2019年09月23日

説教 『新しい歌を』

2019年9月22日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編96編1〜13節
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
国々に主の栄光を語り伝えよ
諸国の民にその驚くべき御業を。
大いなる主、大いに賛美される主
神々を超えて、最も畏るべき方。
諸国の民の神々はすべてむなしい。
主は天を造られ
御前には栄光と輝きがあり
聖所には力と光輝がある。
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。
供え物を携えて神の庭に入り
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
全地よ、御前におののけ。
国々にふれて言え、主こそ王と。
世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。
主は諸国の民を公平に裁かれる。
天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ
海とそこに満ちるものよ、とどろけ
野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め
森の木々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。
主は世界を正しく裁き
真実をもって諸国の民を裁かれる。

 読み始めた途端に、心を奮い立たせるような言葉が耳に届きます、「新しい歌を主に向かって歌え」と。それなのに、その主なる神が来られる時、その神は裁きを持って来られると言うのです。裁きはあるんです。それはそれで良い。でもせめて96編の中には入れないで欲しいと思いませんか。なぜって、主のなさる裁きの前では、折角の喜びが吹き飛んでしまうからですよね。でも、ふと思ったのです。生活恩恵とか、願い事の成就に神への賛歌が生まれるんじゃなくて、貧しくても、弱くされても、そこででも主に向かうなら喜びの歌が溢れる、そういう賛美が在るのかも知れないと。

 考えあぐねて、北森嘉蔵牧師が記していた物を手にした時、ハッとさせられました。「裁きの厳しさと、赦しの慈しみとが、貫き合っているのが十字架です。厳しい神が、徹底的に赦す神」と。この詩編96編の中で、十字架を見上げておられたのです。皆さん、裁きの神は来られます。全ての罪を裁くために来られるのです。でもその裁きを受け取ったのは、罪人の私じゃないんです。神は揺るがなく正しく裁かれる厳しいお方です。そうしないと、罪は消えないからです。でもそれを引き受けるのは、神ご自分であられて、神の御子イエスに、罪人が磔になる十字架で死なせられたのではないですか。神が傷つかれたのです。痛みは、神ご自身が背負われたのです。その傷によって、私どもは赦されたのです。救われたのです。

 そこで主に向かったなら、「罪と過ちの私なれど、イエス様の血潮によって今は生きる」と歌が始まる。アッと思いました。古い歌と言うのは、生活の中で恩恵をもらったから嬉しいという賛美だった。それも良い、全てのことは神様からの贈り物だからです。しかし、ここに「新しい歌」がある。十字架の上に、新しい歌がある。御救いの福音を喜ぶ歌が、です。キリスト者は、その「新しい歌を」、歌う群れなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:16| 主日説教要約