2019年03月31日

『日々の聖句』2019年3月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年3月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)




●1(金)
わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。(イザ48・18)
 
神様が民に「お前たちが私に背く者であったことを知っている」と語り掛ける。そこでなお告げられたのが、このみ言葉だ。
 神様の恵みはどこにあるのかと嘆いた日々が、私にもある。でも今日分かった。恵みの流れを堰き止めたのは私自身と。御言葉に生きないで、自分勝手に生きた背きが、恵みの大河を堰き止めた。砕きたまえ、私の罪を。恵みが流れ込むため。


●2(土)
人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。 (創9・6)

 大洪水の後、箱舟から出たノアに、神が人間の尊さを改めて告げる。命である血を流す者の償いは、命によって償わねばならぬと。人の命は、神が御自分に「かたどって造られた」ほどに尊く重いからだ。
 隣人の尊さは、神様との関係を見ないと本当には分からない。人間だけを見ているから簡単に傷つけてしまうのかも。言葉で刺して、心に血を流させることも同じ重い罪。神の悲しみなのですね。


●3(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●4(月)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。 (哀3・57)

 都陥落の中で、主に背いた故に起こった滅亡と知る者が、なお呼び求めている言葉だ。主の怒りを受けつつ、なお神にすがる。主以外に自分を赦し、なお愛して下さるお方はいないと信じているからだ。
 自分が御言葉に背いて生きたゆえの苦難だと知る日々の中で信仰は問われるんだ。自分の罪を悟ってなお「あなただけ」と神に求められるか、と。罪人なのに「なお愛される」と信じ切れるのか、と。切なくても呼び求め続けられるのか、と。


●5(火)
奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。 (出13・3)

 出エジプトの恵みの出来事の後、モーセが民に向かって「この日を記念せよ」と告げた。単に「ああ良かった、感謝」で終わらせるのでなく「神が私を救われたんだ」と子々孫々に語り継げと命じたのだ。
 私も神の恵みを受けて生きている。それなのに、願う時はしつこくしたのに感謝の祈りは一瞬で終わらせる。いや、忘れていることさえ。自分の祈りを変えなきゃ!


●6(水・灰の水曜日、受難節に入る)
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしをつけられた。 (創4・15)

 人類最初の殺人は、兄弟殺しだった。神は激しく嘆かれ、憤られて兄カインを追放される。しかしなのだ。神様は、人がカインをうち殺してしまわないように、「この者は神のもの。何人も手を触れるな」と、守るしるしをつけて下さったのだ。
 神は義しい方。しかしそれを上回って、神は愛なる方。罪人をなお愛されて守られる方。その御心の中に、私も入れられているのだ。この罪人の私も。


●7(木)
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。  (創12・4)

 アブラハムは、神様からの「私が行けという場所へ旅立て、地縁血縁の守りを後ろにして」という破天荒な召命に、疑いもせず、質問もせず、条件もつけずに、ただ立ち上がった。主の言葉に従ったのだ。
 「信仰の父」と呼ばれるアブラハム。信仰というのは、黙って主の言葉に従うか否かということに尽きるのかも思う。信じるというのは、心の問題じゃないんだ。ボクも自分を自分で守ろうとする事を一切後ろに置いて、御言葉に従って立ち上がりたい。それは祝福への旅立ちなのだから。


●8(金)
「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」  (王上1・29)

 年老いたダビデ王が、ソロモンに王位継承を言い渡す前に告げた言葉。現実はアドニアが「私が王位を継ぐ」と蜂起し、既に勢力はその方向に動いている只中で、ダビデは「否、神の計画こそが進む。主は生きておられるのだ」と言ったのだ。
 「たとえ世の流れがどこへ向こうとも、神の計画こそが進む。神は今も生きて我らを導く主なのだから。私の先頭を今も行かれているのだから」と言い切る、その決断こそ信仰。風見鶏になるな。


●9(土)
「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。 (エズ3・11)

 捕囚から都に帰還できた民。瓦礫の山だった神殿を再建したくても、資材も人員も足りない。しかしようやく神殿の基礎が据えられた時に、喜び叫んだのだ。
 まだ基礎だけで、建物は目に見えないのに、まるで見るようにして喜べた民。完成した将来が見えたからだ。恵みの実現を信じたから。主への賛美は、目に見える結果に対して起こるんじゃない。ボクは、見える事ばかりに気を取られているのかも。


●10(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●11(月)
あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。 (箴16・3)

 主に自分の計画を委ねるようにと、御言葉は告げる。
「分かった」と思った瞬間、「あれ、分からない」と思った。「ああしたい、こうしたい」という自分の願いと、それを主に委ねるということは、どういう関係になるの? 自分が計画したのに、それを委ねるって、どうすることなんだろう。
ひょっとしたら、私の最初の願いから関わってもらいつつ歩むことかも。ならば、祈らないと一歩も進めないな。


●12(火)
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 (ヨナ4・4)

 神様はニネベの町の人々が悔い改めたのを見て、ご自分が宣告した裁きを取りやめられた。その神様の変更を、ヨナは不満に思って怒ったのだ。「償わせて当然なのに、なぜ簡単に赦されたのか」と。
 私も、そんな思いになる時があるのかもと思った。敵には裁きで、自分には愛を向けて欲しいと思っている時があるから。自分が神にでもなったつもりになっている。私も、その憐れみによって赦された〈神の敵であった者〉ということを忘れて。


●13(水)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。  (創19・29)

 罪に満ちた町ソドム。神の裁きによって滅ぼされんとする時、そこに住むロトの家族だけが主に救出された。
 ロトの救いは、ロトの義さによるのじゃなく「アブラハムを御心に留め」て起こったことだったなんて。前後を読んだら、彼が執り成したゆえに神が動かれたのだと分かった。改めて執り成しの祈りの力を想う。同時に自分の執り成しの貧弱さに気付く。真心は、執り成しの祈りと成るんだ。


●14(木)
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。 (民6・26)

 これは「アロンの祝祷」の一節だ。
 主なる神が、御顔を私にも向けて下さる事、それこそが祝福の基なんだ。罪人の私に天地創造の神が顔を向け下さる。それも慈しみの御顔で見て下さる。それを知っただけでホッとする。まるで幼子が知らない道でも、親が見ていてくれるだけでドンドン先に歩んで行けるように。
 「天の父の視線の中に私が居る」、そこに天来の安心を受け取って、〈今日〉という知らない道へ、いざ進み行かん。


●15(金)
主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」
 (民11・23)

 出エジプトの後、荒野で人々はモーセに不満をぶつけた。肉を食べていたエジプトにいた方が良かったと。どこまでも身勝手な人々。その不満を一身に受けたモーセが神に泣きついた時、神が発した一言。
 民の不平と不満を、本当に背負ったのは神お一人。その神が激しく「神の全知全能を見るべし」と迫られた。アッと思った、不安と不満は、罪の姿だったんだと。


●16(土)
苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。 (ヨナ2・3)

 ヨナが神に背いて船で逃亡し、大嵐の中で海の藻くずとなりかけた時、大魚に飲まれて腹の中・・・。そこで彼は主に祈ったのだ。助けを願う資格さえない自分だと分かっていつつも、彼は叫ぶように祈った。その祈りを聞いて下さった神様。
 神が耳を傾けて下さるのは、義しい者の祈りよりも、悔いて落ち込むばかりの者の叫びだ。我儘としか言いようがないけれど「あなたにすがるしかいない、主よ」と呻く祈りだ。そこに罪人の救いが起こるのだ。


●17(日・第3主日)

主日礼拝説教

        西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)



●18(月)
主を畏れることは宝である。 (イザ33・6)

 「主よ、我らを憐れんでください」と救いを求める祈りの文脈の最後を、この一言で締めくくる。
 自分の力や知識を圧倒する敵がいる。さらに自分の中にさえ傲慢が渦巻いていて、災いを呼び込んでしまっている。そんな群がる苦難の中で、なお救いを求めるには、自分を丸ごと神に明け渡すことしかないんだ。自分という城を手放すこと、降参すること、それが神を畏敬するという真の意味なの知れない。そして、そこにしか、主の救いは到来しないのかも。


●19(火)
賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。 (コへ8・5〜6)

 この「賢者」とはどのような人か。聖書はそれを、「災いが降りかかることがあっても『人には何が起こるのかは所詮分かりはしない』と受け入れて、今を生きる人だよ」と語っていた。 「不快なことに固執するな」(八・三)とも記されていた。
そうだ! 自分ではどうしようもないことなのに、心が囚われて苦しんでいたのかも。全てを受け入れる「賢者」は、主に委ねる信仰者のことなんだと思えた。


●20(水)
主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。 (出14・30)

 エジプトを脱出した直後、背後からはエジプト兵が迫り、前途も葦の海に行く手を阻まれた。そのとき主なる神が海を二つに割って、モーセたちを逃げ切らせたのだ。その出来事を人々は胸に刻んだ。そして語り継いだのだ「主は、救われた」と。
 私も人生で、「主が助けて下さった」と経験した。でもすぐに忘れて生きている。まして語り継ぐのでもない。隣人に神の出来事を伝える「証し」に無関心で生きて来た。恵を受けたのに薄情者だった。


●21(木・春分の日)
わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 (創13・8)

アブラハムが甥のロトとの間で配慮したことは、争いの種となるものを注意して取り除くことだった。賢明さをそのために用いたのだ。そして別々に住むことになる。
 私は自分の知恵を、隣人との争いを避けるために用いているだろうか。むしろ相手を打ち負かそうとして、言葉においても行いにおいても争うために使っていないだろうか。「わたしとあなたの間では、争うのはやめよう」との一言は、忘れてはいけない一言なのだ。日々繰り返し唱えん。


●22(金)
主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。  (民27・17)

 主がモーセに「私が与えた土地に入る前に、あなたは生涯を終える」と告げた時、彼は民の行く末を案じて求めたのがこの願いだ。後継者を立てて下さい、と。
 彼が思う事は自分の行く末のことじゃなく、民の事だった。なぜ、自分に不平を言い続けた張本人を、なお執り成せたのだろう。それは、人の集まりにある脆さを知っていたからかも。いや何より共同体を愛していたから。あ、教会と同じかも。主よ、とこしえに良い牧者を立てて下さい。


●23(土)
我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。(ホセ6・3)

 イスラエルの民の悔い改めの言葉だ。しかし驚くことに、このすぐ後に神の嘆きが続くのだ。「お前たちの愛はすぐに消え失せる露のようじゃないか」と。
 アッと思った。真実に悔い改めだったはずなのに、すぐさま消えてしまう姿。それは私の姿と瓜二つだと気付いたから。「悔い改めます、立ち帰ります」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに人を裁いている。主の嘆きは、私が悔い改めない事じゃなくて、その浅薄さにあったんだ。今日気付けた、だから今日変わらなきゃ。


●24(日・第3主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●25(月)
主が御自分の聖なることを示された所である。 (民20・13)

 「示された所」とは、出エジプトの旅で民が「水もない荒野で死なせる気か」とモーセと争ったメリバという場所だ。そのメリバで、主は岩から水を出されたのだ。
 人間が争う場所が、主の御業がなされる場所となる。御業は争いの元を断つためになされた。主が聖であられることを示すというのは、奇跡そのものよりも、人と人との間にある争いを嫌われる方ということ、そのために何でもなさるというお姿なのかも。その主が、私のメリバにも共におられ、和解の奇跡を成される。


●26(火)
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 (出20・3)

 「十戒」の中の第一戒。神が「私はあなたをエジプトから救い出した主だ。どんなに愛しているか分かるだろ」と語り掛けれた後に「こんなに愛している私を捨てるはずないよね」と第一戒を定められたのだ。
 「十戒」には、そのどれにも「私はあなたをこんなに愛しているのだから」という呼び掛けが基調音にある。そこを受け取らないから、神を悲しませる罪を犯すのだ。「私を愛して下さる神を悲しませまい」と受け取ることが、一番大事なんだ。


●27(水)
まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。 (創28・16)

 兄エソウから長子の権を騙し取ったヤコブ。命の危険を感じて逃亡した荒野のど真ん中で主が語りかけた「あなたと共にいるから」と。そこでヤコブは全てを悟った。
 「主がこの場所におられる」・・・それは自分では最悪だと思っていた場所。一人では立つこともできない場所。しかし主は、その場所をこそ「おられる場所」として選んで下さるのだ。そこが救いの場となるから。何だか心が熱くなった。神がおられない場所など、どこにもないと知ったから。


●28(木)
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。 (レビ19・32)

 「十戒」以外にも、聖書には多くの律法が記されている。その中の一つが、年長者に最大の敬意をはらうことだ。それが「神を畏れること」であるとも言われていた。
 今まで「神を畏れる」って、心の持ち方だと思っていた。一歩進んで、御言葉に従う事でもあるかなと。でも「あれ?」と気付く。御言葉に従う事って、今日のみ言葉にも従順である事。神を畏れるって、具体的で身近にある事だったんだ。


●29(金)
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。 (詩23・4)

 詩編二三編は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と始まる有名な聖句。その中にあるのが、この一節だ。
 二三編は、私の人生の中で常に必要だった御言葉で、最大の危機の時にも支えてくれた。そして、これから先もこの御言葉を携えてゆくだろう。最期となる日、ベッドの上で酸素を吸入しながら、この御言葉を心の中で繰り返しているだろう。ここに、平安の全てがあるから。


●30(土)
秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな。 (箴20・19)

 「ソロモンの箴言」と呼ばれて来た知恵の言葉。そして自分の姿を映す鏡の言葉。
 「あの人が、ここで言われている人だ。私もあの人って嫌だなぁと思って来たけど、聖書もやっぱりこう言っているよ」と納得顔して、すぐにアッと思った。「あの人は悪い、私は困っている」と告げ口する唇を持っているは私だと気付いたから。いつも自分だけ良い人になって、人を裁いて・・・私はなんて嫌な人間なんだろう。赦しと救いが必要なのは、私自身だったんだ。


●31(日・第5主日)

主日礼拝説教

         秋葉恭子牧師(相模原教会協力牧師)




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