2018年11月04日

召天者記念礼拝説教 『わたしを信じる者は、死んでも生きる』

2018年11月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書11章17〜27節
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 
 イエス様がマルタと対話を始められた時、マルタはまだユダヤ人の先祖の宗教観の中にいました。それは死んだ後に、「終末の日、人は皆、死んでいる者も復活する、神の裁きを受けるため」ということです。そのマルタにイエス様は、同じ「復活」という言葉を重ねて、対話を始められました、「わたしは復活であり、命である」と。

 主イエスは、「私は死んで終わらない、私は復活する。それは永遠の命につながる復活なのだ」と言われたのです。その「永遠の命」とは、単に不老不死になるというような身体の話ではありません。父なる神に愛された子供として、『あなたが大好きだ』と言っていただく命です。それは御父にとっての御子と同じ命となるということです。そしてイエス様はそこでマルタを見詰めて「その命をあなたにあげる、あなたにもあげたい」と言われたのです。それが25節の「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という約束であったのです。

 死が怖い。そう思えるのは、死が断罪と滅びに結びついているからです。自分だけが知っていて、墓場まで持っていくと思っている過ちがあるかも知れない。でも墓場まで逃れたら、それで終わりというんじゃないんです。そこが終着駅じゃないからです。終わりの日、その償いを求められる。そこに恐れがある。でもその恐れに向けてイエス様が、「大丈夫、私はあなたの罪を引き受けて死んだ。でもそれだけでなく、私はその死さえ打ち破って復活した。さあ、その私にしがみついたらいい、私を信じたら良い」と断言してくださったのです。「恐れるな、あなたは私と同じ復活の命に生きる」と言っていただけるのです。これは、イエス様が、「あなたのことが大好きでずっとずっと一緒に生き続けたいから」と願ってプレゼントして下さった福音なのです、「わたしを信じる者は、(私と一緒に)死んでも生きる」と。
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