを知っているだろ。愛そのものを知ったはず。ならば兄弟姉妹を愛せるはずじゃないか。それなのに未だ愛さないのなら、あなたこそ「死」んだまま、つまり「罪」のまみれだ、と。
 愛され、救われた喜びに生きる者は、その姿が生きる姿に現れるのだ。兄弟姉妹を実際に愛する姿になる。自分が受けたことを喜ぶだけで、与えない愛などないのだから。形に現れないない愛はないのだから。形にならない信仰も、実はないのだ。


●26(木)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。   (ヤコ3・6)

 大きな森さえ焼き尽くす小さな火。それが「舌」だと言われている。それは口から出る言葉だ。賛美もする口だが、不義の世界にも属する。だから恐ろしい。
 失敗する人をたくさん見て来た。単に処世術としてではなく神の戒めとして受け止めねば。舌だけでなく、メールで失敗した人もたくさん見て来た。恐ろしい。


●27(金)
わたしたちの本国は天にあります。  (フィリ3・20)

 自分の腹を神として、自分の生活しか考えない人を見つつ、パウロは勧める。あなたはあのような人たちであってはならない、と。あなたはこの世の人ではなく、神の国の人、神の家族の一員なのだから、と。だからふさわしく生きよと勧めるのだ。
 「私の本国は、この世じゃない。国籍は天にある。神の国の人間だ」と自分に言い聞かせるべき日がある。それは、信仰に生きる時に生じる苦難の日。そして、信仰の道を逸れている罪の日も。その日「我が本国は天にあり」と自分に告げよ。


●28(土)
主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。   (ヨハ13・14)

 イエス様が十字架で死なれる前日のこと。弟子たちの前にひざまずいて、奴隷の仕事である〈洗足〉をなさった。しもべの姿となられたのだ。そして「私のようにあなたもしなさい」と言われたのだ。
 イエス様は「私の通りに実行するなら、幸があるよ」と招かれる。私は幸せを求めはするが、見当違いの所で探していたのかも。ここにあるのに。洗足の実行の場に。


●29(日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)



●30(月)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。   (2テモ2・13)

 キリストの立派な兵士として、苦しみを忍び進め、と言われる。そのあなた方の頭であるキリストご自身が、栄光を得させて下さるから、と。キリストの勝利こそ揺るぎない真実だから、と。
 信仰に生きる苦労を抱えているか?それならば、キリストの兵士だ。逆に生きづらさを避けて、この世の流れに身を任せていないか? 身を任せるべきはキリスト、つまり主の御言葉。寄りかかるものを間違えたら、大転倒するぞ。危ないぞ。


●31(火)
むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。   (コロ2・8)

 「だまし事」って何だろうと、聖書を開いたら「人間の言い伝えにすぎない哲学」だった。つまり、十字架の恵みと復活をナンセンスだと片付けるこの世の知識のことだ。その虜にされるな、と警告する。
 「ボクは大丈夫、信じてるから」と思って、ハッとした。「私は騙されない」と思う人が、オレオレ詐欺に引っ掛かるらしい。この世の常識は、信仰という宝を奪い取ろうと身近に忍び寄る。だから、いつも聖書で確認しなきゃ、「この道は、信仰の道か? この世の知識か?」と。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:00| 『日々の聖句』