み言葉のパンで生きる365日
2018年12月
(新約編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)
●1(土)
わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。 (使4・12)
ペトロらは「イエスは死者の中から復活された」と告げたゆえに投獄された。その翌日、権力者の面々を前にした審問で、なお語り抜いたのがこの言葉だった。
小心者の私には「怖くなかったのだろうか」と思えてしまう。私たちは、権力者を前にすることはないけど、近所や親戚や世間の面々の前に立っている。それはペトロラと同じ場所かも。勇気が欲しい。主を証するため、私にも聖霊を送り給え。
●2(日・第1主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●3(月)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 (ヤコ1・12)
離散した民が、その地において信仰生活を生きるのに、試練に遭っていた。そういう一人ひとりに向けて語られているのだ「忍べ。その先に命の冠があるから」と。
改めて、試練がない人生なんて一人もいないんだと思う。ならば「なぜ自分だけ試練があるのか」と悩むのじゃなくて、グッと受け入れて、グイっと前へ踏み出そう。手をググっと命の冠の方へ伸ばすんだ。
●4(火)
神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 (ロマ6・23)
「あなた方は今まで罪の奴隷だった。自己本位に生きる罪人だった。そのどこに神への信仰があるのか」と真実を突いた後に、「そのあなたに神様からの賜物があるのだ」と告げられた。つまり、神からの贈り物の大きさに気付ける人は、自分が罪人だとちゃんと気付けている罪人のみ。
永遠の命は、受け取る資格もない自分だと気付けて、悔いた人への賜物。その低いハードルさえ、僕はちゃんと越えてなかったかも。悔い改めもせず浮かれてたかも。
●5(水)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (1ヨハ1・9)
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いる」と語った直後、ヨハネは「御免なさいと言い表したら、清められる」と告げた。
罪を隠すつもりはないけれど・・・もしも自分の罪を数えられないのなら、赦しも清めも救いもないんだ! 主よ、「私は罪人です」と言い表せるほど具体的に罪を数えさせて下さい。そこが、あなたの恵みを受け取れる唯一の場所なのですから。
●6(木)
萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。(ヘブ12・12)
鍛錬というのは当座は辛く苦しいと思うけど、霊の父は私たちを鍛えようとしてそれを与えておられるのだ、と告げられる。その先には、ご自分の神聖さにまで引き寄せようとしておられるのだと告げられたあとで、今朝のみ言葉が言われる。萎える手があるだろう、弱る足があるだろう、でももう一度立ち上がって御覧。目当てに向けて顔を上げて御覧、と。
今の苦難が御父の鍛錬なら、それは今も御腕の中ということ。私は今、安心の中にいるのだ。じわっと力が湧いて来る。
●7(金)
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 (1コリ3・11)
主によって召し集められた群れが「教会」。それは神の神殿、その土台はキリストだと告げられているのだ。
「教会なんだから当たり前」と思ったすぐ後に、土台を忘れていることがあると気付いた。人間の思いで会議して、姉マルタのように動いて、人の常識が声高に言われる時、土台は己の思いになっている。
唯一思いが整えられているのは礼拝に与っている時。その心のまま生活したい。
●8(土)
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 (1コリ7・19)
ユダヤ人キリスト者は、古くからの割礼を受けていることを誇った。異邦人キリスト者は、古いことに縛られないことを誇った。でもパウロは言い切る。神に喜ばれることは、むしろただ一つの事だけだ、それは誰にとっても、神の掟(御言葉)を大切に生きるか否かだ、と。
御言葉をたくさん知っている信仰者がいる。まだあまり知らない信仰者がいる。でも肝心なのは、行うか否かだ。ああ一つの御言葉でもいい、今日そこに生きたい。
●9(日・第2主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●10(月)
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マコ3・35)
イエス様を訪ねて来た母と弟達を指して「わたしの母、兄弟とはだれか」と問われる。皆が、そこにいる家族でしょと思った思いに「御父の言葉を、御子の私が行うように生きる人だ」と言われたのだ。
私もイエス様の弟なんだと嬉しくなる。でも直後に、本当に弟になれているのかと不安になる。御言葉を行っていない自分の姿が分かるから。改めて、肉の自分の生き方を捨てて、〈神の家族〉になりたい。神様と〈他人のまま〉でいたくない。
●11(火)
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。 (ヤコ4・3)
この御言葉の直前に「得られないのは、願い求めないから」とある。本気で神に求めない貧しい信仰。そして続くのが、求めても自分のためのことは得られないよと続くのだ。人はいつも自分しか見ていない。
自分に目を向けることから、主に目を向けることへ向き直ろう。私が主に何を求めるかでなく、主が私に何を求めておられるのかに向き直ろう。そこが出発点、そしてゴール。そこで全てを得るのだから。
●12(水)
(イエス)まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 (マコ8・17)
「5千人の供食」の奇跡も「4千人の供食」も経験した弟子たちなのに、目の前にパンが一つしかないという現実に心を捕らわれて慌てふためいた。そのとき主が「まだ悟れない、心が頑なで鈍い者よ」と嘆かれた、いやあきれられた、いや怒られた。
私も主の守りを経験したのに、次の困難が来たら信頼が消える。現実の小さな苦しみに、信仰は剥ぎ取られてしまう。
でも主は怒りつつ弟子を離れない。その憐れみの中で、私もやっと生きられる。
●13(木)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる。 (ロマ10・12)
この「すべての人」の中には、同族でありながら敵対する人も、神など居ないと理屈ばかりいう人も、皆含まれる。ユダヤ人もギリシア人も区別は無いと言うのだ。
「イエス様を知らないあの人も、神は助けて下さるのだろうか」と気になっていた。その不安に光が差す。「ただ呼び求めれば良いのだ」と知ったから。「呼び求める」ことの絶大な恵みを知ったから。そうだ、私が傍で一緒に呼び求めれば良いんだ。
●14(金)
信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(ガラ3・7)
「良い行いを心掛けているし、正しく生きている。だから神にも認められる」と自認していたキリスト者に、パウロは「否」と告げる。「あなたに欠けたものがある。それは信仰だ。信仰によってのみ神の子とされるのに」と。
律法主義とは無縁だと思っていた。でも、信仰を見るのでなく、自分の生き方を気にしているのは隠れ律法主義だ。改めて、自分の信仰はどうなのか、その一点を見詰め直そう。そこが出発点だから。
●15(土)
自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 (ヘブ12・1〜2)
モーセもギデオンもダビデもサムエルも、全ての神の人らは忍耐強く信仰の道を走った。その歩みに我々も繋がっているのだと告げられる。さらに、我々は共に走って下さるイエス様がおられるのだから、先頭を進んで下さるイエス様がおられるのだからと、呼びかけられているのだ。
苦労はある、しかし独りじゃないということが、何よりもの励ましに聞こえた。
●16(日・第3主日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)
●17(月)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモ2・4)
神は、「第一に願いと祈りと執り成しと感謝を、王たちやすべての高官たちのためにもささげよ」と言われる。そして「すべての人々が救われることを望んでおられる」と続くのだ。救いは、私が望む私の大切な人だけじゃない。異文化・異教徒・支配者・さらには敵も含めてである。
私の祈りのなんと狭かったことか。その祈りの狭さは、私の心の狭さそのもの。今日、祈りの射程も心も変えてみよう。そこからきっと何かが変わっていくはず。
●18(火)
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。(ヨハ14・18)
主が十字架に掛けられる前夜、弟子を前にしてなさった告別説教の中の一言。イエス様ご自身が、離別のあとに弟子たちが抱えるだろう悲しみを分かっていて下さる。傍に姿が見えず、尋ねられず、頼れない不安を知っていて下さるのだ。
それは私も抱える不安かもと、ふと思った。その思いに御言葉は優しく響いて来る「あなたを独りぼっちにはしないから」と。「聖霊を送るから」と。ああ、主の霊が私の内に居られる。私は独りじゃない。
●19(水)
しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(1コリ15・10)
パウロは、自分はキリストの迫害者・神の敵だったのに、主がキリストを伝える器として働かせて下さったのだと分かっている。その彼だからこそ、心の底から言えたのだ「働いたのは私でなく、神の恵みだ」と。
真の謙遜は、単にへりくだることじゃない。それだけなら偽りの低さになる。罪を悔いて、神を高く上げることを欠いたら、見せかけしか残らない。「神の恵み」と言えるのは、生きた信仰の言葉なんだ。
●20(木)
行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。 (ルカ10・3)
イエス様は、弟子たちを含めて七十二人を伝道に遣わす。「神の国(平和の神の支配する日)が近づいた」と宣言するために。その派遣は、オオカミの群れの中に羊を送り込むような困難があるとご存知の上で、だ。
危険を知りつつ託すほどに、信頼して下さっている。私達にも、主の口となって福音を持ち運んで欲しいと、願っていて下さるんだ。その御心を受け取って、私も立ち上がろう。追い風が吹いている。主ご自身から吹く追い風が。「行きなさい」と。
●21(金)
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 (エフェ5・30)
驚くことに、これは夫婦について教えられている中の一文だ。「妻たちよ、主に仕えるように夫に仕えよ。夫たちよ、主が教会を愛したように妻を愛せ」と。そして告げられるのだ「二人はキリストの体の一部、主にあって一体なんだよ」と。
最も近い隣人が夫婦。そこにおいても破れを起こしてしまう現実。だからこそ、御言葉が立ち帰る場を示してくれているのだ。互いに傷つけ合うと、キリストが痛んでいる。補い合って生きてご覧。主もあなた方を包んで支えてくれているからと。
●22(土)
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。(1コリ16・13)
信仰生活が乱れたコリント教会に向けての手紙の結びの言葉だ。烏合の衆となっていた彼らに、再びキリストの十字架を示し、死者の復活も伝え、霊的な賜物の話もして、献金のことも語って来た。その締め括りにこの言葉を告げたのだ。
「しっかり立て」と励ます。でも、自分の遣り方によるのでなく、経験によるのでもなく、「私は赦されて救われた罪人、キリストのお陰で」という基に立つことだ。信仰を欠いたら、単なる〈元気な人〉になるだけだから。教会生活も私生活もだ。
●23(日・第4主日)
クリスマス礼拝説教
辻川篤牧師
●24(月・祝日、クリスマスイヴ)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 (1テサ5・15)
これは有名な「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい・・・」という御言葉に並んで書かれている言葉だ。喜びたい信仰生活を、「悪意」が一気に崩すからだ。その悪は、自分の内側から、行いと言葉によって出て来るのだ。
もしも小さな悪意(相手への不満や、不信、憤りも)を持っていたら、小さな喜びさえ追い出される。喜びを滅ぼす悪は、私の内に居座るからだ。悪を抱えるのも私、捨てるのも私、決断は私がせねば。
●25(火・降誕日)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 (コロ1・14)
み言葉は「この御子によって」とキリストを指し示す。十字架の上のキリストという一点を指さす。あなたも父なる神に「愛する子らよ」と呼んでいただけるのは、御子の死によってのみなんだと。
私が今あるのは御子のお陰ということをつい忘れてしまう。だから信仰生活も生ぬるかった。御子の命という戴き物への真剣な応答でなく、自分で出来る範囲の生き方だったから。降誕日の今日だからこそ「御子のお陰」と心して歩まん。
●26(水)
あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対して。 (1コリ6・8)
教会の中に争いごとが起こっていた。信仰者同士なのに、争っていた。その姿をパウロは嘆いている。教会はその始まりの時から既に、醜い人間の姿のルツボになっていたんだな。
教会は聖い人の集いだと思っていたけど、そうじゃない。罪人の頭領達の集まりなんだ。誰もが救ってもらわなければならない輩だから、神が呼び寄せられたのだ。だからこそ、救われた感謝が一番分かっているはずの群れ。そこに留まりたい。
●27(木)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。 (ルカ6・19)
おびただしい人々が、イエス様のもとに押し寄せて来た。ただ触れることでさえ癒されるから、と押し掛けたのだ。
彼らの姿を「ご利益宗教と、あまり変わらないじゃない」言い捨てには出来ない。イエス様に何とかして触れたいと必死に近づく思いが私にはあるのかと考えたら、恥ずかしくなったから。彼らの「何とかして」と走り寄る姿は、人目なんて気にしていない。心の中がイエス様でいっぱいになっている。心にイエス様だけがおられる。そんな姿に私もなれたらとさえ思えて来た。
●28(金)
相変わらず肉の人だからです。 (1コリ3・3)
「肉の人」って何だろうかと聖書を見たら、「互いの間にねたみや争いが絶えない」人のことだった。そういう自己主張し合う者たちは「ただの人だ」とさえ言い切られる。その語気には嘆きさえ聞こえる。
それも、「相変わらずだな」と言われていることにドキッとしてしまった。少しはキリスト者らしくなれていると思っていたのに、相変わらずの私だなんて。未だに愛するのでなく、争いを起こす肉の人。小さな自己主張を身にまとった肉の者。ああ、今もまだ私は、憐れみにすがる他なし。
●29(土)
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。(1コリ12・6)
与えられた賜物を生かして奉仕する。そこに喜びがあるのは、賜物を生かせる喜びと繋がっているのだろう。でも御言葉は「その働きは神がなさっている」と語る。
私は勘違いしてたのかも。私に御自分の賜物を与えた神は、〈私を用いて〉〈私を通して〉御自分が働こうとしておられるのに。神がなさるのに、自分がしたと勘違いしたら、そこで人目が気になることも始まるのに。どえらい勘違いをしてたかも。
●30(日・第5主日)
主日礼拝説教
秋葉恭子牧師
(相模原教会協力牧師)
●31(月)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エフェ5・8)
今までは神を悲しませて「憤り、怒り、わめき、そしり」など悪意に生きていただろうと聖書が語りかける。しかし続けて、あなたはキリストに結ばれたのだから、暗闇は去り、光の中に立っているのだと告げる。そこに高らかに響く、「光の子として歩みなさい」との御声が。
今年を振り返りつつ、悔い改めて決意を新たにするのに相応しい神の言葉をいただけた。さあ腰の帯を締め直して、光の子として歩まんと。