2019年08月11日

説教 『見て深く憐れみ』

2019年8月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章13〜21節
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 ガリラヤ湖畔で弟子たちは、もう陽が暮れる時間ということ、食事する食料も無いということ、そういう状況を見ました。その状況下で、解決方法を熱心に考えたのです。彼らは状況の全てを誤りなく把握していました。全てを見ているつもりでした。

 でも、なのです。イエス様を見たら、彼らとは何かが全然違うんです。イエス様も、群衆を見たこと自体は弟子たちと同じで、人々を「大勢だ」とご覧になられたことも同じで、でもイエス様は、人数をご覧になっただけでは終わらなかったのです。イエス様が見られたのは、苦しんでいるその一人の人だった。苦しくて悲しくて、深く悩んで、涙を溜めているあなたという人を見詰められたのです。必死にやって来たあなたという人そのものを見詰められた。だからイエス様のお心に迫ったのは、「辛かったね、よく来たね、もう大丈夫だから」という思いであったに違いないのです。そのお心をです、今朝、御言葉は「深く憐れみ」と告げていたのです。

 この「憐れみ」は、「共に苦しむ」とか「共に耐える」「腸がよじれて痛むほど苦しむ」という激しい意味さえある言葉です。つまり憐れみの主は、私どもの悲惨さを共に耐え、弱い人と一緒に弱って下さるお方なのです。無力な人と一緒に無力さを耐え忍んで下さるお方。つまり、私どもの生きている場所に、ドップリ浸かって下さるお方であるということなんです。そしてそれは、十字架の上の主イエスのお姿そのものではないですか。十字架は、神の憐れみが出来事となったのですから。

 初代キリスト者たちは、迫害を受けました。そういう彼らがです、この「5000人の給食」の出来事を語り合いながら、「あのガリラヤ湖畔で、押し寄せた群衆の一人ひとりを見て共苦されたイエス様・十字架のキリストが、今私にも共にいて下さるね」と確信し合って、それが喜びとなったのです。
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