2019年12月31日

『日々の聖句』2019年12月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年12月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(日・アドヴェント第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●2(月)
あなたたちが安らぎを得られますように。      (ルツ1・9)

 ナオミは、夫と二人の息子に先立たれた。その悲しみの中で、息子の妻たち(その一人がルツ)に、断腸の思いで、実家に帰って新しい嫁ぎ先を探すように勧める。その最後に加えた言葉がこれだ。
 本当は別れたくないし、独り残されるのは寂しかっただろう。でも相手のことを最優先に思ったナオミ。それも快く出発できるように、祝福の言葉も添えたのだ。
隣人を想うとは、自分は断腸の思いを抱えて、なお相手の幸いを願うことなんだ。私の今日の一歩もココに合わせたい。


●3(火)
わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませてください。  (王上8・58)

 ソロモンが神殿を完成させ、主に祈り終えると、全会衆を祝福して叫んだ。その言葉がこれなのだが、不思議な感じがする。祝福というよりまるで祈願だから。
 私も「私の心を主に向けさせ、御心を歩ませて下さい」ということが、願いと同時に祝福ということなのか。あ! 正に「然り」だ。この願いは必ず聞かれ、これを実現していただいた先には、祝福された生活があるから。祈り方が分かったぞ!


●4(水)
はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。    (ルツ2・13)

 未亡人となったルツが、姑ナオミと一緒にベツレヘムに着いた。彼女にナオミの一族のボアズが声を掛ける「苦労を全部知ってるよ。主なる神が、御翼のもとに逃れて来たあなたに報いてくださるように」と。その言葉に答えたルツの応答がこれだ。
 隣人の一言が本当に慰めになるのだなぁ。「分かっているよ」という一言と「主の守りがあるように」という言葉が。私もそんな言葉で、いつも隣人に接したい。


●5(木)
この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。  (イザ29・13)

 主が神の民に向かって嘆かれた。いや怒っておられるのだ、「口で、主よ、主よと言いながら、心は離れている。形ばかりの民だ」と。
 口だけの信仰って、在るんだ。形だけの信仰って在るんだ。熱い信仰者のようで、まったく冷めていることが在るんだ。なんだか一つひとつにギクッとするのは何故だろう。敏感に心が反応する今の内に、早く主に立ち帰ろう。手遅れになる前に。


●6(金)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。     (箴3・12)

 「主の懲らしめを避けるな」と告げられた御言葉に直結して、今日の聖句が語られていた。
 愛されることは、四六時中求めている。苦しむことは、いつも避けている。でも、「ああ辛い、きつい」と思うことも、神様の御手の中でなら、愛されている事の中に入っているんだ。神様の為さることは、すべてが愛から出ているから。
ならば、今日の祈りも「御心のままに」ですよね。ちょっとドキドキするけど。


●7(土)
あなたの道を主にまかせよ。  (詩37・5) 

 どうも、この詩人の周りには「悪事を謀る者」がうじゃうじゃいるようだ。「いら立つな」と言われているほどに。また「不正を行う者」が甘い汁を吸っているようだ。「うらやむな」と言われているほどに。そのような中で「あなたの道を主にまかせよ」と告げられていたのだ。
 あなたはイライラしなくて良い、主が計画されるから、その道こそ最善だからということなんだ。「あっ、主の道を行くことこそ、甘い汁なんだ!」 あれ今、変な言い方したかな?


●8(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●9(月)
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。  (イザ60・19)

 バビロン捕囚の後に、民の回復が預言される。そこで神の輝きは、昼の太陽よりも夜の月よりも、あなたを明るく照らすと告げられるのだ。もはや沈むことさえない太陽に、あなたの神がなられるのだと。
 あらゆる事に優って主に望む事は「私を照らす光でいて。もう離れないで」ということ。そのとき私が弱くても、闇に打ち勝てるのだから。ふと、そのために降誕されたイエス様を思った。罪と死の闇に勝たれた主を。預言が出来事となったことを。


●10(火)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。   (イザ55・7)

 背きへの裁きのあとに、祝福への回復が預言者イザヤによって語られる。
 「これは背きの民イスラエルへの言葉」として傍聴していては駄目だ。「神に逆らう者」の箇所に「いつも自分中心になる私」と入れねば。「結局自分を神としている我」と入れねば。そうすればやっと「主に立ち帰るならば」との招きが胸に響くから。そこに憐れみを受ける道が開くから。


●11(水)
(ダビデの詩。賛歌)地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。   (詩24・1)

 詩人は、世界のあらゆる物の所有者が神であると歌う。それは、一切のものは主が造られたからだと。被造物を、一つひとつ大切に築き上げたのは神だからと。
 自分が所有されているということを、詩人は嬉しそうに言う。それは自分で自分を守るより安心だと知っているから。それも神に所有されるとは、神が「私の宝物だ」と誇っておられると知っているから。私の命も神のもの。それは、私も、神の誇りの一人だということ。嬉しいね。


●12(木)
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。  (エゼ18・21)

 神がエゼキエルを通して、背きの民に「悪人の死を喜ばない、むしろ生きることを喜ぶ。だから私のところに立ち帰っておくれ」と告げられる。
義しい裁判官の神が、判決をエコ贔屓して曲げるなんて。その人は、御心に背いた張本人なのに。そう腹を立てた直後、神に背く悪人ってボクだって気付いて、ふと神の愛って何なのか分かった気がした。


●13(金)
その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。       (創6・9)
   

 地上に悪が満ち、神は人を造ったことを後悔して大洪水を計画される。しかしその中でたった一人神の好意を得た人がいた。その人こそ「無垢な人」、つまり「神と共に歩んだ」人・ノアであった。
 神様から好意を得るのは、一つのことなんだ。それは一心に御心に向かうことだ。本当の「無垢」って、神様だけを思う人なんだ。私には無垢さがない、自分の事ばっかり思っているから。それで良いはずない。


●14(土)
七年目ごとに負債を免除しなさい。         (申15・1)

 たとえ正当な貸し借りでさえ、七年目が来たら全て免除しなければならない。それが主の掟! そう生きるのなら、貧しい同胞がいなくなるから。さらに自分も、全ては主から与えられていたことを思い出し、立ち帰れるから。
 何でも手に握りしめて「これは私の物」と主張して来た。でも神様は「違う。恵みによってあなたに貸している物だよ」と言われる。だから握る手を緩めよう。それも、七年に一回で良いのだから。それにしても、なんと握っている物の多いことか。


●15(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●16(月)
強く、雄々しくあれ。  (ヨシュ1・6)

 モーセの死後、主はヨシュアを選ばれた。それはヨルダン川を渡って、約束の地に民を導き入れる務めのために。そこで「強く、雄々しくあれ」と言われたのだ。
 私なら「とんでもない、私になど無理」と断りたくなる。今までも小さな奉仕さえ、言い訳をして「できません」と言ってきた。でも今朝、「強く、雄々しくあれ」と言われた先に「あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる」とあったのを見て、思いが変わった。従う先にのみ主がおられる。ならばどうして留まれようか。


●17(火)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。  (王上8・60)

 ついにエルサレム神殿が完成し、ソロモン王が祭壇の前で長い祈りをささげた。その締めくくりの祈りの言葉がこれだ。それはソロモンの願い、民の願い、そして主ご自身の御心が三重となった言葉だった。
 私もこの祈りを、礼拝ごとに兄弟姉妹と一緒にささげていた。それは主の祈り、「御名が崇められますように」と。いや主日だけでなく、事あるごとに祈り続けるのだ。私の口癖となるまでに。


●18(水)
主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。  (サム上12・24)

 民を導いて来た祭司サムエル。歳を取り、世を去る日が近づいた。そのとき民に告別の辞を残すのだ。それは、主を畏れ心を尽くして主の言葉に従うなら幸があるという、代々変わらぬ教えだった。その最後に「本当にそうだっただろ」との思いで、今朝の一言を加えたのだ。
 今日「行け」と言われた道を行こう。「行くな」との道に入るまい。確かに今までそこに幸があった。そう思ったら聴従の思いが新たになった。ちょっと悟れたかな。


●19(木)
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。  (ヨブ2・10)

 家族、財産、栄光をすべて突然失ったヨブ。自らもひどい皮膚病に七転八倒する。その時にこの一言を言ったのだ。幸福も不幸も主の御手からのものなのだから「いただこうではないか」と。
 私の祈りはヨブとはまったく違う。「幸福だけ下さい、もっと下さい」と言い続けている。そういう自分に気付いて赤面した。「御心のままに」と口で言いながら、神に指図していたと気付いたから。心から従う人になりたい。気付けた今日から!


●20(金)
主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えてくださる。    (箴2・7)

 主から賜る「力」と「盾」が、誰に与えられるか述べられる。「正しい人」「完全な道を歩く人」だと。そしてこのあとには、主の見守りは、主の慈しみに生きる人の道に注がれるのだと、続いていた。
 力が欲しい、盾も欲しい、見守られたいと思う。でもその一つも手にできないなら、私が「戴ける場所」に立っていないからかも。主の方こそ「あげたいのに」と私を探しておられるのに。御言葉の通りに生きようとする者が、全てを手に入れるのだ。


●21(土)
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。    (イザ31・5)

 慰めの主の言葉。しかしこれは新バビロン帝国に攻められた時、エジプトに助けを求めた民に告げられたのだ「人間に頼るな、主に立ち帰れ」との警告と共に。
 なぜ人間は神に助けを求めないで、目の前の被造物に頼るんだろう。信じていないからかも。神様の方はこんなに熱心に守ろうとして下さっているのに。こんなに大事にされているのに。不信心は我なり。そんな私のために、御子は来て下さった。


●22(日・第4主日・クリスマス礼拝)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●23(月)
わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。          (ホセ6・6)

 イスラエルの民が神に背を向けた。彼らは神殿で礼拝をしていなかったわけではない。しかし他の日には、異教の神々も拝んでいたのだ。神殿に行くも、形だけの礼拝、形骸化した信仰になっていたのだ。
 二股信仰って、神様への背信なんだ。神様のほうは「あなたと私」という相思相愛でいたいのに、人間のほうが二股では、神は悲しむよね。嘆くし、怒るよね。ああそれが裏切りの姿、罪人の姿なんだ。


●24(火・クリスマスイブ)
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。  (詩37・24)

 主に従う人=無垢な人=主に望みをおく人の人生がどのようなものになるのかを語る詩人。それは、苦難が無いというのではない。たとえ倒れても、傍におられる主が捕らえて下さる人生ということ。
 「主なる神が共にいてくださる」、それが最善で最大の恵みだと告げる詩人の声に、「その通りだな」って、今朝思う。だって今日はクリスマス・イブなんだもん。今宵は、御手に捉えてくださるために御子が来て下さったことを想って祈ろう。


●25(水・降誕日)
偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません。   (詩26・4〜5)

 主なる神に、全き信頼を寄せ、かつそのように歩んでいた詩人の信仰告白だ。 なぜ信頼し切れる人生であれるのか? きっと神に愛された実感があったからだ。
それなら私だって、神が私のために天より降らせたイエス様の降誕を見詰めたら、私も愛されたんだって分かる。今日は、その御子の降誕を見詰めて過ごしたい。そんな特別な日なんだから。


●26(木)
いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。 (詩3・7)

 「いかに多くの民に包囲されても」と告げられている敵が誰なのか。一節で「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあるのを見て愕然とした。我が子が敵となって、命を狙っていたなんて。「決して恐れません」という詩人の抱えた「恐れ」の複雑さを思う。それは戸惑い、悲しみ、嘆き、絶望感・・・。
それらに囲まれて尚「恐れない」と言えた詩人。直前に「主が支えていてくださいます」とあった。秘訣はこれのみ。私も主を仰ごう。たとえ悲嘆の日があれども。


●27(金)
(モーセは)「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。     (出32・26) 

 モーセがシナイ山で十戒を授かっている間、民は金の子牛をつくって拝み、神に背いた。そのときモーセが人々に告げた最後通告がこれだ。そして集った者は赦された。集まるべき場所がある。罪を「悔いる」というのは、その場所に集まること。心の中でクヨクヨしていることじゃない。
 主日ごとに礼拝に集まるのは、悔い改めることと、立ち帰ることと、赦しの宣言を賜ることが同時に起こっている大事な場所だから。私も帰ろう、罪人だから。


●28(土)
主を畏れることは知恵の初め。  (箴1・7)

 知恵の書は語る「主なる神を知ること、それも畏敬すべき神として知ることこそが、人が知るべき第一のことだ」と。
 明日は礼拝。来る週ごとに礼拝にあずかれるということは、一週間ごとに大切な立ち位置に修正されるということなんだ。一週間で大分ずれってしまった立ち位置だから。自分を神とする自己中心にずれていたから。主の言葉を聞いて、祈る事、賛美する事を通して、初めの所に立ち直そう。それも今年最後の礼拝。出席できるために全ての準備を今日中に。


●29(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)


●30(月)
人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。  (創8・21)

 ノアの大洪水のあと、神が新しくした世界を見て言われた言葉だ。人間が自らの罪のゆえに、当然の報いを受けたのに、悔いられたのは神ご自身だった。それほどに人に寄り添われる神。それも罪人に寄り添われるのが、主なる神なんだ。
今年も何度主を嘆かせて来ただろう。そのたびに何度も赦されて来た。その神の愛の深さを静かに数えよう。忘れないように具体的に数えよう。罪と赦しを。


●31(火)
岩と頼むのは、わたしたちの神のみ。         (上サム2・2)

 今年の年間主題聖句は、この御言葉をいただいた。私たちの歩みを確かにする御言葉として受け取った。私たちがどんな時にでも、主なる神を頼みとする者に立ち帰れるようにと。
 支えていただいた日もある。忘れてしまってうろたえていた日もある。でも通り過ぎてきた日々を振り返って、改めて心の底から告白の言葉が湧いて来る。「アーメン、まことに岩と頼むのは、わたしたちの神のみでした。ハレルヤ」と。


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