2019年12月08日

ウェルカム礼拝説教 『見つけ出された私』

2019年12月8日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ルカによる福音書15章1〜7節
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 イエス様が例え話をされます、「100匹の羊を持っている人がいて、1匹を見失った」と。そのことに気付いた羊飼いは、家から飛び出して探しに行くのです。羊飼いにとっては決して無くしてはならない存在だったから、その1匹を探しに行くことが、当然のように最優先にされたのです。その羊飼いの姿が、神様の心だと、イエス様は告げたいのです。

 たった1%の存在に心を傾ける神様の愛し方は、いつも人に誤解されます。私たちは当然のように、正しい人、善良な人が、そういう人だから神様に愛されると思っています。自分勝手で、神様の思いから遠く離れて歩んでいる人は、神に愛される人だなんて思えない。さらに神様が、そんな人のために何かをしてあげたりすると、「どうしてそんな人のために」と批判だってしてしまう。でもイエス様は、そういう人間の批判を知っておられつつも、人間の抗議を全部引き受けて下さって、その上で言われるのです、「この羊飼いがまさに私だ。この羊飼いの姿が、神の愛し方なのだ」と。

 この羊飼いの愛し方を喜んで受け取ったのは、この1匹だけではないですか。神様の目から見られたら、私も本当は、この見失われた羊なんだと思います。さらに、「本当は99匹の正しい羊なんて、いない」と。誰も彼もが、どんどん迷い道の方に歩き出して、そのことに自分で気付けなくて、アッと気が付いた時にはもう闇の中で、身動きできなくなっているのかもと。しかしなんです、そんな見失われた羊の私どもに、イエス様は繰り返し語りかけられるのです「もしもあなたが、見失われそうになったら、私は必ず捜し出しに出かけるから。私が、あなたを捜し出すから」と。あなたを愛したいという理由だけで、あなたを見つけ出そうとして下さるお方が、この世界には本当に居られるのです。この世界は、そのお方の思いで満ちているんです。そのお方に委ねて歩んでみられませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:12| 主日説教要約