2019年07月31日

『日々の聖句』2019年7月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年7月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(月)
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。  (創15・13)

 主は、アブラハムから4世代のあとの子孫について、ここで語っておられるのだ。その将来に起こる苦難を見据えつつ、そこにも共におられることを伝えたいために。
 避けられない苦難を受けねばならない人生。その不安の中で、一番の安心はその苦難を神が把握していて下さること。御手が必ずそこに及んでいることなんだ。


●2(火)
その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。   (出12・42)

 430年間苦しめられ、奴隷にされていたエジプトからいよいよ脱出する。壮年男子だけで60万人が一斉に脱出しなければならない。この世紀の大脱出に寝ずの番をして下さったのは神であった。
 神に愛されているというのは、こういうことなんだと思った。それは具体的に守られているということ。一番怖くて不安な時にこそ、一番近くにいて下さるという行為となること。その神様を知っている私の人生は、それがもう幸いなことなんだ。


●3(水)
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。  (創3・6)

 神が「食べるな」と命じたエデンの園にある一本の木の実。その実を、エバがとって食べ、アダムにも渡して、彼も食べた。そうやって人は神に背き、罪に堕ちたのだ。
 何でもない風景のように、淡々と木の実を取って、おいしそうに食べて、傍の人にも渡して、一緒に実を食べて・・・と続く。
何でもないようにして罪に堕ちてゆく人間。ああ恐ろしい。何でもないような生活の風景に、堕罪への口は大きく開いているんだ。そう気付いたら身が凍りついた。


●4(木)
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。  (レビ19・2)

 主なる神が、モーセを通して律法の全容を告げられる。その膨大な掟の中心に据えられた御心が、この御言葉だ。
 「私は聖い者だから、あなたも聖い者となれる」と語りかける主。この「聖さ」は汚れなき「清さ」という意味じゃない。「特別に取り分ける」ということが「聖さ」の意味。「あなたは私が特別に取り分けた人、大切にされた人として生きてご覧」と言われているんだ。なんだか嬉しい。


●5(金)
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。   (箴2・6)

 「知恵を求め、知識を捜せ」と、諭すように語られる。そうするなら「神を知るから」とも。なぜか、知恵と知識が、主なる神と重ねて語られている。
 なんだか不思議な諭しだ。どうして、「知恵と知識」とを、「主ご自身」と重ねているのだろう。もしかしたら、知恵とは完全で正しい道を歩む術のことだから、主の口から出る以外には無いということかも。それなら御言葉を捜し求めればいいんだ。あ、すごいことに気付いたのかも。


●6(土)
あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。   (民14・41)

 主が「約束の地に行け」と言うと、人々は「いやだ」と言う。主が「私を侮ったから約束の地には入れはい」と言うと「今から進撃する」と、勝手なことを言う。そんな民に「背いてばかりだ。成功するはずがない」と言われたのだ。
 人はどうして、御言葉に背を向けるのか。そうやって自分の遣りたいようにしかしないのか。どこまで自分勝手なのかと、無性に腹が立つ・・・。あ、その姿って私のことなのかも。ふと神の嘆きが聞こえた。


7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         藤森 誠 神学生



●8(月)
主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」と言われた。      (出33・14)

 モーセが荒野の旅で、民の背きに手を焼かされて嘆く時、主に求めて「なお進まねばならないのなら、あなたの好意を示して欲しい」と求めた。その応答がこれだ。
 「私への主の好意」って何なのか、今日ハッキリと分かった。それは、どの道も一緒に同行して下さるということ。苦難の日も、罪に落ちた日も、悲しみに沈む日も傍に主がおられない日は無いということ。これ以上に好かれているという証しはあるだろうか。本当にボクは幸せ者だ。


●9(火)
この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。   (王上8・29)

 ソロモン王がついに神殿建築を完成させた。その時、延々と主に祈った言葉の一つがこれだ。いや、むしろこれを繰り返し祈ったと言える「主よ、天にいまして耳を傾け、聞き届けてください」と。
 ふと「私はどう祈っているだろう」と思う。ソロモンは、主が聞いて下さればそこでもう解決が備えられていると信じている。「祈り」って、「このお方以外に解決はないと信じる」こと。祈りは、信仰と直結している。今日の祈りから変えなくては。


●10(水)
ノアは主のために祭壇を築いた。   (創8・20)

 大洪水のあと、ノアは箱舟から全ての生き物を乾いた地に出した。大雨は、もはや過ぎ去った。その時ノアがまずしたことは、祭壇を築くこと、つまり礼拝することだった。これが「無垢な人」の姿なんだ。
 私は「乗り越えられた、助かった」という時、まず何をしているだろう。「自分にご褒美」とか言って、なお自分のことばかりかも。神が支え助けて下さったのに、御許に駆け寄るのは後回し。毎日主のお陰なら、週ごとにまず祭壇を築く思いが募って然りなのに。ああ、全然無垢じゃない。


●11(木)
彼らが神によって戦ったからである。   (代上5・22)

 ヤコブの長男ルベンの生きざまと敵との戦い方が語られる。それは、彼が必ず「神に助けを求めた」(二〇)こと、また「その信頼のゆえに祈りは聞き入れられた」こと。そしてそこに今朝の御言葉が続く。
 今日改めて気付いた。それは、旧約聖書に出て来る人間の姿は、「神に頼る人」か「神に背を向けた自分勝手な人」かだ、と。それも「神によって」歩む人の数は、片手でも余るのかも、と。選択肢はいつもこの二つしかない。真ん中の道はない。お前はどっちを行くのかと問われている。


●12(金)
ベツレヘムよ・・・お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。   (ミカ5・1)

 南北王国の滅亡を預言するミカ。しかしそれで終わらず、その先に約束された救いの日も預言した。それも、人々が「こんな所から救い主が出るはずがない」と思う片田舎のベツレヘムから出るのだ、と。
 私も勝手に、「こんな所に救い主はおられない」と思い込む所がたくさんある。それは、生活の中の現実的な苦難の場所。でも、そこを目掛けるようにして救い主は来られ、立って下さるんだ。救い主の居られない所は無いということなんだ。


●13(土)
アブラムは、ハランを出発したとき七五歳であった。  (創12・4)
   

アブラム(後のアブラハム)は突然、神様からの召命を受けた。古里も親も友人からも離れて、神が示す見ず知らずの土地に行け、と。そこで祝福するからと。その時もう「七五歳であった」と告げていた。
 豊かに成功して、後は余生をと思う齢なのに、その先へ行かせる神。ここからまた一苦労、いや本当の苦労の山があるなんて。常識外なのに従うアブラム。信仰って、捨てることと出発することなのかも。


●14(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月・海の日)
わたしの目にあなたは価高く、貴い。  (イザ43・4)

 イザヤが、捕囚の民の解放を預言している。苦難の中にいる人すべてに届く主からの言葉だ。この四節に続いて「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」とあった。
 これは聞くたびに慰められて来た私の大切な御言葉だ。きっとすべての苦労を抱える人にとっても大事な御言葉だろう。これを「わたしの目の中に入れても痛くないほど愛している」というように聞き取った説教者がいた。御神からの優しい御声が聞こえて来るようだ。


●16(火)
「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。」  (出34・14)

 シナイ山に一人登ったモーセに十戒を賜る主。しかし人々は待っていられず、金の子牛を作って「これが神だ」を拝み、神の逆鱗に触れた。そののちのこと。悔いて嘆く人々に、十戒の再授与が行われる。その時に主が言われた言葉がこれだ。
 「あなたを赦した」という御思いと、「あなたの神だ」という御心が重なる。なぜなら「熱いほどあなたを愛しているから」とさえ聞こえて来た。私は愛されているんだ。


●17(水)
沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。     (詩37・7)

 この詩人の周りには、悪事を謀る者がたくさんいて、不正を働く者もたくさんいて、そういう者たちに憤りと怒りで苛立っている人がいる。その人に向けて告げているのだ「沈黙せよ。主に委ねて待て」と。
 私はいかに心騒がせて、騒がしく祈っていたかと思ってハッとした。周りに腹を立てて裁いていたことに気付いた。くだくだ祈るのは、主のなさることを待てない不信から。今日、祈る姿から変わろう。「御心が成るために、私は何をしたら良いですか」と聞いてみよう。沈黙は聴くことだから。



●18(木)
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。  (詩18・29)

 ダビデが敵から、主によって逃れさせられた時の詩として聞いて来た教会。消えそうな灯とは命のことか。闇はいかに深かっただろう。そこに御手が届いたのだ。
 主こそ、私の今日という命を灯し、生き生きと輝かせてくださるお方。「私は自分一人で生きているんじゃない」と改めて気付いたら、今日の一歩を踏み出す足に力が入った。光が主から差し込まれる!


●19(金)
主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。  (士4・14)

 イスラエルの民を苦しめて来た敵は、圧倒的な武力を誇る。そこに向けて「立て、行け」と出陣を命じた士師デボラ。そこに勝利があるという唯一の根拠が、「主が、あなたに先立って出て行かれた」からという一事であった。
 私にも今日行くべき所がある。そこは今日の働きがある場所。困難という敵がいようとも、そこに私より先に主が行っておられる。そこで私の到着を待っておられる。だから行かねば。今日の戦いの場に。


●20(土)
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。   (詩19・9)

 この詩人は、主の命令、つまり律法・戒め・裁き(全て同じもの)を聞き、そのまま従って行うことに、全身で喜びを表している。主の命令を行うことへの喜びは、まさに主ご自身への信頼から出ている。
 私は御言葉を聞くことに、これほど喜びを感じているか? 聞いて、そのまま従って行っているか? どこか義務感の重苦しさを含んではいないだろうか。喜びが薄いのは、御言葉に従った時に与えられる喜びの「御言葉経験」が少ないからかも。ああ喜びが欲しい。ならば従わなきゃ。


●21(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●22(月)
ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけなさい   (申4・9)

 モーセが民に、主の掟を忠実に行うように連綿と勧告する。その中にこの言葉が挟まれるように語られているのだ。
 人々は「あの命令はこの人に丁度いい、この命令はなかなか良いから、あの人に聞かせたい」と聞いてただろう。自分のことを棚上げにして。だからハッとさせるためこの言葉が挟まれなければならなかったのだ。
 アッと思った。神が私に語り掛けているのに、御言葉を横にいなす自分に気付いたから。自分で自分に「喝!」だ。


●23(火)
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。  (詩24・7)

 詩人は、主をお迎えする喜びを高らかに歌う。主こそ世界を創られた方、恵みを賜る方、強く雄々しく戦われる主、栄光に輝く王なのだと。ただし、誰がその主を迎えることが出来るかも告げられていた。それは、「主を求める人」だと。
 恵みは来る。既に私の生活のドアを叩いている。でも、私自身は本気で主を求めているだろうか。この詩人のようにワクワクして迎え入れようとしているか。さあ、ドアを開けよう。心からワクワクしつつ。


●24(水)
そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。  (代下20・17)

 南ユダ王国の王となったヨシャファトは、多くの悪い王がいた中で、数少ない良い王の一人だった。それは彼が、主を求めて生きたからだ。そのゆえに国は、大軍に攻められようとも「主があなたを救う」、と守られたのだ。
 幼い頃まわりから「神仏に頼らず、自分で戦え」と聞かされたけど、違うんだ。「まず主を求めて、次に従うことに全力になる」、この順序が勝敗を決するのだ。


●25(木)
ユダのすべての人々がその幼子も、妻も、息子と共に主の御前に立っていた。(代下20・13)

 南ユダのヨシャファト王は、主の前で礼拝するとき、独りではなかった。「すべての人々と共に」であった。ここに、人間のあるべき姿がある。
 王と民は、皆の顔を一斉に主の方に向けている。あっ、その姿はまるで、親鳥から生きるための餌をもらおうとする雛鳥が、一斉に口を開いて鳴いている姿に似ているかも。人々は、御言葉を食べたいと、真の親に顔を向けているのだ。私たちの教会の家族も、この姿へと導かれたい。


●26(金)
第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。   (創2・2)

 天地創造の七日目のこと。神は世界を創り終えて安息・休息なさったのだという。そしてこの日を、働かれた他の日々から特別に取り分けて、祝福された。これが人間への「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という招きに繋がってゆくのだ。
 私にとっても安息が必要。それは疲れを癒すためということもあるけれど、むしろ神がなさった祝福をいただくためにだ。だから神の前に行かなきゃ。祝福の受け取り場所の礼拝に!


●27(土)
殺してはならない。  (出20・13)

 モーセが神から授かった「十戒」の中の第六戒。神が「隣人を殺すな」と迫る。
 幼い頃は、「ボクは殺人なんてしませんよ。十個ある戒めの中で、これだけは守れています」と思っていた。でも、大人になるにつれて分かって来たことがある。刃物よりも、言葉で人を傷つけ殺してしまっていることの、なんと多いことかと。相手の人格を攻撃して、そして殺している。
 「十戒」って、成すべき目標であるよりも、自分の本当の姿を映し出す鏡なのかもしれない。そこに私の罪が映っている。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月)
あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。 (詩55・23)

 詩人を囲むのは、敵、悩み、不安、災い、嘆き、死の恐怖、争い、戦慄、労苦・・・。そんなあらゆる困難にいる者に御言葉が届いた「あなたの重荷を主なる神にゆだねるんだ、支えられるから」と。
 人生で抱える数々の苦しみの中で、この詩に出て来ないものはないかも知れない。そしてこの一つにでも襲われたら、簡単に押しつぶされそうになるって経験している。これはそういう闇に届く言葉。光の言葉、聞かねばならない御言葉だ。


●30(火)
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。  (詩23・5)

 「主はわたしの羊飼い、」と始まる二三編の後半の一節だ。苦しめる者に囲まれつつ、その現実の中で主を見上げ、そこに生まれた堅い信頼が、賛歌となった。
 神を信頼して褒め称える言葉が生まれるは、幸いに立つ者の唇じゃない。逆境や困難、死の陰の谷を歩む者の唇に生まれるのだ。そして、それが信仰の生まれる場所なのかも知れない。ならばその場所は、人生のアチコチにある! それにしてもこの二三編は、明るく力強いなぁ。

●31(水)
あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。 (ネヘ9・6)

 バビロン捕囚後にエルサレム再建を担い、その歴史を記録したネヘミヤ。神の民の最悪の時も、再起の喜びも知る人の神賛美だ。その賛美の源は、神への背きの重さがあるのに、神が「しかし」と赦される方でいて下さること。単に「再建を感謝」というのじゃない。「こんな私なのに赦して下さるなんて有難い」と告白したのだ。
 彼がここで言う「命」って、生物学的な「命」だけでなく、「神に愛される特別な存在としていただける、それが私の命の意味」と、言っているように聞こえてきた。


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