2018年12月17日

説教 『イエスは僕なのか』

2018年12月16日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
フィリピの信徒への手紙2章6〜11節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


  長く神から離れていた一人の老農夫が、渡りの途を失った小鳥たちを救うために自ら小鳥になって目の前に迫っている危険を知らせたいと願った瞬間、受肉の意味を悟った(「或るクリスマスの出来事」から)。毎年この時期に読んでいる文章です。「なぜ神が人になったのか」の問いに、「愛がそうさせた」(グァルディニ)と言う者がいます。使徒ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)と記します。しかし、宗教改革者ルターはこれを悲劇的な言葉だと告げます。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」(ロマ8章3節)からであると言うのです。人の罪は、御子の死により処断されました。その方法しか無かったのです。しかし、この決意と行為において神の心はどれほど痛んだことでしょう。我が子を死なせるために世に送ったのです。ここに人への痛みを伴った神の愛を見ます。御子も馬小屋で生まれ、直ぐに命を狙われることから始まり、十字架で処刑されるまで、ありとあらゆる痛みを人として経験しました。それでも構わないという人に対する御子の愛を見ます。私たちが受けている愛には言葉には出来ない痛みと犠牲を含まれています。これほどの愛を受けている私たちが父なる神と子なるイエスのために痛むことは、むしろ当然であり、痛みを避けて、恵みだけを求めることは不義理であり、身勝手と言えるかもしれません。恵みだけを求めることは、イエスを私たちの僕をする―言い換えれば、利用する―ことなのです。父と子との痛みに与る備えができた時、実は私たちの痛みは癒され始めています。愛する私たちを父が放置するはずがないからです。私たちも僕に徹しましょう。それがクリスマスに相応しい決意なのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:15| 主日説教要約