2019年11月24日

説教 『心は遠く離れている』

2019年11月24日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書15章1〜9節
そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、
むなしくわたしをあがめている。』」


 イエス様は、「あなたの心はわたしから遠く離れている」と迫られます。それは「あなたの心は私の傍にいない。口では私のことを敬い、従うと言いながら、心は私に背を向けて、私を裏切っている」ということです。そこから自分中心な生き方が始まる。このイエス様の言葉には、憤り、悲しみ、嘆きが込められているように思えてなりません。

 次週はもう待降節です。そういう今朝に思わざるを得ないことがあります。それは、まず神様が「私の心はあなたの傍にいたい」と願われた御心が、イエス様の降誕となったということです。だからこそ、なのです。もしもそのイエス様が「誰も彼もが自分だけが大事だと言って、心は私から遠く離れた」と知られたのなら、「そんなお前たちなどもう知らない」と決別して当然ではないですか。

 でも実際、その時イエス様はどうなさったのかを、キリスト者はもう知らされています。それは、去って行った人間を追いかけて、なお傍に居ようとして下さったということではありませんか。イエス様が背きの私どもを追いかけて、やっと一緒になれたのは温かな場所ではありませんでした。信頼し合う声が溢れる場所ではなかった、それは十字架の上だったのです。父なる神から遠く離れた罪人が立つ所に、しかしそこにイエス様は「私は立つ、あなたの心と一つになるために」と立たれたのです、そして、「ついにここであなたと一つになれた。ここであなたのために死のう。私があなたに代わって罪を償うから」と言ってくださったのです。そのイエス様を知りつつ、再び今朝のみ言葉を聞くなら、もはや別れの言葉には聞こえない。遠く離れて行った私どもを悲しみつつ、しかしそこで切に呼びかけておられるように思えてなりません、「どうしてなお離れるのか、あなたも私の心を分かって欲しい。待っている、戻って欲しい」と。主は、私どもに、申し訳ないほど激しい未練がある。あなたをどこまでも、愛しておられるからなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:13| 主日説教要約