2019年06月30日

『日々の聖句』2019年6月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年6月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)



●1(土)
わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。      (士6・15)

 人々はミディアン人によって略奪され、嘆きは天に届いた。そのとき主がギデオンに「あなたが民を救い出せ」と告げた。それに彼が「私は一番貧弱者で、一番若輩なのに、なぜ私ですか」と答えたのだ。
 なぜ神様はいつも、相応しく思えない者を選ばれるのだろうと思いあぐねて、ふと思った。彼の業のどこを見ても。彼が自分で成し遂げたとは見えないからかも。能力に依らず、神の霊によって成すためだ。


●2(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●3(月)
わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。     (箴1・15)

 知恵の書の箴言が「わが子よ、父の諭しに聞き従え」と語る。その中の一つが、ならず者の道に踏み込むなということだ。
 「そんなこと分かっているよ」と思っているつもりで、いつの間にかその道に入り込んでいる気がする。大体ならず者って何? と聖書を見たら、罪もない隣人を苦しめて奪う者で、舌と行いで傷つける者だった。あれっ、それってやっぱりボクのことだと気付いて慌てる。慌てたら、まだ救いがあるのかも。飛び退いて立ち帰れるから。


●4(火)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。  (イザ9・1)

 南北イスラエルの滅亡が迫る。その中にあってイザヤは希望を告げた。それは、かつてのダビデ王の時のような恵みの日々の到来。平和の君が来るよ、と語られていた。それが大いなる光だぞ、と。
 きっと人々は、その光をリアルに思い浮かべられただろう。あのダビデ王の時が来ると思い浮かべられたから。それと同じように、いやそれ以上に私もリアルに平和の君を思い浮かべられる。それはイエス様を知っているから。私の大いなる光だから。


●5(水)
年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。 (創21・2)

九〇歳のサラがついに息子を産んだ。「とても無理」と思えて、期待することさえ出来なかったのに。しかしその希望の領域に、神はサラを連れ出されたのだ。
「それは、神が約束されていた時期であった」と加えられた一言にドキッとした。神の計画には、成就する時があるのだ。その時まで、たとえ人間が諦めようとも、そこを貫いて突き進む。ああ私に、失望の中で信じる信仰をください。


●6(木)
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出20・7)

 「十戒」の中の第三戒である。
 当時の人々は、気安く「神かけて誓う」とか「主の名によって嘘偽りなどない」とか「ああ神様、なんてこったい」と口癖のように言っていたらしい。貴い御名が、形ばかりで口に上っていたらしい。
 改めて「みだりに唱えるな」とは何か、と思う。「神に真向かえ」ということかも。「主よ」と御名を呼ぶところに、既に神様が臨在されているのだから。私に耳を傾けて、「何だい?」と御心も向けてくださっているのだから。その御前に立つのだから。


●7(金)
人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。      (箴5・21)

 安全な人生の道がある。その道では、人はもう迷って悩み悲しむことはない。幸いへの道がある。それは、必ず最高の人生となる道だ。なぜって、その道は主なる神が「すべて計っておられる」道だから。
 あとは、その道を踏み行くか否かだけ。それなのに、その選択を私は何度間違って来たことか。自分で「こっちの道がよさそう」と踏み出して、迷子になって来た。
主の〈御言葉の道〉を踏み続けたい。その道に留まろう。そうさ、主の道に。


●8(土)
(民は)主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみをご覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。    (出4・31)

 エジプトで苦しむ民に遣わされるモーセ。初めは、誰も自分の言葉など信じないと悩んでいたが・・・。神に預かった言葉を語った時、民は神の言葉だと信じた。
 私も家族や友人の中に遣わされている。でもその場で、「私に何が語れるのか」と怖じる。しかし今朝「御言葉がある。そのまま語れば神の御業が起こる」と気付けた。「それに賭ければ良いんだ」と。

●9(日・第2主日・聖霊降臨日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●10(月)
サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。」   (士16・28)

 主によって与えられた怪力。その秘密をうかつにも知られてしまって、力を失ったサムソン。敵に捕らえられ笑い者にされていた時、彼は悔いて、すがり直して、そして祈った。ただ主の臨在を祈った。そこに、再び怪力が戻って来るのだ。
 ボクには怪力はないけど、主のおかげで一歩を踏み出せる。それなのに一日に何度、主を忘れることか。サムソンの祈りは、私の朝毎の祈り、夜毎の祈りだ。


●11(火)
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。  (イザ30・21)

 主に背いた南ユダ王国の民。バビロンから敵の声が迫った時も、主が「静かにしていれば救われる」と言われるのに、なお背いてエジプトと同盟して逃れようと画策する始末。とうとう行き詰って震えるしかない民に、この言葉が届いた。
 それは、なお救う、との主の御旨。震えるお前のゆえに導き出さないではいられない、との御心。罪人の背中を支える御手がある。それが、主の御手。破格の恩寵。


●12(水)
イスラエルの人々は、主に問うた。        (士20・27)

 ならず者の民による非道な仕打ちに、制裁を加えんとして立ち上がったイスラエルの軍団。しかし連敗に次ぐ連敗で4万人の兵を失う。途方に暮れて主の前で泣き崩れる人々。退却こそ最善策と思われた時に、彼らは主に決断を委ねた。
 泣く時、おじる時、逃げ出したくなるとき、それでも主に祈る。逃げ出してしまうのではなくて、浮足立ったままでも良いから主に祈る。そこで御心を聴く者こそ、主に従う強者だから。委ねることは、本当の強さなんだな。


●13(木)
わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。   (士10・10)
   

 人々は主なる神を礼拝していながら、もう片足をバアルの神、アシュトドの神、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕えていた。その姿はまるで片足信者。その姿が、「神を捨てた」と告げられていたのだ。
 ドキッとした。礼拝しつつも、「己」を神とする自己中心は、神を捨てているのだ。キリスト者こそ、警鐘を鳴らされている。

●14(金)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。  (詩133・1)

 この詩人として、ダビデが都に上る時に詠んだ歌として聞くなら、その胸の高鳴りまでもが聞こえて来そうに思える。礼拝に集うということを、何よりも喜ぶ彼がいる。一緒に神の前に出られることが、最大の恵みと数えている彼がいる。
 私も、その喜びが分かる。礼拝堂に、あの人この人、久しぶりに来られた人、困難を乗り越えて集っている人の顔がある時、「なんという喜び」と心が震えて来るから。その場、その時に優るものはない。


●15(土)
イスラエルの人々よ、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。       (イザ27・12)

 都が破滅する預言に、すぐ続けるようにして語りかけられる回復の預言。神の民は再び集められる。そしてエルサレムで礼拝する日が来るのだ、と。
 主は、何度も私たちを顧みてくださる。それも「全員を集める」というような十把一絡げの方法じゃなく、「あなたを、そしてあなたを」というように「ひとりひとり」なのだ。さらに、地に伏すあなたを「拾い」あげるようにして集めて下さるのだ。その一人に、私も入っているのですね!


●16(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●17(月)
(ウジヤ)は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。   (代下26・16)

 主を畏れ敬う王で、南ユダの王たちの中では稀有なウジヤ王だったのに・・・。主によって繁栄していることを忘れて思い上がった時、神をないがしろにしたのだ。
 ああ、ウジヤよ、お前もかと思う。人が罪の現実に転落するのは、逆境ではなく順境の時にこそ。敬神家であっても神を捨てる。祝福の土台を捨てることなのに。
私にいつも大小の逆境が続くは、かえって神の憐れみなのかも。きっとそうだ。


●18(火)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。   (申31・6)

 120歳になったモーセが、荒野で民を率いる後継者・ヨシュアを任命するとき、人々の前で発した言葉だ。それはヨシュアの人柄や能力を披歴したのではない。彼の前に立つ方を披歴したのだ。共に歩み、見放すことはない方・主なる神を。
 私たちも、ただ主によって導かれる群れ。群れが一つとなって一心に主のほうを見上げれば、困難に遭っても恐れることなく、迷いもない。「ただ主」これのみ。


●19(水)
「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」        (エレ33・3)

 エレミヤが、バビロンによる南ユダ王国滅亡を預言した時、王は怒って彼を投獄した。その獄中の彼へと、主が語り掛けたのだ。国が滅びたのちに約束されるエルサレム復興を。裁きの後に、なお希望も備えられていることを。
 どん底と思える獄中。何もかも失敗してしまったと思える場所に、主の言葉が差し込んで来る。鉄格子も壁も何かはせん。「我を呼べ」と御声は突入して来る。


●20(木)
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」      (出14・16)

 出エジプトの後すぐ、人々の背後にエジプト軍が迫って来た。行く手を葦の海が阻む。その絶体絶命に、もう死ぬしかないと叫ぶ民。しかし主はその絶体絶命で、「進め」とモーセに命じられたのだ。
 人の目に見える困難による絶体絶命は、神の目には全く違って見えているんだ。それは、御業が起こる場所としてご覧になっているということ。そこに届く「成せ」との御言葉に従えば、その先に、恵みの御業を受け取る日が待っているのだ。


●21(金)
彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。   (ミカ5・6)

 南北王国が亡びてゆく。その只中で回復の希望を神から戴いて語る預言者ミカ。救い主の到来と、残された人々に神を慕う者がいることを。その人々は、もはや人間に頼らず、神にのみ頼るのだ、と。
現実にどうやって人に頼らず、見えない神に頼るのかと呟いて、ハッとした。それって、御言葉を神の言葉と聞かない人の呟きだと気付いたから。神を頼ることは御言葉に頼ること、それもすぐ傍に神の言葉は届いている。従う私になりたい。


●22(土)
心の中で兄弟を憎んではならない。       (レビ19・17)

 主が民に勧告される、「聖なる者となれ」と。そのために「父母を敬え」「偶像を仰ぐな」「隣人を虐げるな」等と言われ、「兄弟を憎むな」とも命じられたのだ。
 人を憎んではならないとは、仲良く暮らすための勧めという程度の話じゃない。人を憎むことは、聖くなろうとする歩みを離れ、自分を汚す道を進むことなんだ。神の御心の外の荒涼とした世界に踏み込むことなんだ。あ、だからそこは悩みと苦しみが渦巻いていたんだ。憎しみは、捨てるべき心のゴミ。必ず自分で捨てねば。


●23(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●24(月)
すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。      (コへ3・20)

 全ての人にやって来る「死」。コへレトの言葉はその現実に真向かわせる。それも、終末の彼岸にある希望に目を向けさせるのではなく、現実の此岸を見詰めさせる。そして言いたいのだ「今を生きよ」と。
 「どうせ塵になるのだから・・・」と生きることじゃない。厭世家になるのでもなく、単に楽天家になるのでもなく、「しっかり今日という日を生きよ」と語りかけているのだ。よし、瞬間瞬間を大切に生きようぞ! それが貴き御旨だから。


●25(火)
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。  (詩22・11)

 苦難が近づき、助けてくれる人もいないという状況の中で、詩人が声をあげた。それは、「あなたは、私の神様なのだから」という祈りだった。
 決して「神がおられるなら助けて」というような不安な祈りじゃない。むしろ助けが来ることは分かり切っているという祈りだ。生まれる前から神に守られていることを信じる者の声だ。詩人は「助けて下さらないはずが無い」と言っているのだ。危機の時に、不安に揺れない祈りがある。
これは、信仰告白そのものだなぁ。


●26(水)
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。       (ヨエ3・1)

 南ユダ王国の滅亡を預言するヨエル。神への背きが止まらないゆえに、ついに裁かれる日が来るのだ。しかしその預言は悲しみだけで終わらない。回復の日が、その後に来ると告げられるから。親しく主の霊を受け、再び神を礼拝する「主と我」の日々が来るからと。それが希望だよと。
 御霊なる神よ。今日、私にも豊かに注ぎ給え。そのとき私も生き生きと生き出せるから。神の子として歩み出せるから。


●27(木)
主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。   (詩3・5)

 詩人には、予想だにしなかった苦難が襲いかかっている。信頼した者に裏切られて命さえ狙われている。「お前に神の救いなどあるものか」と責める者が迫る。その只中で詩人は、「それでも」と声を上げた。「主よ、あなたはわたしの盾」と。そして今朝のこの信頼の言葉を告げたのだ。
 私も、声を主に向けよう。自分の中で呟くのではなく、また人に向けて吠えるのでもなく、主に向かおう。それも、嘆きの言葉に乗せて、信頼の言葉も一緒に。


●28(金)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 (詩23・1)

 詩編全150編の中で、これは最も多くの信仰者に愛され、暗唱された詩ではないだろうか。
 これは決して安泰の中にある人が書いた詩ではない。敵が周りを囲んでいて、死の陰の谷を歩まされるような時に「わたしには何も欠けることがない」と告白したのだ。「主がわたしの羊飼いでいてくださるからだ」と。そこに、苦難の中にある信仰者の琴線に触れた理由があるのだろう。
私も苦難の淵で、最期の病床で、静かに口ずさんでいたい御言葉だ。


●28(土)
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。   (エレ29・13〜14)

 バビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、エレミヤを通して「その地で生きよ」と伝えられる。「これは災いの計画でなく、将来と希望を与えるものだ」と。しかし主が、その地での人々の苦難をも思って加えられたのが今朝の御言葉だ。
 主は単に耐えろと言われるのではない。「私も一緒にいるから」と励まし、「あなたの苦しみに日こそ、私と会えるから」と。苦難こそ神を叫び求める日なのだから。


●30(日・第5主日)

主日礼拝説教

        秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)
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