み言葉のパンで生きる365日
2019年5月
(旧約聖書編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)
●1(水・祝日)
わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。 (創24・48)
アブラハムに、息子イサクの嫁を探すようにと命じられた僕が、旅に出た。誰がふさわしいか、さらに相手が承諾するのか否かも分からない、全てが見当もつかない旅。しかし僕が祈りつつ進んだ時、最もふさわしいリベカの家族に出会えたのだ。
見当もつかない旅をしているのは、私の人生も同じかもしれない。その先で、神が用意していて下さる恵を手にするために。その恵は、旅路を導かれるのは、真に共にいて下さる神だという信仰なのかも。
●2(木・国民の休日)
助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。 (出2・23)
エジプトの地で、奴隷の労役に苦しみの叫びをあげたイスラエルの民。その声が神に届いた時、出エジプトの奇跡の出来事が始まる。モーセの召命は、神様が民の叫びを聞かれた直後なのだ。
壮大な救いの御業が起こる出発点は、人々が置かれた不条理を鑑みられたからじゃない。人々の叫び声に神様が心痛まれたということ、憐れんでくださったということ。それは、私の叫ぶ祈りにも、神様は立ち上がってくださるという福音。届かない叫び声は無いのだ。
●3(金・憲法記念日)
わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。 (エレ26・2)
神殿に立つエレミヤが、民全体に神の言葉を伝える。その語り出しが、これだ。
「神の言葉を削らずにすべて語れ! ひと言も減らすな」と言われなければならなかった人々。これは、私にも突き刺さる言葉だ。御言葉から自分の都合の悪い部分を省いて、勝手に骨に抜きして、挙句の果てに一言も聞かない心になっているから。そこが、幸いから迷い出す道なのに。御言葉が消えた道なのに。ああ、御言葉をそのまま聞く耳でいたい。
●4(土・みどりの日)
主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 (ヨシュ2・11)
ヨシュアがエリコの町に斥候を送り出す。その彼らをかくまった女ラハブ。異邦人の彼女なのに、なぜそのようにしたのか。それは、神がなさった出エジプトの出来事を知って、そこで神を畏れたからだ。御業を聞いただけで、神が生きて自分にも働かれることを信じたからだ。
私も神の御業を知り、じかに御言葉さえ聞いている。でもこの女のように神を仰いだ生活をしているだろうか。主よ、私にも今朝、新しく信仰を与えてください。
●5(日・第1主日・こどもの日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●6(月・振替休日)
恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。 (出14・13)
意気揚々とエジプトを脱出した民の背後に、エジプト軍が迫って来た。人々が泣き叫ぶ中、一人モーセがこれを告げる。 前もって「必ず救いを見る」と聞いた神の約束を信じない人々。その狼狽の中で、ただ一人、神の言葉を信じて立ったのだ。
私も、狼狽する現実が真実のように見えても、〈残った一人の信じる者〉の側でいたいな。人の判断じゃなく、神の言葉にすがっている一人に、私もなりたい。
●7(火)
互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。これらすべてのことをわたしは憎む。(ゼカ8・17)
イスラエルは、北も南も滅び去った。残された人々に、預言者ゼカリヤが語るのだ「悪の力離れて、主に立ち帰れ」と。そして成すべき具体的なことの一つに、今日の言葉が告げられたのだ。
まだ心の中で相手への悪口が生まれているだけの時、その私に神は「わたしは憎むぞ」を言っておられる。それを聞いて、ドキッとする。すぐに飛びのいて悪から逃れねば。そうだ、今すぐにだ!
●8(水)
アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」 (創21・22)
アブラハムが寄留したゲラルの地で、王たちが言った言葉だ。アブラハムが神に守られている現実を見て、降参して激白したのだ。異邦人であるのに。
隣人が私の生活を見ている。そこで何が見えているのかな。「神が居るとは思えない」としか見えない生活をしていたら、神様に申し訳ない。私を通して神の現臨こそ見えて欲しいのに。祈りつつ歩まねば。
●9(木)
水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。 (士5・11)
イスラエルに王が立てられる前、民を導く士師がいた。その一人デボラが、圧倒的な力を誇る敵を破った時に歌ったのがこれだ。人には勝算の見えない戦いだったのに、神が「行け」と命じて導かれた時、人間の計算を超えた出来事が起こる。そして、そこにこの歌が生まれた。
私達も困難を乗り越えさせて頂いて今がある。でもそれを語り告げているだろうか。その日々を思い起こして、数えて、賛美したら、そこに希望が生まれるのに。
●10(金)
自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家 (申6・11)
モーセは、神が与えて下さった一つひとつのものを数え上げてゆく。その中の一つがこれである。そしてその最後に言うのだ「あなたをエジプトの国、奴隷の家かな導き出された主を決して忘れるな」と。
達成感に包まれる時、誘惑する者の声が囁く「君もなかなかやるじゃないか。一人で頑張ったね」と。自分を褒める言葉も心に沸いて来る。しかしその時こそ、気を付けて己に言わねばならない「否。全ては主のお陰、私は感謝に生きる」と。そこが、脱線の分岐点なのだから。
●11(土)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。 (イザ53・4)
預言者イザヤによる『苦難の僕』の一節。この姿に私たちは、十字架へと向かう御子のお姿を見る。
私のデスクにある十字架には主イエスが架けられている。やつれ切った顔、自重で筋が切れて伸び切った両腕、見る影もない姿。「この処刑は、罪人の私が受けねばならないはずだったのに」と思ったら、己の罪の重さが分かる。身代わりになれれた方の痛みが分かる。それほどまでに愛された愛の深さが見えて来るよう思えた。
●12(日・第2主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●13(月)
人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。 (ヨブ7・17)
ヨブは苦難の中で、友人から「自業自得だ」と追い詰められる。その中で彼は神に「私の罪など見張らないで、放って置いてくださればいいのに」と訴えた。
苦難の時、なお神様から離れず、神に問い、神に嘆き、百%神と格闘している。「神様にすがる」って、こういうことなのかもしれない。願い事をする時じゃなく、苦難の時に、信仰はあらわになる。
●14(火)
あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 (レビ25・2)
主の命令がモーセに降る。6年の間は畑に種を蒔いて収穫して良いが、7年目は土地を休ませねばならないと。安息命令は人間だけではなく、大地にも及ぶ。
ああ、いわんや人間をや! 休むことは、私のことを私以上に心配していて下さる神様の命令、御父の願いなんだ。「休みが必要なんだ。息継ぎなしに走り続けるな」と。だから、休む場所は、御前でなきゃ。礼拝以外の場所はないのですね。
●15(水)
主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。 (ヨシュ24・16)
老人ヨシュアが、民に告別の言葉を語る「主を固く信頼せよ」と。それに応答して人々が答えたのが、これだ。しかしこの時、人々は既に諸々の偶像を拝んでいた。
「不信仰。背信」って何だろう・・・と改めて思う。それは、単に主を信じない事じゃないのかも。むしろ、自分がしたい事を何でもすること、自分の常識を神としていること、この世に倣うことを優先していることかも。片手間に主も拝むことだ。私の生活にも忍び込む罪。
●16(木)
主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。 (王上11・10)
二度も現れたというのは、神様が心配で「絶対、絶対だめだからね」と、ソロモンの傍を離れられなかったということ。そこまで手厚く思いを掛けていただいた彼なのに、それでも背信へと走るソロモン。そこに、背信への誘惑の恐ろしさを見る。
「私なら、そこまで思われたら絶対従う」と思って、すぐ「ソロモンでさえ駄目だったのに、私なら速攻背信だ」と思った。奢らないことが、私を堕罪から守る。
●17(金)
塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光りの露。 (イザ26・19)
この「あなた」とは、主なる神のこと。人々が背信のゆえに平和を失って苦難に在る時、イザヤが回復の希望告げた。暗闇の中に「光の露」が降りるよと語った。
でもなぜ喜びが見えない現実に、彼は光の露を見ているのだろう。民はまだ償いもしていないし、これから裁きの日が来るのに、既に赦された民のように接している・・・。あ、彼は民を「救われる者達よ」と見ているのかも。「相応しくない者が、そのままで赦されること」が「救い」だから。
●18(土)
主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創18・15)
八十九歳のサラが、主から「来年、男の子を産む」と知らされ、「そんなはずが無い」と神の言葉を嘲笑した。途端に主から「なぜ笑ったのか。主に不可能なことなどない」と叱責される。それでも「笑ってません」と嘘をついて弁明するサラに、主が言われたのがこの言葉だ。
サラは自分の常識を神の言葉の上に置き、叱責されても弁解する。なぜ「はい」とも「御免なさい」とも言えなかったのか。
そこに自分の姿が重なる。だからこそ今日、信仰を刷新する転換点にしたい。
●19(日・第3主日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師
●20(月)
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。 (エレ20・9)
主の言葉を伝えたエレミヤに、人々からの嘲笑が浴びせられた。だから二度と伝えるものかと思った彼が、その直後にこの言葉を告白したのだ。
私も日毎に御言葉を受けている。でもそれを隣人や家族に伝えているだろうか。私の中の御言葉も、伝えられることを願って燃えているのに。口よ、語れ!
●21(火)
(あなたたちは)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。 (ヨシュ24・15)
モーセの後継者として民を率いたヨシュア。彼は民にコンコンと神様がどんなに守って下さったかを語る。奴隷の家エジプトからの脱出と、その後の荒野の旅路の守りも。そして今、約束の地に辿り着いた時に人々に問うのだ「主に仕えるか、または土着の神に仕えるのか。どちらか一つを選べ」と。
どちらか一つなんだ。どちらも、では駄目なんだ。片足信者じゃ、必ず転ぶから。それもその怪我は重傷になるから。
●22(水)
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。 (イザ29・19)
背信のゆえに滅んだ後、回復の希望が告げられた。それは人々が悔い改めたゆえの恵みじゃなく、主の憐れみだった。
喜びに心躍る時がある。でもその時「聖なる方のゆえに、主のゆえに」と、どれだけ心を神に向けているだろうか。主を忘れて万歳と心躍らせるだけかも。「主のゆえに」というのは、自然に心に浮かぶ思いじゃない。全てのことにおいて意識的に心に刻まねば。この一点で、一日が変わる。
●23(木)
主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。 (ナホ1・7)
専制的な権力によって異国の地ニネベに住む人々は苦しんでいた。その街に向けてナホムが告げたのは、弱く虐げられた人々に向けられた神の強い眼差しだ。守り抜いて下さるという圧倒的な宣言だ。
神の民以外にまで御手が覆っていることを示す。神の愛は、パウロの異邦人伝道以前から及んでいたんだ。あ、当然かも。だって全ての命は御手の業なんだから、ご自身のものを大事にされるはず。そこに私の友人の命も入っていないはずはない。
●24(金)
お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 (サム上17・45)
少年ダビデがペリシテ軍の大男ゴリアトの挑戦を受けた。イスラエル全軍は怯えたのに、少年の勇気はどこから来たのか。
「主の名によって」とは「主が戦う」ということ、ここなのだ。私も大きな困難=ゴリアトに襲いかかられる。その時、ダビデのように主を見るのか否か。そこで結果まで違って来るんだ。勝利か敗走か、と。
●25(土)
あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。 (申6・15)
「主は熱情の神」って、どういうことかなと思って聖書を開いたら、主を捨てて異教の神々に走ったなら、主の怒りは燃え上がるということだった。
激しく愛することって、激しく求めるということ。「恵みの全てをあなたにあげたい」という真剣さ。逆に「あなたを想う私を裏切らないで」ということ。主は私を祝福によって独占したいんだ。なんて素晴らしい独占なんだ! その傍から、どうして離れて良いだろうか。留まって生きたい。
●26(日・第4主日)
主日礼拝説教
ナグネ牧師(日本基督教団韓国派遣宣教者、長老会神学大学校助教授、聖学院大学総合研究所客員教授)
●27(月)
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。 (ハバ2・3)
南王国滅亡の時代に立った預言者ハバクク。神の義しい裁きのために押し寄せる敵軍の迫りを見て「裁きのためとはいえ、敵が容赦なく剣を抜いても良いのでしょうか」と嘆く。その彼に、主の言葉が届いたのだ。「もう一つの幻がある、神に従う者は生きるから」と。希望の預言だった。
罪と過ちに、自らを見て「悔いと嘆き」があり、同時に御言葉を見て「救いと希望」を見る。その全てに神が関わっていて下さるのですね。嗚呼それが信仰生活!
●28(火)
神は言われた。「地には草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 (創1・11)
天地創造の場面。混沌の中に、光と闇が分けられ、天と地が分けられ、地には植物が満ちて行く。世界が生まれた!
全てのものが神との関りの中で命を得ていく。その壮大な関りよ! その壮大な関りの中に、私の小さな命も入られているんだ。私の中にも、神の天地創造がある。それは、私も神に結ばれて、世界の全ての命と繋がっているということだ。
●29(水)
「わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」 (出19・5)
エジプト脱出の後、モーセと人々はシナイ山の麓に着いた。そこで神がモーセに語りかけたのだ。この直後、モーセは山に登り「契約」の中身である十戒を賜る。
神様はいつも「こっちの道を行け、迷い道に入るな、こっちの道が祝福に満ちる所へ行く道だから」と示される。そういう道標が「契約」なんだ。それもカーナビのように、迷っても、道を外れても、立ち帰る道を示してくれる、「こっちだよ」と。
●30(木・昇天日)
生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主 (ルツ2・10)
異郷の地で夫と死別し、二人の息子たちも死に、嫁のルツだけを連れて失意のうちに帰京したナオミ。その嫁ルツが、ナオミの親戚で地主のボアズから厚意を得、食べ物も満ち足りて行く。その不思議な成り行きを見ていたナオミが、背後に主の御業を感得して言った言葉がこれだ。
全ての出来事の背後に、主の生きた御手がある。私の生活にも、主の慈しみが惜しみなく注がれているんだ。その目があれば、苦難の日も希望の光が見える。
●31(金)
「わたしは主である。」 (出6・2)
モーセが主の命令通り、ファラオに「民を去らせよ」と言うと、逆に民の労役は重くなった。民がモーセに不満を言い、モーセが主に訴えた時、主から「必ず救い出すから」との答えが伝えられる。その冒頭に、この宣言があったのだ。
「わたしは主である。」これは何にも増して確実な、約束成就への基。その御声は、今朝私にも届いているのだ「わたしはあなたの主だ」と。その一言を胸に、波のように襲い来る心配事があっても、恐れず今日の一日へと踏み出そう。いざ。