2019年10月06日

説教 『皆いやされた』

2019年10月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章34〜36節
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 イエス様一向は5千人の給食を終え、「やっと休める」とゲネサレトに上陸しました。でもそこにも大群衆が詰めかけたのです。単に、奇跡を見たいという野次馬ではありませんでした。集まって来たのは病人なんです。信仰なんて言えるものは何も無いけれど、それでも何とかしてもらえると望みをかけて、駆けつけて来たということなのです。これはもう、彼らの信仰がテーマにはなっていないんです。つまり、人間がどう信仰を持つのかが語られているのじゃないのです。むしろ信仰なき者に、そういう「皆」に、イエス様がどうされたのか、そのことが物語られているのではないのでしょうか。そう思って、もう一度イエス様のお姿に目を凝らして読み直してみたら、ただ無言で、一人ひとりを「皆いやして」おられたからです。そんな事が起こるのは、イエス様が人々の願いを前にされた時、即座に、御自分が休みたいという思いを、捨てられたということではないですか。

 ゲネサレトに、無言で黙々と不信仰な者のために仕えておられるイエス様がおられる。疲れ切ってもご自分の体にムチ打たれて、それでもなお人々が「ああ救われた」と思えることのためにと、仕えておられるイエス様がおられる。そしてでした、黙って尽くしつくされるそのお姿を見詰めていた時、私は、「ああイエス様は、そのお姿のまま、ついには十字架が立てられるゴルゴダの丘にまで向かわれたのだ」と気付かされたのです。人々がイエス様を救い主だと信じたから、イエス様は十字架で死なれる決心をされたんじゃないんです。「この人が救い主でなくて良い」そう思っている人々のためにイエス様は、十字架に掛かられたのです。

 救い主は、不信心な者を、救いたかったのです。私どもを、救いたかったのです。改めて、「私も恩寵を受け取った」と思い起こし、そこで「今度こそ応答して生きよう」と決意を新たにしたいではありませんか。
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