2020年01月26日

説教 『その言葉は世界の果てに』

2020年1月26日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編19編1〜15節
19:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
19:2 天は神の栄光を物語り
   大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え
   夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく
   声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に
   その言葉は世界の果てに向かう。
   そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように
   勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち
   天の果てを目指して行く。
   その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ
   主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
   主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き
   主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
   蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し
   それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から
   どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し
   支配されないようにしてください。
   そうすれば、重い背きの罪から清められ
   わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
   心の思いが御前に置かれますように。
   主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。


 キリスト者でなくても、「この世界には大いなる方が居られるんだ」と感じるんじゃないでしょうか。そういう神様の知り方は、単にイメージではなく、具体的なものとなります。なぜなら神様は、御自分の思いを言葉にして伝えて下さるお方だからです。それが御言葉なのです。

 この詩人は、だからこそであったのかも知れません。お言葉によって御心を知らされているのに、その神様を悲しませる者であったことに気付いて愕然としたのです。14節「あなたの僕を、驕りから引き離してください」と。本当は、私どもの人生には、神様が取扱説明書を渡して下さっているはずなんです。御言葉は、信仰と生活との誤りなき規範なのですから。それなのに自己中心で生活を動かそうとするから、生活が壊れるのです。それは、神ご自身の悲しみなのです。だから詩人はもう一度、自分の目を神へと上げて言ったのです「あなたの僕を、驕りから引き離してください」と。その時でした、詩人の口からこの詩の最後の節に記された言葉が漏れ出たのです、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と。

 私は、人は驕って過ちを重ねてしまうのに、神様は贖って(取り戻して)下さるお方だと分かった上で、もう一度最初からこの詩を読み直してみました。その時、詩人が感じていた、本当の天の輝きに触れた気がしたのです。それは「この世界は全て神が愛された世界、それ以外の物は一つもない」という喜びです。そういう「神は全てを愛された」という響きが、5節、「世界の果てにまで向かう」のです。その「世界の果て」とは、単に地理的場所のことじゃありません。人を傷つけ、自分の正義ばかり主張して、神の御言葉を捨てて歩いている、そういう私どもがうずくまる場所です。その「世界の果てに向かって」、神の言葉が届くのです。「あなたは私の愛する人。どうしてそんな所に居るのか、私の傍で生きよ、愛されて生きよ」と、神の御声が届いて行くのです。
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