2019年01月31日

『日々の聖句』2019年1月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2019年1月
(旧約聖書編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(火・元旦礼拝)
「あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創22・18)

 アブラハムが、長男イサクを献げ物にするように神に告げられた時、苦しみつつも黙々と祭壇を築きイサクを屠ろうとした。その瞬間、彼の神信頼のゆえに親子ともども祝福される。その最後に告げられた御使いの言葉がこれである。
 神を信じることは闘いだと、いつも思う。自分の中にある疑いとの闘い、常識外れだと考える自分の尺度との闘い。御言葉を最優先させるって、自分がこだわる計画を手放すこと無しには無いんだな。でも手放す手に、祝福は溢れるんだ。


●2(水)
ユダのすべての町から人々が主を求めて集まってきた。(代下20・4)

 南ユダ王国の時代。都にモアブ人とアンモン人が大挙して襲って来た。そのとき王は戦略会議を開いたのでもなく、戦闘配備をしたのでもない。民と心を一つにして主に求めた。礼拝し、祈ったのだ。
 私は危機に襲われた時、自分の知恵を絞った。それから計画の成就を祈った。でもその一歩目が間違っていたのだ。聖書をずっと読んで来たつもりで、何を見ていたんだろう。肝心な一歩目が見当はずれだったのに。本気で修正したい!


●3(木)
あなたの父母を敬え。
(出20・12)                    

 律法の中の律法「十戒」の中の第5戒だ。その前半は、神と人との間の掟があり、後半は人と人との間の掟として「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」等がある。今朝のみ言葉は、後半の掟の最初に掲げられた戒めだ。つまり、神と人との間の掟ほどに重要な命令なのだ。
 父母を敬うことは、単なる道徳の話じゃない。誰もが分かっているはずの戒めだけど、誰もが壊しやすいもの。しかし神は、この関係が整う所に恵みを置かれた。ここが、人間関係の玄関なのだ。


●4(金)
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩22・25)      

 詩人は、神様に向かって呼び求めている。苦難の底で(病気か、敵か、死が迫っているのか・・・)手を伸ばしている。しかしなぜかドッシリと信頼し切っている。
 あ、ご利益宗教の神頼みと決定的な違いが分かった気がした。詩人には、願う相手への信頼の固さがある。それは神様と関わる経験を持っていること、自分を守る神が誰かを知っているということだ。


●5(土)
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 (エレ31・34)               

 「神の民」とさえ呼んでいただいたのに、背き続けた人々。その報いであるバビロン捕囚の中で、神の言葉が人々に臨んだ。「もうあなたは罪を重ねないよね」と。
 圧倒的な赦しの宣言は、私への信頼と重なる。御言葉を棚に上げ、神の言葉なのに無視して、そうやって神を裏切った私を、まず信頼して下さる神。その信頼は、愛と重なっている。私は、赦しと信頼と愛に包まれている。それなのにどうしてなお神を悲しませられようか。


●6(日・第1主日・公現日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●7(月)
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(創22・12)

 アブラハムが最愛の息子イサクを焼き尽くす献げ物にすべく、刃物を振りかざしたその時。神の使いが彼の手を止めさせて、「今、分かった」と告げたのだ。
 彼は神の言葉を聞いた時「絶対無理、嫌だ」と思わなかったのか? それでも届いた御言葉に従うのは、葛藤無くしてはないはず。「神を畏れる者か、自分に固執する者か」だ。机上ではなく、生きる現場でこの葛藤が起こる。そしてそこが祝福か、祝福に漏れるかの分かれ道なのだ。


●8(火)
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。(エゼ33・11) 

 この「悪人」とは、犯罪人のことではない。神に背いた人のことだ。旧約では、神に裁かれて滅んで当然の罪人だ。それなのに神様の願いは、その罪人に向かって「立ち帰っておくれ」ということだった。
 旧約の神様って厳格な裁判官と思っていたけど、むしろ子を求めてやまない父のよう。ここに既に、愛の神の姿が見えた思いがした。神様は、ずっと愛だったんだ。


●9(水)
わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。 (エゼ3・10)

 捕囚の民の所へ遣わされるエゼキエル。主は「彼らはあなたの言葉を聞こうとしない」と言いつつ「彼らが拒もうとも『主はこう言われる』と語れ」と命じられた。その言葉を彼の心の中に入れて下さるのだ。
 どうして神を拒む人に、なお語らねばならないのかと思う。私には無理だと思う。でも神様は、その人をそれでも愛し続けておられるのかも。私にもその人を愛して欲しいのかも。神の愛に深さを、私にも生きて欲しいのかも。きっとそうなんだ。


●10(木)
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、・・・彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。(創22・2)

 独り子のイサクを焼き尽くす献げ物にせよと、神様から試みられたアブラハム。
どんな思いでこれを聞いたのだろう? 神様が約束して下さった贈り物としての息子だったはず。一番大切な息子。それを、神に従う印として返せだなんて。
宝も健康も、得たと思っているものは全て預かりもの。ならば失うのではなく、返す日が来る。ならばこれは、誰もがいつかは聞く言葉? 彼はこの後どうしたの。


●11(金)
あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせてくださる。(サム下22・40)

 ダビデを襲う数々の苦難。サウル王から命を狙われ、ペリシテ人が攻め込み、飢饉に襲われ、彼は常に闘うことを余儀なくされた。しかしその全ての時を守ったのは主なる神。その一点を知っているダビデが感謝の詩を歌った。その一節がこれだ。
 私にも戦わねばならない時がある。願わない困難(病や試練も)が襲って来るから。しかしその時に、身を寄せるお方を私は知っているのだ。主よ、それはあなた!わたしの身に力を帯びさせて下さるお方!


●12(土)
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。(サム上12・21)

 サムエルが歳を取り、民を率いることから退こうとする時、告別の説教をした。
 「むなしいもの」と読んだ時、すぐに金や権力のことかなと考えた。でも聖書の前後を見たらハッキリ一つの事が示されていた。それは罪。主を離れ自分を頼ることだと分かって、恥ずかしくなった。どうしてボクは、すぐに罪のことだと気付けなかったんだろうと。罪を軽く考えているからか。自分から遠いものと思ってるからか。

●13(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●14(月・成人の日)
(主は言われた)「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出4・12)

 主が「お前にこの務めを担って欲しい」と召し出したのに「苦手です。弁も立ちません」とあらがうモーセ。それでも「あれもこれも備えるから」と忍耐された主なる神。モーセが踏み出すのを待つ神。
 いつもやりたい奉仕だけして、自己完結してきた私。でも神様は「こっちをこそ担え」と忍耐して待っておられる。そこに踏み出したら、壮大な神の計画が動き出すから。その道をこそ選べ、弱腰の私よ!


●15(火)
わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。(イザ8・17)

 エルサレムに敵が徒党を組んで来る、という知らせが届く。未だ神の助けは見えない。その恐れの只中で預言者イザヤは「なお神にのみ望みをかける」と告げた。
 神に望みをかけるというのは、お願い事を託すという程度じゃなかった。解決の糸口も見えない中で、なお全人生を神様に〈賭ける〉ということ。行く先を主に明け渡して、主権を譲ること。そこで解決が、人の手から、神の手に移るのだ。


●16(水)
泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。(エレ31・16)

 都エルサレムは陥落。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれる人々に、エレミヤが伝えた神の言葉。それは希望の約束、将来の約束。だから「泣きやむがよい」と。
 御心に背いて自分中心に生きたから行き詰まっていた。人との関係においても破れてゆく。その時、もし悔いるなら、この慰めの御言葉が聞こえて来る。立ち帰る者の涙は、必ず拭えるからと。そう言って下さる主と、今日も一緒に歩んでいたい。


●17(木)
主よ、あなたはわたしのともし火、主はわたしの闇を照らしてくださる。  (サム下22・29)

 ダビデが全ての敵と、サウル王の手から救い出された日、主を賛美して歌った。
 順風満帆の歩みに見えていた王なのに、いつも悩みに囲まれていたなんて。それも深い闇の中に居ただなんて。
私も闇と思える悩みに覆われる日がある。そのとき、御言葉に聴こう。聖書のみ言葉こそ、私を導き出してくれる神ご自身の言葉だから。その言葉が、私を照らす光なのだから。そうしたら、私も神を讃えて歌う朝が来るのだから。

●18(金)
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。      (サム上二・三)

 不妊の女と言われて悩みの中を生きたハンナにサムエルが生まれた。そのとき喜びの中で主に祈る。賛美しつつ、同時に改めて自分の立ち位置を定める。悲しみを知って憐れむ主に委ねることに、自分を据え直す。信仰の謙遜さに立ち直した。
 喜びの中で、浮かれて思い上がることがある。自分の訴えが正しかったから願いが叶ったと。でも全ては主の御心、主の憐れみの御業だ。その中に留まろう。「祈って、委ねる」、この後者こそ大切だから。


●19(土)
「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。」(出3・10)

 神の命令がモーセに下る。それは人間のから見たら圧倒的な強の差があるエジプトの王の元に行くこと。だから「どうして私が行かなきゃならないの」と不平も出る。しかしなお神は「行け」とモーセを選んだのだ。民の解放という出来事を起こす神の使いとして。天の使いとしてだ。
 私達も「行け」と言われる場所や隣人の傍がある。そこに出掛けたら、神の御業が起こるために選ばれた一人として。誰もがそのとき、天の使いとされている。


●20(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)



●21(月)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。  (エレ9・23)

 南ユダ王国滅亡が目前に迫る中で、エレミヤが原因を予言する、「主の言葉に聞き従わなかったからだ」と。同時に帰る場所も告げた「目覚めて主を見よ。主こそ慈しみと恵みの業を行う方だから」と。
 神の恵が遠退いたと思うのは、神が私を離れたからじゃない。慈しみを受ける場から離れた私が原因。勘違いして嘆いていたのかも。老牧師が「礼拝厳守」と言ってたなぁ。そこが恵みの受領場所だから。


●22(火)
(ファラオは言った)「主とは一体何者なのか。・・・わたしは主など知らない」 (出5・2)

 モーセがエジプトの王に最初に会った時、王が言い放つ「お前が言う主とは何者か。私こそが主であり、王であるのに、他の誰に従うべきだと言うのか」と。
 ファラオのなんと不遜な言い方かと思う。その瞬間、彼の言葉が私の中にもあることに気付いてゾッとした。私も「この件については、神様に従うことはできません。私のやり方でしかやれません」と神様を払いのけている時があるから。その姿は、ファラオよりも不遜な者になっている。


●23(水)
主は約束なさったことを実現された。 (王上8・20)

 ソロモン王が、神の支えの中でとうとう神殿を完成させた。そのとき民の前に立って告げたのだ。父ダビデに神がなさった約束は、一つの言葉も欠けずに、ついに実現したのだと。約束の言葉は、神の口から放たれた時、どんなに時間がかかっても必ず実現へと向かっているのだと。
 神の約束の御言葉を信じたら、その瞬間に私の世界は一変する。現在は、神の計画の実現に向かう時間となるから。ああ、自分の将来を狭苦しくしていたのは、誰のせいでもない、私の不信だったんだな。


●24(木)
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。」 (創17・9)

 神がアブラハムに約束を交わされた「あなたを祝福する。あなたの子どもも孫もだよ。ずっとずっとだよ」と。そして「だから」と続けられたのだ。「だからあなたはその私の約束に従って生きるだけでいい」と。
 今まで「契約を守る」って、堅苦しいと感じていた。でも神様からの語りかけは、「ずっと愛しているから。その腕の中で守られて生きたら良いから」ということだったんだ。天の真の父に愛されて生きることだったんだ。その約束の中に居続けたい。


●25(金)
主があなたと共におられることがよく分かったからです。(創26・28) 

 ペリシテ人の王アビメレクが、イサクを見て悟るのだ「主があなたと共におられる」と。神を知らない王なのに、イサクの生活に神が生きておられることを見たのだ。
 私の生活は、隣人から見たら「神が共におられる」と気付けるのだろうか。それとも、不満と不安と憤りしかない「神と無関係の者」のように見えているのだろうか。口で「神を知っている」と言うことと、生活で「神と共に歩むことと」は、雲泥の差かも。私はどっちに立っているのかな。


●26(土)
主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。  (ホセ6・3)

 自らの背信により北王国が滅亡。人々が「我らは主を求めよう」と口で悔い改めた後、この言葉を続けたのだ。それを「信頼し切った悔い改め」と思ったけど、神様は「お前たちの愛は朝の霧のよう」と嘆かれる。これは、偽りの悔い改めだったのだ。
私も悔いた次の瞬間、罪を重ねてる。ルターが言った「主が悔い改めよと言われた時、全生涯が悔い改めであることを欲したもう」が心に染みる。それは真だな。

●27(日・第4主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師



●28(月)
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 (イザ9・6)

 亡国の危機を前にした預言者イザヤ。彼は、国を救うのは人間の努力でも策略でも熱意でもないと言う。「ただ主を待ち望んで、御業に心を傾けよ。闇の中であれ祈りを重ねよ、待っておれ。主こそが、熱意をもってあなたを救うから」と。
いつも目の前の困難にうろたえる私。策を立て、それでも心配で、そこでやっと祈り出す始末。でも御言葉はそんな私に宣言する。ただ主に顔を上げるのみと。信仰は、余裕がある時の心の飾りじゃなくて、闇の中でも唯一残るものなのだと。


●29(火)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。 (詩42・2)

 「神はどこにおられるのか、私には見えない」と苦難のどん底で叫ぶ詩人。
 苦難に陥らない人はいない。でもその時私は、何を求めているだろう。解決策か、解決への奇跡が起こることか。神を求めるのも、奇跡を行う方となって欲しくて呼び求めているだけなのかも。
 詩人の求めはそれとは何かが違う。彼は神そのものを求めている。「奇跡さえ無くていい、ただ会いたい」と喘ぐように叫んでいる。そういう求めが、信仰なんだ。


●30(水)
それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。 (箴3・9)

 収入を手にした時、最初に生活費を取って、残りをささげものに配分するのではない。まず神に一番良い部分を取り分けよと告げられている。そうすればあなたの倉は満たされると約束もされていた。
 私は若い頃、生活費を確保してから「神様、今月はこれだけささげます」と、胸を張って言っていた。神様はきっと「お前にとって私は2番3番手なのか」と情けなく思っておられただろう。ささげることにも、神への畏敬の真実さが現れるんだ。


●31(木)
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。(出15・13)

 追い迫るエジプトの大軍から、神が民を紅海を渡らせて救った時、モーセが歌った神賛美だ。
 誰もが「万事休す」と思ったのに、神様だけがその「万事休す」の向こう側への扉を開かれた。それが神の「御力」そして神の「慈しみ」なのですね。神の慈しみって、あなたの心の中の思いの話じゃなくて、出来事となる力なのですね。つまり慈しみを戴いたら、救いの出来事が始まる。その神の慈しみの射程に、私も入っているんだ。




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