2019年06月24日

説教 『洗礼者ヨハネの首』

2019年6月23日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書14章1〜12節
そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 領主ヘロデにとって、洗礼者ヨハネは政治的不安要因でした。その宴会の席で、座興の一つのようにヨハネの首がはねられたのです。そのヨハネとイエス様との関りは11章11節にありました、「あなたより先に、使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう、と書いてあるのは、この人のことだ」。正に洗礼者ヨハネは死においてもイエス様の先に歩むように歩んでいたのです。

 ヨハネの盆の上の首は、イエス様の十字架の上の骸と重なるのです。私どもはイエス様の十字架の死の向こうに、すぐにご復活の勝利を思い浮かべます。またはです。十字架の死は、贖いの死だからと教理的に頭の中で理解して「全ての人の救いのために十字架に架けられて死なれた」と、大いなる目的のための十字架だったと、頭で理解する。それはそれで良いでしょう。でもそうやって十字架の死を直視しないで、一気に贖罪の意味や輝く勝利を見ようとしたら、その瞬間、そこに存在する死そのものを、見過ごしてしまう恐れがあるのかも知れないのです。しかし、死は、死なのです。洗礼者ヨハネは、実に寒々とした死を死んだのです、そしてその死そのものを、イエス様も死なれるのです。

 私どもに死がやって来ます。その死にどんな意味を引っ付けようとも、本人にとっては、死そのものに輝きなど無いのではないですか。それが死なねばならない死を、人は抱えているという現実なのです。イエス様はそういう私どもの人間の死を、ご自分も「盆に載せられた、洗礼者ヨハネの首となる」と進まれたのです。イエス様は、そういう「人間そのもの」となられたお方なのです。

 私どもはだから、信じることが出来ます「どんな死においても、そこにさえ主イエスが共におられる」ということを。そしてそこでこそなのです。死そのものを共に歩んで下さるお方であられるゆえに、そこで私どもを、死の向こうにある復活へと導き出して下さることも、お出来になるのです。
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