2019年11月30日

『日々の聖句』2019年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年11月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(金)
恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。  (創21・17)

 アブラハムの妻サラの息子イサクを、侍女ハガルの息子がからかった。それで追放されるハガル母子。荒野で子供が死ぬのを見るのが忍びなくて、遠く離れて座り込むハガル。大声で泣くばかりの息子。その声を聞いて、御使いが母ハガルに告げたのだ「恐れるな。神が聞かれたから」と。
 旧約だから、神の民だけが大事にされると思ってた。でも異邦人の悲しみにも、主はお心を動かされる。あ、勿論かも。だって万人を創造された神なのだから。


●2(土)
わたしはあなたと契約を立てる。  (創6・18)

 ノアの大洪水が起こる直前、神はノアに「すべては息絶える。しかしあなたは箱舟に入って救われよ」と約束された。それもこれは命令なのに、「契約」だと言って下さったのだ。神の側も対等に責務を負う「契約」とすると言って下さったのだ。
 神なのだから一方的命令で良いはず。上意下達でよいはずなのに、約束を交わし合う対等の関係に立って下さるなんて。ああ、神様はいつも人間の傍に降って下さるんだ。人の横にきて愛するために。ふと、イエス様のお姿が思い浮かんだ。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月・文化の日)
「わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ」  (出33・17)

 主がシナイ山でモーセに十戒を授けていた時、民は麓で偶像を造って拝んでいた。怒った主は「もうあなたがたの間にはいない」と言われるのだ。必死に民を執り成すモーセ。そのとき、彼の執り成しを受け入れた主が「あなたの願いをかなえよう」と民を赦し、続けられた言葉がこれだ。
 執り成しの祈りって凄い! 私も名指しで選ばれてキリスト者となった故、家族の為に祈る時、主は私の祈りに応えて下さるのだ。必死に祈ろう。祈りは実るから。


●5(火)
わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。  (詩39・10)

 詩人は助けを求め、涙を流している。つまり苦難と悲しみがあるのだ。そこで不満も言いたいこともたくさんあるにもかかわらず、沈黙すると言うのだ。主の計らいに委ねると言うのだ。他にも「舌で過ちを犯さぬように」と告げていた。
私だって、そうすべきだと分かる。それでも私は今もなお人を傷つける言葉を言ってしまう。それは主に委ねる信仰が無いからかも。不信仰が姿となっているんだ。ああ、罪人の私を憐れんで下さい。


●6(水)
アドニヤは思い上がって、「わたしが王になる」と言った。  (王上1・5)

 ダビデ王が老衰に至った日、アドニアが王座を狙った。仲間づくりをして、兵を集めたのだ。全て御心ではないのに。それを「思い上がって」と、一蹴した。
 「私はこうする、いざ」と立ち上がろうとする日、「思い上がる者よ」と神から叱責されないため、もう一度立ち止まろう。もう一度祈ろう「これは御心でしょうか、進んで良いでしょうか」と。その祈りが、自分の「思い上がり」と神の「御心」を峻別させるのだから。大事の前にこそ静まれ。


●7(木)
ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。  (サム上1・15) 

 子供を望むけれど、与えられないで嘆くハンナ。その悩みを夫さえ理解してくれず、孤独に祈り続けたハンナ。ある日、神殿で長時間祈っている彼女に祭司が問いかけた時、彼女が答えた言葉がこれだ。
 訴えたい事、苦しい事をそのまま全部注ぎ出せば良い。聞いて下さる天の父がおられるから。それが、御父への「祈り」となるのだから。父は生きておられ、待っておられる。だから、さあ私も注ぎ出そう! 今日の思いを、今日という日に。

●8(金)
母の教えをおろそかにするな。  (箴1・8)

 知恵の書であるソロモンの箴言。その中に繰り返し言われるのが、「父の諭しに聞き従う」ことと、それに並んで「母の教えに生きる」ことだ。
 なぜ、この世でも当たり前のことを、わざわざ聖書で何度も言われるのだろう・・・。そう思いつつ、でも一つのことに気付いた。それは、誰もが、いつも言い訳をしながら、しないことだから。
これは処世術じゃないし、道徳の話しでもない。ここに生きるとき、神が与えた親子関係も整うのだ。


●9(土)
聖なる方を知ることは分別の初め。    (箴9・10)

 あ、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言一・七)と同じトーンが聞こえる。「主を畏れること、それが知恵」(ヨブ二八・二八)や、「主を畏れることは知恵の初め」(詩一一一・一〇)もあった。
 知恵の書である箴言でも、民が覚えて歌う詩編歌にも、どちらも同じことが言われている。それは、頭の中に刻み、心に沁みつかせるべき御言葉だからなんだ。「聖なる方を知れ、そして畏れ敬え」と、私も促されている。今日聞いた、ゆえに今日行う者となろう。


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月)
食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。  (申8・10) 

 四十年の荒野の旅を終えて約束の地に入る直前、モーセが民全体に言い聞かせるのだ。「誰が辛い荒れ野の旅を守ってくれたかを今こそ思い出せ。主なる神を心に刻み直せ。主から離れないために」と。
 「全ては主のお陰」と思うことが、自分を守る。「自分の力」という傲慢が、自分を滅ぼすことになる。その一線を越えさせない唯一のことは、いつも主を想うことだ。簡単そう? 否、難易度最高かも。


●12(火)
「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」   (王下5・15)

 異国アラムにナアマンという司令官がいた。重い皮膚病を患っていたが、神の人エリシャの言葉通りにしたとき癒された。そのときナアマンが告白した言葉だ。
 まったく神を知らなかった人が、ついに神を知る日が来た。それも、直接神に出会ったのでもなく、ただエリシャの言葉が実現した体験を通してだ。ならば私の大切な人も「御言葉は真だ」って経験をしたら、神を知る日が来るはず。御言葉を伝えねば。諦めず、御言葉の力を信じて。


●13(水)
わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。  (エゼ36・26)
   

 イスラエルの国が滅びた。それは、神の言葉よりも己を中心にした罪の故。それをエゼキエルは「石の心だ」と言う。でもさらに、その心を神が取り除いて「肉の心」を与えると伝えたのだ。柔らかで、素直に神を喜ぶ心、従う心を与えると。
何度抜いても生えて来る傲慢な心を、丁寧に除いて下さるのは神。その上従う心も与えて下さる。それほど丁寧に愛されている。至れり尽くせりで愛されてる。


●14(木)
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。  (創2・7)

 創世記に、二章から「第二の天地創造物語」が始まる。そこでは、アダムがまず創られ、それを囲むように生きとし生けるものが整えられてゆく。その最後に、パートナーとしてのエバも。
 神がどれほど人間を特別なものとして創られたかに胸が迫る。命の息も、愛も、全部吹き入れられて私も生まれたんだ。神の宝物としての私。自分でも、自分を大事にしなきゃ。それが愛してくれた御父の願いの中を生きることになるから。


●15(金)
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。  (箴3・7)

 知恵の書からのみ言葉だ。
 「もちろん自分のことを知恵ある者だなんて思ってもいません」と考えてる。それなのに不思議だ、人と争う時「自分こそ正しい。あなたは間違っている」と激高して自分を主張している。それは、自分のほうが知恵ある者だと思っているからかも。
 今日のみ言葉は、そういう私にこそ突き刺さって来る刃。それは自分で気付かない暗部を切り出すための手術のメス。神を畏敬する健康体に戻るために。


●16(土)
あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。  (サム下7・29)

 ダビデが全イスラエルの王となった。戦えば勝利、進めば成果。その時に主に祈った長い祈りの中に、今朝の一言がある。「神様、あなたが御言葉を私に下さったら、恵みの中を歩めます」と言ったのだ。
 「御言葉を受ければ幸いの日々」と言っている。でもこれは「御言葉が無ければ、祝福の無い日々」ということ! 急いで祈ろう「私に御言葉を下さい、いつの日もどの瞬間も。その言葉に従いますから」と。


●17(日・第3主日)

主日礼拝説教

         西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。 (出1・17)

 エジプトの王が、保身のために初子の男子の殺戮を命じた。逆らえば命はない。それでも一人の助産婦が、人を恐れるより神を畏れた。その一人によって、民をエジプトから脱出させるモーセが生まれた。
 神を畏れる人によって歴史は動いた。決して、人の目を伺っている人によらない。
私も今日、人に従うのか、御言葉に従うのか。次の一歩を踏み出す足に、「信仰」を込めろ。


●19(火)
彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。  (申3・22)

 モーセが荒野の四十年の旅を振り返って、民に話し聞かせる。いつも神様が先頭を切り拓き、しんがりを守って下さった日々であったことを。あの時も神が戦って下さった、この時もと、振り返ったのだ。
 私たちも、神がどんなに私のために繰り返し戦って下さったかを想起することが必要なんだ。それを心に刻み直せたら、今日という旅路も、神が先頭を切り拓いておられると信じられるから。


●20(水)
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。  (詩100・1)

 感謝の供え物を携えて、民が神殿に登って来る。そのときの賛歌の冒頭だ。 なんと晴れ晴れした様子なのだろう。主を前にする民が、喜びに包まれている。その胸の鼓動まで聞こえて来そうだ。
 私たちの礼拝でも、「招詞」によくこれが読まれる。この御言葉によって、胸躍らせて礼拝を始めるのだ。およそ三千年の時を超えて、礼拝者の胸の高鳴りが響き合うようだ。あっ、今朝の祈りの時も主の前に跪く時。それをこの御言葉で始めたら、喜びの心で一日をスタートできるね。


●21(木)
主よ、もう十分です。私の命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。  (王上19・4)

 預言者エリヤは、バアルに仕える者たちを打ち倒した。それに対してイスラエル王の妻イゼベル(異邦人、バアルを拝む)が激怒。エリヤの命を狙う。命からがら逃げた荒野で「もう充分、無理」と嘆いたのだ。
 御心に従ったのに、この世に生きる時に苦しみを追う。大預言者エリヤでさえ弱音を吐いたのだ。私なんて尚更無理。でも、そのエリヤをなお力付け用いたのは主。もしかしたら私も? そう、私もだ。


●22(金)
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。  (アモ5・4)

 王国滅亡を前にして、「イスラエルは倒れる」と語ったアモス。しかし、「その中にあってもなお主を求めよ、そして生きよ」と繰り返す。生き残ることへの強い招きを告げたのだ。
 栄える順風の時も、裁きの中の絶望の日も、唯一つのことを主は求められる。それは、神を求め、主の言葉を愛して生きること。そこに喜びも、慰めも、そしてどん底での希望もあるからだ。旧約時代も、今も、「主のみ」「御言葉のみ」なんだ。


●23(土・敬老感謝の日)
そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。 (王上19・11)

 イスラエル王の妻イゼベルに命を狙われ、恐れと無力感で洞穴に逃げ込んでいた預言者エリヤ。その彼に、主の言葉が届いたのだ「そこを出ろ」と。
 私も「その働きは無理です。できません」と逃げ込む洞穴がある。でも主はそんな私にも言われるのだ「お前の立つ場所はそこじゃない。さあそこから出よ」と。今日御言葉を受け取った、だから今日自分で作った洞穴を出よう。そして「御心のままに用いてください」と歩むのだ。そこ以外、御心の成る場所は無いのだから。


●24(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。 (イザ53・3)

 イザヤが、「苦難の僕」について告げた言葉。これを教会は代々にわたって、救い主イエス様のお姿として聞いて来た。軽蔑され、見捨てられ、私たちの病を知り、そして罪を負われたイエス様として・・・。
 待降節に読む箇所だ。読む度に胸が詰まる。「御子をその姿にさせたのは私だ」と知り直すから。その主によって癒され赦されたと知り直すから。クリスマスの喧騒の中で、御言葉だけが喜びの真実を語っている。その季節がもうすぐ来る。


●26(火)
曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。 (箴4・24)

 知恵の言葉としての聖書の御言葉だ。
 いつも箴言の言葉にはドキッとさせられる。まるで心の奥の病巣にまで突き刺して来る刃のような言葉だから。
 そうだ! そのメスによって切り出さなくては。ドキッとだけしている場合じゃない。「ひねくれた言葉」を切り出そう。唇から出るものは、心の底で生まれるから、奥までメスを入れて取り出さなきゃ。大手術のメスを握る聖霊よ、どうぞ大胆に切り取って下さい。どうぞ助けて下さい。


●27(水)
わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。  (代上29・17)

 ダビデ王が神殿建築のために、民に大胆な寄贈を求める。人々も進んで大量の金・銀・宝石を持ち寄った。その時に彼は祈った「御手から受け取った中から献げたに過ぎません。何よりその人の心を調べて、真心を喜んでください」と。
 私たちの献げ物も信仰と直結してる。神を想う心が現れる。主がそれを調べて、喜ばれたら嬉しいけど。献金に、信仰の嘘も誠も現れるなんて、ちょっと恐い。


●28(木)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。   (エゼ34・16)

 イスラエルの民が、羊飼いのいない羊の群れの有様になっていた。主への背きに満ち、国は滅ぼうとしていた。そのとき預言者エゼキエルが民に向かって告げたのだ。主ご自身が御自分の群れを探し出して、連れ戻して、世話をしてくださるから、と。傷ついたものを包むから、と。
 一人ひとりに一番心を掛けておられるのは主。私も、その一匹の羊なんだ。温かな眼差しに、背後から包まれているね。


●29(金)
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。   (ゼファ3・17)

 南ユダ王国の罪と亡国を告げた預言者ゼファニヤ。しかしその裁きと共に、赦しと贖いも預言したのだ。残された者たちに与えられる喜びの日の到来を。
 罪は、水に流されない。裁きを受けねばなれない。でもそれは、愛されていないことじゃない。なぜなら、罪人と一緒にいるのは、その神ご自身なのだから。決して見捨てず「お前のただ中にいる」と言って下さるのだから。私という罪人に喜びを届けるため、じっと居続けて下さるのだから。


●30(土)
主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。   (出32・14)

 モーセがシナイ山で十戒を授かっているとき、麓では人々が金の子牛を拝んでいた。燃え上がる神の怒り。「滅ぼし尽くすと」断罪された。それなのに、モーセの執り成しで、主は怒って当然の怒りを思い直されたのだ。
 義なる神が、正当な裁きをまるで訂正するかのように「思い直す」なんて。でもそれはいつも人に向けてのお心。いつも、慈しみが優るから。いつも愛して下さっているから。そのお心が、今日の私をも包む。

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