み言葉のパンで生きる365日
2019年10月
(旧約聖書編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)
●1(火)
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。 (サム上12・22)
神に仕えるサムエルが民に「恐れるな」と語り出す。「あなたがたは悪を行ったが、今後はそれることなく主に仕えなさい」と。その理由に今日の御言葉が繋がる。
こんなに人間を求めて、人を愛そうとしてくださる神がおられるのに、どうして神様に頼り切れないんだろう。〈自分自身〉という偶像が、心の内に巣くっているからだ。旧約の民の姿は、私の姿に重なる。立ち帰らなきゃ、朝ごとに夜ごとに。
●2(水)
神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 (出2・24)
エジプトの国で、奴隷として苦役を嘆いていたイスラエルの民。その激しい叫びがついに神に届いた時、神は遥か昔・五百年以上も前の約束を思い起こされた。「あなたを祝福する」と言われた約束を。
私も神様から約束を戴いた日がある。あの洗礼の日、神が「わが子とする」と約束して下さったのだ。今朝改めて、その約束を心に刻もう。今日も神の祝福の中に生きていると感じたら、何だか景色が変わって来るから。安心色になるから。
●3(木)
目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。 (イザ40・26)
バビロンへの捕囚と、そこからの帰還を予告する預言者イザヤ。大きく歴史が動こうとしていた。そのとき、その歴史の支配者へと目を向けさせるのだ。あなたの主を見よ、と。
行き詰ったら、広いところへ出かけよう。そして大空を見上げるんだ。それから、祈りの心をもって、万物を創られ、今も保持しておられる主を想おう。そうしたら、その御手の中に私の「今」があると思い出せるから。ホッと出来るから。
●4(金)
主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 (詩16・7)
励まされなければならない状況に窮している詩人。敵がいるからだ。
そこで励まされることを願うのだけれど、彼は「勇気を出させてください」とか「敵をやっつけて」とかを願わないのだ。
一六編を読んで驚いた。彼の励ましはどこから来るのか、それは「私には主がおられる」という一点だったから。
不安が募る夜ごとに、本当に安心させていただける言葉は「主が一緒だよ」という諭しなのですね。それは真だなぁ。
●5(土)
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。 (申9・7)
出エジプトを果たした民が、約束の地に入ろうとする。そこで、強国との闘いが始まる。その民に向かってモーセが語った「主は勝利を賜るが、あなたがたが正しい民だからじゃない。『背き続けて来たにもかかわらず』なのだ。それを忘れるな」と。
ドキッとした。「背きは数えられている。神は私の背きを忘れない」と思ったから。幸いの日々を過ごせているのは、にもかかわらずの恵み。それが罪人の恵みの受け取り方だったんだと、気付き直したから。
●6(日・第1主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●7(月)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。 (詩10・1)
詩人は、明らかに苦しみに悶えている。隣人に責め立てられているから。侮られ、呪われ、騙され、打ち倒されそうなのだ。その淵から叫んでいる「主よ、あなたはどこにおられるのか」と。それがこの詩だ。
苦難の暗闇が一層暗くなるのは、孤独に気付いた時かも。助けが一人もおらず、神さえも沈黙される時。祈っても、空を打つように感じる時なんだ。
主よ、沈黙なさらないで! 私も、神様だけが頼りなのですから。
●8(火)
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」 (創18・32)
罪に満ちたソドムの町が、主の怒りによって滅ぼされようとする。そのときアブラハムが執り成して、神と押し問答した。正しい人が五十人いたら赦して下さるか。よろしい。では四十人でも。よろしい。三十人だったら。それもよろしい。そして遂に十人でもと言ったのだ。それらをすべて受け入れられたのが、主なる神だった。
ふと、「主のほうこそ、少しでも正しい人がいてくれることを切望しているみたい」と思った。主のお心を覗いた気がした。
●9(水)
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」 (創1・14)
昼の輝く太陽も、夜空に瞬く月も星も、全てが神の御手によると語る。全てが御心による配置。全てのバランスが、神の支配のもとにある。
これを信じるとは、一切を委ねても安心できる「お方」に出会って、そこに生きるようになれるということ。そうだ! 天地創造が物語るのは、地球の出来方なんかじゃなくて、大切な「お方」との出会いへの招きがここにあるんだ。
●10(木)
わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。 (詩131・1)
神殿に向かうダビデの詩として、古来より読まれて来た詩。礼拝に向かうのか、それとも追われて逃げた荒野からの帰還なのだろうか。いずれにしても、私の心とはまったく違う告白がここにある。 私は高みを望んでいたから。謙遜なのは振りだけで、大きくされることに心は捕らわれている。そんな自分に自分で恥ずかしい。今日からこの御言葉を自分に言い聞かせるんだ。今日からでもいいから。
●11(金)
あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。向きを変えて出発し・・・行きなさい。 (申1・6〜7)
ヨルダン川の東まで来た民の目の前に、神が父祖アブラハムに約束して下さった祝福の土地が広がる。そこへと、現状に留まることを蹴って、踏み出して行けと主がモーセを通して命じられたのだ。
ひょっとしたら人は、慣れた現状に安住することに流れるのかも。でも主は、祝福はそこじゃないと言われる。さあ、留まることから向きを変えて出発しよう。未知の世界、でも主の御手の中の世界へ。
●12(土)
わたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。 (イザ43・25)
神に背いて、その罪のゆえに異国に捕囚となった民。主は聖にして義なる神だから、その罪を見なかったことに出来ない。その神が人々の苦しみを見て、人間の罪を御自分がぬぐうと言われたのだ。
人間の悪を、神様がまるで飲み込むようにして「もう思い出さない、もういいから」と言われる。赦す側の御父が、誰より苦しんでおられる。「あなたを愛しているから」って、御声が聞こえた気がした。
●13(日・第1主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●14(月・体育の日)
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。 (詩36・7)
詩人は、主の慈しみは天に満ちていると歌う。その慈しみの視線がどこまで届いているかを、今日の一言で伝えていた。全ての人に、そして全ての生き物にだと。
「どうしてそこまで愛されるの? 一体、人も獣も何者だからなんだろう」と考えつつ、ふと思い出した。神様と全てのものの関りの初めを。全てのものは、御手によって創造された神の宝だったと。私も、隣人も、全ての生き物も主のもの。だから、主が必死に守って下さるんだ。その視線の中を、私は今日も生きる。
●15(火)
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」 (創4・9)
カインは、妬みのために弟アベルを殺した。そのカインに主が「かけがえのない弟はどこにいる」と問われる。「知りません。そんな男のことなど」と激しく言い捨てる兄。罪は果てしなく膨らんで止まらない。
自己中心に生きる罪。その時、自分が〈神〉になっている。そこで最愛の人との関係も壊しているのに。不幸へと落ちる元凶は、周りのせいでなく、自分の中にある。
●16(水)
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 (創2・19)
神が世界を創造された時、アダムが独りでいるのは良くないと、あらゆる生き物を連れて来られた(後に、女・エバを造られるのだけれど・・・)。
生けるもの全て、人間の慰め手なんだ。人は孤独でいるのは良くないから! 急に、世界が愛らしく見えて来たかも。
●17(木)
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 (出16・4)
エジプト脱出ののち、荒野で民が飢えた時、主はマナを降らせる約束をされた。「一人ひとりに必要な分だけ、必ず与える」と。でも人は欲にまみれてかき集める。次の日、虫がついて臭くなるのに。
主は試された! そこで明らかになったのは、約束に従う信頼ではなく、恵みさえ欲で踏みにじる罪の姿。飽き足らぬ欲の塊。その欲による収穫は、腐って臭うのに。そこから離れたい、離れねば。
●18(金)
主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。 (詩6・3)
詩人は嘆き続けて疲れ切っている。その原因が自分の罪にあることを知り、懲らしめにあっていると分かっている。そのゆえに、神に憐れみを求められるのだ。あなたの憐れみが、私の嘆きを癒すのだと。
素直に罪を認め、懲らしめと悟り、迷いもなく主に憐れみを乞える詩人。それは、それほどに神と一緒に生きているからなんだ。まるで「お父さん、御免なさい」と泣きつつ父に抱きつく幼子のように。怒られても愛されていると知ってるんだな。
●19(土)
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 (創2・18)
アダムがまだ独りだった時、彼自身よりも心配して下さったのは神様だった。孤独の危険性を、人間よりも、創り主のほうが分かっていて下さったから。そしてエバが造られた。それが、最初の隣人だった。
人は隣人との間で悩む。友人であれ、家族であっても。でも本来、隣人とは、支え合うために神が私に添わせて下さった大切な人なんだ。私を孤独から救う一人なんだ。ふと、隣人(家族も友人も)を見る眼差しが、柔らかくなった気がする。
●20(日・第3主日)
主日礼拝説教
西田恵一郎協力牧師(和泉短期大学チャプレン)
●21(月・祝日)
あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら・・・ (王上8・33)
神殿が完成した時、ソロモンが主に祈る。彼が願った一つひとつは、彼が何を大切にしていたかを表わす。それは「悔い改めるなら、赦しを」ということだった。
私なら「恵みと祝福を下さい」と、まだ何かをねだっているかも。彼は、人は罪人だと分かっている。だから赦しを願った。これが真の王の姿。誠実な者の姿なんだ。
●22(火)
ひとりのみどりごがわたしたちのためにうまれた。 (イザ9・5)
代々の教会が「イエス様の降誕を告げている」と聞いて来た箇所だ。罪による王国の滅亡を預言しつつ、尚その先の回復を預言したイザヤが告げる言葉に、教会は救い主の到来を聞いて来たのだ。
罪を犯さざるを得ない罪人の私。そんな罪人だからこそ、私が聞きたい預言がある。聞かねばならない知らせがある。それは、私・罪人のための救い主の到来だ。
私もこの箇所が「一人の赤ちゃんが、私の罪の救いのために生まれた。イエス様を仰げ、この方を見よ」と聞こえた。
●23(水)
正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。 (アモ5・24)
南北王国が滅びる前の時代。イスラエルの民に「主は立ち帰れと言われたのに、お前たちは罪を重ねる! 滅びが待っているぞ」と嘆き語る預言者アモス。その中で、主にある者の礼拝生活の姿を加えて語ったのが、これだ。正義と恵みの業を、大河の水が豊かに溢れるほどに尽くせ、と。
「私も少しなら恵みの業もしている・・・」ではNGなんだ。遠慮も見栄も恥じらいも、愛することにおいてはかなぐり捨てて、怒涛のごとく尽くすべし! べし、だ。
●24(木)
聖なる方は主のみ。あなたに並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。 (サム上2・2)
今年の主題聖句! 子供がなくて悲しむハンナに、祭司から、願いは成就すると伝えられる。そのときハンナから悲しみは去り、この祈りの言葉を胸に刻んだのだ。
この祈りは、彼女の生涯の祈りとなっただろう。「主への賛美」の祈りが、「信頼の告白」の祈りと繋がっている。その経験は、生涯において「土台の在りかは神様だ」と悟らせてくれる。ああ私も、この一連の中を生きたい。
●25(金)
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。 (サム上2・1)
あ! これは、昨日と同じ「ハンナの祈り」の箇所だ。
二日連続でクジで引かれるなんて、どういうことだろう。「ハンナの祈りを何度も読み返して、もっともっと自分のものにするんだよ」という御心だろうか。そうしたら、本当に苦難の中で、私もなお主を見上げて喜びを得る人になれるから。希望を持てるようになれるからかも。
さあ、聖書を開こう。何度も読んで味わい尽くそう。自分の言葉になるまで。
●26(土)
見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。(創13・15)
主の召命に従って、故郷を後にして旅立ったアブラハム。一番大切に思う地縁血縁の場所を後にさえして、主の言葉を前にして進んだ。その彼に、想像を遥かに越えた恵みが待っていた。「見えるかぎりの土地すべて」が「故郷の見えていた限りの小さな土地」に引き替えられたのだ。
御言葉に従う道に、神の幸いが待っている。それを選ぶか否かは、私次第なのだ。この選択が、恵みの受領と直結している。信仰の歩みとは、選択のことなんだ。
●27(日・第4主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●28(月)
復讐してはならない。 (レビ19・18)
主が律法を仰せられる、「聖なる者となれ」と。その文脈に今日の御言葉もある。また、表裏一体で「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ともあった。
今まで、「復讐するな」とは、自分で仕返しするなという禁止命令だと思っていた。世の中は「倍返しだ」を喜ぶけれど、教会は違うんだ、という程度で考えていた。しかし、ここにある御心は、「愛せ」という命令なのだ。その中に「復讐」などという思いはないはずだと。それが聖なる者なのだよと。ガツンと言われた気がした。
●29(火)
「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。」 (エレ1・9)
エレミヤ召命の場面だ。でも彼は「語る言葉を知りません。若者にすぎません」と固辞する。そういう彼に、主が優しく、しかし厳しく言われたのがこの言葉だ。
私たちも、隣人に福音を伝えるように神様から託されている。でもいつも「私には無理」と言い訳している。そんな私にも届いた主の諭しに、悟らねば、「語る言葉は神がきっと備えて下さる。私に無かったのは言葉ではなく、小さな勇気。私をお用い下さいと祈る小さな祈りだった」と。
●30(水)
主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。 (詩25・8)
詩人は、主の恵みを求め、慈しみに依り頼んで歌っている。
私は、主の恵みと聞くと、素晴らしいプレゼントを戴けることだとイメージしてしまう。健康を戴けることとか、願いが叶うこととか、病が癒されることとか・・・。
でも聖書は、そんなことを恵みと数えてはいない。主の恵みは、罪人が立ち帰れることだと考えているんだ。あ、然り。それ以上の恵みが他にあるだろうか。真にそれこそが、神からの最大の贈り物だった。
●31(木)
あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。 (出16・8)
エジプト脱出の恵みの直後。感謝の言葉もソコソコに、人々は荒野で不平を言い出した。「腹が減った、モーセは我々を飢え死にさせる」と。その彼らにモーセが「私への不満だろうが、あなたたちは主に不平を述べているのだ」と警告したのだ。
神様から恵みを受けても、すぐに不平が出る私。それはきっと、自分の神が自分自身で、神様を自分の願い事を叶える僕にしているからだ。「もっとこうして欲しい、こうでなきゃだめだ」と、神に命令しているからだ。御言葉にハッとして、いやヒヤッとして、傲慢の罪から飛び退かねば。