2019年04月30日

『日々の聖句』2019年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年4月

(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(月)
身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。    (詩3・6)

 ダビデ王が、息子アブサロムの反逆に遭い、命を狙われた。争うことを避けて逃亡した彼が、荒野で詠んだ歌。
 愛息子の牙から逃れた先は、戸惑いと悲しみしかない荒れ野だったはず。悲しみと絶体絶命しかないはず。そのどん底にいるのに、彼は平安に包まれている。恐れてもいない。なぜ? それは、主の御手の中で眠り、また生きているから。あっ、「平安」は、危機が無い「無事」に在るんじゃなく、「主の御手の中」に在るんだ!



●2(火)
(主は言われた)「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 (ヨナ4・11)

 ヨナがニネベに「都は滅びる」と告げた途端、人々は悔い改めた。その展開に不平を言った時、彼は神の御思いを聞いた「私は罪人を惜しまずにはいられない」と。
 ヨナ書は、この神の一言で終わる。つまりこれを伝えたかったということ。神の御思いの奥底にあるのは裁きでなく「あなたを惜しむ」だ。その御心の中に私も居る。


●3(水)
わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(サム上2・30)

 祭司エリの息子たちが、その特権を利用して私腹を肥やしていた時、神の使いが父親のエリに忠告した言葉だ。
 一読した時、神が「私を重んじるのだぞ」と促す言葉だと思ったら、「お前は私を侮っている」と叱責しておられたのだ。それにしても息子の不義なのに、なぜ父親がとがめられるの? 背く息子には、神の怒りも届かないから? 叱責を聞き取れるのは、信仰が消えていないからかも。叱責が届く人には、神の期待があるんだ。


●4(木)
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。   (イザ35・3)

 敵が取り囲んでいる。その先には都陥落しか見えないという現実の中で、預言者が告げたのは驚くべき言葉だった。今こそ力をみなぎらせて立ち上がれと促したのだ。そして今朝のみ言葉の後には、それができる根拠も続けて告げられていた「見よ、あなたたちの神を」(4)と。
 続く逆境の中で、人は意気消沈する。未来への計画も立てられない時に、失望もする。でもそのただ中で、この世にない言葉を聞くのだ「強くあれ」と。「神を見上げるならあなたもそうあれるから」と。


●5(金)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。  (申6・5)

 モーセの勧告の中心がこれだ。これを子々孫々に、寝ても覚めても語り伝えねばならない。勿論、自分の額に貼り付け、家の戸口の柱にも刻まねばならない。
 「全身全霊で神を愛せ」、これは神の命令なのだ。単なる暗唱聖句じゃない。「人生そのものが神を愛する者」となり、「生活のどの場面を切っても金太郎飴のように神を愛する者」となっているということ。
私は中途半端にしか聞いて来なかったかも。神の厳命なのに。信仰者なのに・・・


●6(土)
主は、はるかに高い天に住まわれ、シオンに正義と恵みの業を満たされる。 (イザ33・5)

 亡国の憂いの中で救いを求める悲痛な祈りが、急転、信頼の言葉に変わる。
 本気で救いを求める時、本気で神を仰ぐ。そのとき、自分の願望成就の手伝いをさせる召使のようなカミじゃなく、神様が御自分を顕される真の神を受け取ろうとするのかも。その時、本当に自分に関わられる神を知るんだ。そしてその時ようやく分かるんだ。現状はまだ不安の中にあっても、平安が神様から来るということを。このイザヤのように。

●7(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●8(月)
初めに、神は天地を創造された。 (創1・1)

私が生きるこの世界を開始されたのは、唯お一人、神であられる。それは、この世界は全て神の支配で満ちているということ。それはまた同時に、私が支配者ではないということ。聖書はその宣言から書かれ始める。
いつも生活の中に不満や不安が満ちて来るのは、自分の世界の中に神様を見失っているからかも。神様の御業の跡はいっぱいあるのに・・・。そうだ、「神が創られた」、この一点を、今日心に刻んで歩いてみよう。世界が違って見えて来るから。


●9(火)
ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創32・27)

 ヤコブがヤボクの渡しで、神と一晩中格闘して、明け方にこの一言を言ったのだ。
 どういう闘いだったのかは知る術もない。でも一つだけ分かることがある。私はこんなにも神にしがみついて、取っ組み合いをするように祈りすがったことはないと。本当は神様と格闘するほどに真向うべきなのに。私こそが「祝福してくださるまで離さない」と、生涯かけて言い続けなければならない者なのに。ご利益を求める時にだけしか真剣になれない自分に気付く。


●10(水)
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。(エレ31・17)

 南王国末期の預言者エレミヤが、滅亡、捕囚の苦難を語る。でもそこに目を据えつつ、その中に回復の将来をも見たのだ「未来が在る。希望が在るよ」と。
 これまで私は、苦しみがないことが恵みだと考えていた。でも、私を立ち帰らせるための御手による苦難なら、そこが神の関わって下さっている場所。ならばその道の先にこそ、主から賜る希望もあるということ。その道の外に自分勝手に逸れることが、恵みの喪失なのだ。


●11(木)
主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。 (イザ49・5)

 イザヤが神様から使命を言い渡される。それは、全ての民を神のもとに立ち帰らせるべく遣わされる者となる大役だ。その時イザヤはこの言葉を言った「主の御目にわたしは重んじられているのだ」と。
 自分には荷が重くて無理と思う奉仕を前にした時、逃げ出したくなる。言い訳まで考えて断りたくなる。でも、その時にこそ知るべきことがあるのだ。「その重荷こそ、私が神に重んじられている印」と。そこまで信頼して下さる主に委ねたい。


●12(金)
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創3・21) 

 自分たちが犯した神への背き・堕罪によって、エデンの園を追放されるアダムとエバ。見捨てられて当然のことをしたのに、その二人が園の外で凍えないようにと衣を作られ、そっと着せてあげたのは、神ご自身だった。
 神様はどういう思いで、出ていく二人を見詰めておられたのだろう。悲しまれたのは神。その悲しみを私も神様に味わわせている。でもそんな者にさえ衣を着せられた御心を想って、今日の祈りを始めたい。


●13(土)
「なぜサラは笑ったのか。・・・主に不可能なことがあろうか。」(創18・13〜14)
   

九〇歳にならんとするサラが、主から「子どもが生まれる」と聞いた時、失笑した。その笑いは、「いくら神でも、無理だ」という軽蔑。サラは、現実と、神の全能とを天秤にかけた時、神の約束でさえ信じられなかったのだ。
身震いした。信じないということは、神の言葉を軽蔑することだと気付かされたから。神のみ言葉を聞いても、私も笑っている輩だったかもと、気付かされたから。


●14(日・第2主日・棕櫚の主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●15(月)
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。(箴3・11)

 神と人との接し方を、父と子との関係で表す。厳しくもあり、慈しみ深くもある父の姿として。
 いつも祈る中で、懲らしめは辛いから「出来るだけ少なく、出来るだけ短い間で」と願っていた。でも、激しく関わられるのは、誰よりも私を心配して下さっているから。見放されていないから。愛想をつかされていないから。そこに子を愛する父の姿があるんだ。「私を大好きで関わって下さる天父の御心のままに」と祈らなきゃ。


●16(火)
イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。(詩121・4)

 「わたしの助けはどこから来るのか」と歌い始めた詩人が、次第に気付いてゆく。そこに今朝の言葉が告げられたのだ。
 いつも「助けて下さい、神様」と祈って、そこで祈り終えてしまう。だから不安のままだったのかも。今日から「助けて」と祈り終わらずに、あと五分、もう十分だけ祈ってみよう。神様が、今まで自分にとってどういうお方でいて下さったのかを思い出しながら。そうしたら、私もきっと今朝の御言葉のように気付けるのだから。


●17(水)
主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。 (出15・2)

 モーセたちは、エジプトを脱出してすぐ行く手を葦の海に阻まれ絶体絶命になる。そのとき神が海を割って彼らを救われたのだ。そこにモーセと民も声を合わせて主を賛美する歌がこだまする。その言葉の一節がこれだ。
 私は救われても「ヤレヤレ」と胸をなでおろすばかりで、感謝の祈りさえ忘れていることがある。救われた時が、主を忘れてしまう落とし穴が開く場所。ああ、私にも常にこの歌の言葉を歌わせ給え。


●18(木・洗足の木曜日)
(主は仰せになった)「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」(ヨブ40・8)

 苦難に遭っているヨブが「なぜ不正もない私が苦しむのか。神は何をしているんだ」と延々と呟いて、信仰から迷い出た後のこと。嵐の中から神が「神を責め立てるお前は何者か」と仰せになる。延々と諭す言葉の中に、今日の御言葉もある。
 私も、主にガツンと言われたほうが自分の立ち位置をハッキリ悟れるのかも。神のガツンは、一瞬にして私を呼び戻す声。


●19(金・受難日)
神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。     (ミカ7・18)

 イスラエルの民の咎と罪のゆえに国は滅びる。義なる神の裁きのゆえにだ。その只中で預言者ミカは人々に神の御心、御言葉を告げた、「赦し、慈しむ神だ」と。
 私の罪も神は見逃さない。神は誰よりも(私自身より)罪を凝視され、償いを問われている。義なる神のゆえ、見過ごせないのだ。しかし今朝、その憤りに優るお心を聞いた。悔いる私を求めて「お前を失いたくない」と叫ぶ慈父の御声を。


●20(土)
わたしには重すぎます。(民11・14)

 一人で全イスラエルの民を牧会していたモーセ。人々の不満は、一人モーセに向かう。それでも、神の約束の地カナンに人々を連れて行こうと労するモーセ。ついに疲れ果て、「この人たち全てを負うことは出来ない」と言ったのだ。その直後、主はモーセを支える七十人を聖別された。
 どんな小さな集まりでも、人の不平不満を一人で背負ったら、つぶれそうになるのかも。そんな時は、SOSって言って良いんだ。独りで支えなくて良いんだ。必要な助け手も、神様が添えてくれるから。


●21(日・第3主日・復活祭)

イースター記念礼拝

          説教 辻川篤牧師



●22(月)
わたしに従い通したので、わたしは彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ。(民14・24)

 この「わたし」とは「主なる神」。民がモーセに不平を言った時、神は怒って「この共同体を捨てる」と言われた。でもモーセが必死に執り成すことで、主は「聞き従わなかった者は祝福から除かれ、従い通した者は祝福に入る」と言い渡されたのだ。
 神は人を、十把一絡げで見られない。一人ひとりをしっかり見ていてくださる。その故に、まず自分が主に従う者でなくちゃ。人の信仰を裁いてる暇なんかない。


●23(火)
主が、「このようなことをしてはならない」と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。(王下17・12)

 北イスラエルが滅ぼされることになったのは何故なのかを列王記は語る。人々が神以外に偶像を造って拝んだからだ、と。
 偶像崇拝など、私はしていないと思う。でも最もタチの悪い偶像は、自己欲。神が「してはならない」と言われても、「私のやり方が正しい」「神様のことは教会でだけ。実生活は私が主」とやりたいように生きる己の心。そんな心に御言葉が再び警告する「そっちに行くな。危ないぞ」と。


●24(水)
いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 申4・7)

 イスラエルの民がいよいよ主の約束の地に入ろうとそる直前。モーセが勧告して再び主との掟を語り直す。その中で、約束を交わした神の慕わしさを告げたのだ。天地の主は、あなたに近付き、いつも傍で守って下さる神だからね、と。
 「神を知る」恵みは、今日の一日も神が傍におられると信じられる事。目には見えなくても私の横を御支えが伴走する安心を握る事。これが信仰者の特権だ。


●25(木)
(神は)安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 (創2・3)

 神は天地創造の第七の日に「ご自分の仕事を離れ、安息なさった」(二節)。神様は仕事を離れることを大切にされ、特別な日として格別に大事にされたんだ。
 最初に「休むこと」をなさったのは、神様だったんだ。働くことを喜ばれたのと同じように、休むことを喜ばれた。むしろその日を祝福の日とされている。そういう神様に会えるのが安息日の礼拝。創造された全てを見て一緒に喜ぶ日だ。まるでお祭りの日のように。然り、真の休み万歳。


●26(金)
わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。(エレ11・20)

 民が神に背いた罪に、神は断罪を伝える。それもエレミヤに「彼らのために嘆いても祈ってもならない」と釘を刺して。そこに彼は、「お任せします」と応答したのだ。
 執り成しの祈りさえ拒絶される厳しい断罪だ。それに従うしかないエレミヤ。改めて、罪の恐さを想う。でもその罪の重さに気付けた時、やっと人は「救われるしかない己」に気付けるのかも。そこで十字架を仰いだ時に分かるんだ、「滅ぶべき我が身にもかかわらず、愛された」と。


●27(土)
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。(申30・14)

 モーセが民に伝えた神の御心としての戒め。「こっちに行けば幸い、でも他の道へと逸れれば災い」と。そこに加えた一言が今朝の御言葉だ。道標は、あなたと一緒にあるから迷うことはないよね、と。
 「神様は私の心に道標を立てて下さったのに、なぜ脇道に入るだろう、ちゃんと歩いていたはずなのに」、なんて、すぐ他人事で話す私。近道、寄り道、迷い道へとハンドルを切るのは、自分の手だったのに。


●28(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●29(月・昭和の日)
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。(哀3・32)

 御言葉は「十分懲らしめを味わえ」と告げる。でもそのあと、「懲らしめても、また憐れんでくださる」と告げられたのだ。それは、悩ますことが「御心ではない」のだからということだ。
 「コラー」っと神様から叱られている時に、そこから逃げ出すことばかり考えていた私。でも違うんだ。ちゃんと叱って下さる方こそ、ちゃんと私を愛していて下さる御父なんだ。だから懲らしめを受け止めることこそ、愛の受け止め方なのかも。


●30(火)
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。        (エレ29・11)

 バビロン捕囚として異国の地に連行された人々に、預言者エレミヤが希望の手紙を書き送った。その中の一文がコレだ。
 どん底にいる時の慰めは、その先に「新しい平和の計画がある」と神様が宣言して下さることだ。すぐに奇跡が起こって苦難が無くなることじゃない。それなら新しい苦難が待っているだけかもしれないから。そうじゃなくて、コレなんだ!

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:24| 『日々の聖句』