2019年12月15日

説教 『神の驚くべき冒険』

2019年12月15日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
フィリピの信徒への手紙2章6〜11節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


 洗礼者ヨハネを授かるとのお告げを天使から受けた祭司ザカリアは、その言葉を受け入れることができませんでした(ルカ1章5〜25節)。イエスの母マリアも受胎告知の時、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」(ルカ1章34節)と応えています。人は理屈や常識に縛られており、たとえ祭司であっても神の言葉を受け入れることは容易ではありません。しかし、マリアはすぐに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と告白し、その後、あの「マグニフィカート(マリアの賛歌)」(ルカ1章46〜55節)を捧げています。この賛歌は非常に高尚で、貧しいうら若き女性が作ったとは思えない作品であるようです。その源はサムエル記上2章のハンナの賛歌にあり、詩編の中のいくつかの賛歌にも似ているようです。しかし、これは間違いなくマリアの告白です。彼女の信仰が神殿や会堂で聖書が朗読されるのを何度も聞く中で養われていたと考えることは十分にできます。「苦しいこと」(サムエル上1章11,16節)という不妊の女性ハンナの言葉とマリアの「身分の低い」(ルカ1章48節)という言葉は、ギリシア語では同じ意味として訳されるようです。苦しさ、弱さの中で、主の許に平伏し、祈る。これが礼拝であり、そこで聞く御言葉が私たちの信仰を養うのです。ハンナとマリアの共通点はそこにあり、そのようにして養われた信仰によって、神の選びを受け入れることができたのでしょう。「受肉」を「人間を愛する神の驚くべき冒険」と言った人がいます。神が人になったとしても、人はそれを受け入れるか…。それは愛ゆえの冒険でした。憂い・弱さ・苦しみを持ったまま、主の許に行き、御言葉を聞く。そのようにして養われた信仰によって、「神の冒険」を受け入れる。その時、必ずやマリアの賛歌が、私たちの賛歌となるでしょう。そして、クリスマスは確かな喜びの時となるのです。
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