2018年11月30日

『日々の聖句』2018年11月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年11月

(新約編)
右向き三角1その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
右向き三角1短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)


●1(木)
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 (ヨハ7・37)

 仮庵祭でイエス様は「渇いている人は」と呼び掛けられた。そして与える〈生きた水〉は〈霊〉であると聖書は加えてもいる。
 「渇いている人よ」と呼び掛けられて、きっと多くの人が振り向いただろう。人は誰もが本来渇いているから。その渇きはこの世の何ものをもっても埋めることは出来ない。だから、「自分で何とかできる」という人じゃなく「イエス様しか埋められない」と気付けた人が飲める水なのですね。その水は主から出る助け主・聖霊だから。


●2(金)
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 (2コリ3・16)

 自分の行いを見る〈律法主義〉に生きるなら、真の救いは見えない。「しかし」と御言葉は導く。主の方に向き直るのは、聖霊の働きによる、と。聖霊があなたの覆いを取り除いて下さるから、と。
 聖霊が「こっちを見て」と私を招いているのに、私はいつも自分だけを見ていた。自分の正しさとか、自分の願い、自分の不満・・・、どこまでいっても自分の眼鏡を通してだけ。覆いを自分でかぶっていたのか! 信仰の一歩目は、向き直りなんだ。


●3(土・祝日)
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。  (コロ1・23)

 直前の箇所全体で、私たちの目を、キリストの十字架の御業・和解の御業へと集中させる。それから今朝の御言葉が告げられるのだ「そこから離れるな」と。
 キリストの素晴らしさも有難さも知ってはいる。それなのに私は、キリストから離れることがあるんだ。自分勝手に歩く私と、キリストを喜ぶ私と、その間をフラフラしているフラフラ信者。両足で福音に立つ不断の決意こそ、信仰なんだ。


●4(日・第1主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●5(月)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」  (ルカ18・13)

 イエス様は「私は義しく在れて感謝」と祈った人を「その高ぶりようはなんだ」と見詰める。そして「私は罪を犯した。神に愛される資格もない」と祈った人を「あなたにこそ私が必要だ」と見詰められた。
 私もこの罪人のように祈りたいと思う。でも彼のように個々の罪を数えているか。数えないで「雰囲気だけの罪人」なら最大の偽善者かも。主よ、祈りを導いて!


●6(火)
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべきお方です、アーメン。   (ロマ1・25)

最初「ここに神賛美の声が聞こえる」と微笑ましく思えた。しかし聖書を開いて驚いた。そこには痛烈な批判があったから「お前たちは造り主の代わりに造られたものを拝んでこれに仕えた」とあったから。
 ハッとした。神を賛美するというのは、自分の常識やこの世の生き方に片足を染めつつ、もう片足で賛美するなんて、都合の良い生活には無いと分かったから。その人の賛美は、神の嘆きの元でしかないんだ。〈造り主お一人〉に立ち帰りたい。


●7(水)
今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。   (ヘブ3・15)

 この御言葉は3章と4章に3度も繰り返される。聞く者を一人も逃さないで、投網で捉えようとするように。
 御言葉を聞いて、心の深い所で受け止めて、自分を御言葉に添わせようと一歩を踏み出すのは、正に「今日」なのだ。今、この御言葉を聞いた直後「私を変えて下さい」と祈り始めること。その一歩さえないから、いつまでたっても「明日頑張ろう」で終わっていたのかも。さあ祈ろう。


●8(木)
信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 (ヘブ10・22)

 イエス様は、御父がおられる天の聖所に私が入る道を拓かれて、私を執り成す大祭司としてもいて下さる。だから、まっすぐ神に近づけばよいと御言葉は告げる。
 なんて至れり尽くせりなんだ。どこまでイエス様は私のために尽くして下さるの?そんな価値など無い私なのに・・・。
もしかしたら神から見たら私も貴いのかも。それを、誰よりも御子が知っていて下さるのかも。放蕩息子が家に帰るように、私も帰ろう。朝毎に御前に帰ろう。


●9(金)
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。  (1コリ1・23)

 神様は〈奇跡〉を行うことによって人を救おうとされたのではない。また、誰もが納得できる〈教え〉によって導こうとされたのでもない。ただ「あなたのために御子が罪人として死なれた」という十字架を愚直に伝えることによってだけだと告げる。
 〈あの人〉が救われるには、十字架の出来事を伝えるしかない。ハッとした。神様が、〈あの人〉の傍にいる私の口をどれほど大切なものと見ていて下さるか分かったから。己の生き方などで伝えるのではない。


●10(土)
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。 (1テサ4・7)

 パウロが「情欲におぼれるな、兄弟を踏みつけるな、道を逸れれば神は罰せないではおかないぞ」と厳しく命令する。それは単に律法的にではなく、「あなたが聖なるも者となることが神の願いだからなのだよ」と、愛する眼差しで告げたのだ。
 厳しかった母教会の牧師や母が、一番私を愛してくれていたことを思い出す。二人とも「神に喜ばれる子になれ」と言っていた。あれは必死の言葉だったんだ。


●11(日・第2主日)

主日礼拝説教

         辻川篤牧師


●12(月)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。  (マタ6・3)

 人が善行をする時に訓戒された、「人に見てもらおうとしてするな。隠れて誰にも気付かれないようにするのだぞ」と。
 「人に見てもらおうとなんて思っていない、そんな気持ちはない」と思ってた。でも「人の目が気になるのはどうしてだろ」と気付く。人から「良かったね、素晴らしい」と言われたら喜んで、何も言われないと不満になる心がある。それも根深くある、すごく左右されている。神の賞賛より人の賞賛に取りつかれていたからかも。


●13(火)
神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 (1ペト5・10)

 キリスト者がこの世を歩む時、悪が襲って来る。それは「ほえたける獅子のようにやって来る」と告げられていた。そこに苦しむ者に神の力づけがあると言われていた。
 これは、信仰に立って生きんとする闘いを放棄しない者への励ましだ。この世の習わしに流されずに立たんとする人には、神の支えはとってもリアルに感じられるのですね。私もそういう一人でありたいな。


●14(水)
わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。 (ヨハ8・12)

 神殿の中で語られたイエス様の言葉。それも公で、広く知らされた言葉なのだ。
 その言葉は、なんだか謎めいて聞こえる「世の光」「命の光を持つ」等だけど。でも無性に私の心を捉えて放さない。もしかしたら「光」に憧れる思いがあるからか。光の反対の「闇の中を歩く」ことから逃げ出たいと願っているからかな。
 一本の道が見えた気がした。それは光をたどる道。そこを歩けばイエス様に繋がる道。あ、それが「従う」という事かも。


●15(木)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。  (ルカ1・68)

 洗礼者ヨハネの父ザカリアが、聖霊に満たされて語った預言の冒頭だ。年老いた自分に子どもが生まれるなんて信じられなかった彼。しかし今、神の御業を体験した時、今度は主の御業を伝え出す。喜んで語り出す、「ほめたたえよ、主を」と賛美したのだ。
 賛美というのは、自分の感情で作り出すものじゃない。賛美は、神の恵みの御業へのコダマのようなものかも。御業と賛美は二人三脚のように進むのだ。賛美上手な人は、恵み探し上手な人ってことかな。


●16(金)
世の無力な者を選ばれました。   (1コリ1・27)

 神は、家柄や能力や知恵のある者を選ばれない。それらが全くない者を選ばれると言われる。その者たちは、全く無力な十字架の主と同じ所にいるから。その場所で二人は結びつくことが出来るから。
 無力な者で良いんだと聞いて、ちょっと嬉しくなる。自分の無力さを分かっているから。無力が尊ばれるなんて!
 でも待てよ? 何の為に選ばれるのかと思って気付く。御用をさせるためだ。無力をさらけ出して、隣人に十字架の主を持ち運ぶためだ! なんか緊張するなぁ。


●17(土)
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。    (ヨハ15・4)

 イエス様が「わたしはぶどうの木」と話された一節だ。幹につながっていなければ枝の私たちはすぐ枯れる。枝に必要な水も栄養も、幹のイエス様からいただくから。
「嬉しいな」と聞いて「でもつながっているってどういうこと?」と思う。真剣に考えなきゃ、嬉しい気分だけで終わりそう。
栄養とは、御言葉。つながるとは、御言葉通り生きること。そう説かれているイエス様の話を聞き逃したら、気分屋クリスチャンで終わるところだった、危ない!


●18(日・第3主日)

主日礼拝説教

          西田恵一郎牧師(和泉短期大学チャプレン)


●19(月)
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。  (ガラ2・19)

 自分がどんな良いことをしたかによって神に「義しい人」と言っていただけるんじゃない。そうやって自分を見ている人は、自分が神になっている。その自分にこだわることを捨てることが、キリストと一緒に十字架で死なせていただくことなんだ。
 「キリストのお陰で」と生きることと、「自分のお陰で」とどこかで思っていることとは、相容れない。自分主義に死ぬことさえ、イエス様にして頂かなければできないのかも。それほどに自己執着は深い。


●20(火)
愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。  (コロ3・14)

 愛さえあれば良いんじゃないの? と思ってたけど・・・。憐れ、謙遜、柔和、寛容を身に付けて、忍び合う事、許し合う事もせよと言われている。その上に愛することが来るのだ。全てのことを行って、それを完成させるきずなが、愛だから。
 今まで何だか〈部品〉も揃えずに、信仰生活が完成できると思っていたかも。愛だけあれば良いと思っていたけど、違うんだ。まず部品から。やっぱり王道はなく、コツコツ一歩ずつなんだな。


●21(水)
神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。  (エフェ4・32)

 「無慈悲、憤り、怒り・・・一切の悪意と一緒に捨てなさい」と告げられた後に今朝の御言葉が続く。赦すことを妨げるのは、あなたの中の悪意だと言われていた。
「私もあの人を赦そうかな」と軽々しく考えて、ハッとした。「神がキリストによってあなたがたを赦したように」とあるのは、相手を赦すために、命を捨てるほどに傷つくのは自分自身だということだから。相手を上から見て「赦してやろう」なんて、傲慢と、罪の極みだと気付いたから。


●22(木)
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。  (1コリ15・3)

 パウロは、主イエスの十字架と御復活、そして聖霊降臨を語った。その知らせが人を救うから。闇と罪のどん底から救い出すからだ。この神の力である福音を、彼は「わたしも受けた」、戴いたんだと告げた。彼自身が考え出したのではく、自分もバトンリレーの中継走者なのだ、と。
 受け取る→伝える→受け取る。世の果てまで繋がる福音リレー。あ、私も受け取るだけではリレーを中断させてしまう。


●23(金・祝日)
あなたがたも祈りで援助してください。 (2コリ1・11)

 パウロはアジア州での迫害に「死の宣告を受けた思いでした」という。しかしそこでこそ自分に頼らず、神に頼る者とされたと報告する。しかしそこで同時になのだ。あなたがたの祈りの援助も、どうかお願いしますと告げたのだ。それほどに執り成しの祈りは大切なのだ、と。
 自分が信じて歩むことが大事だと思う思いは、ひょっとしたらそこで、自分だけで信じていだら良いという誤解に陥るのかも。それはもはやキリスト教ではない。互いに祈り祈られる群れが教会なのだから。


●24(土)
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。  (1ヨハ5・5)

 悪の世に打ち勝てと勧められ、勇気が湧く。その悪とは、自分が愛したい人しか愛せない事、憎む人をつくることだと告げれている。その只中で十字架の主を信じて、その御姿に倣えば、愛を失った世に抗って生きられると告げられていたのだ。
 世の悪って何のことを言っているのかを知って愕然とした。「世の悪は我の中にあり」と気付いたから。隣人を分け隔てして愛せず、憎んだりする自分がいる。何よりもまず私を、十字架の傍に立たせ給え。


25(日・第4主日)

右向き三角1主日礼拝説教
「だれから聞いた福音か」
コロサイの信徒への手紙一章七〜一二
       大住雄一牧師
        (東京神学大学学長)

右向き三角1午後1時
「伝道70年記念講演」
講 師・大住雄一 東神大学長
テーマ・「70年は短いか」

●26(月)
群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。  (マコ8・2)

 成年男子だけで4千人が、7つのパンと2匹の魚だけで満腹した。その奇跡の発端が、イエス様のこの〈心配〉だった。「なんてかわいそうだ」と心を向けて下さる時、人知を超えた奇跡が起こった。
 奇跡ってすごいと羨ましがって、そういう奇跡は私には起こらないと残念で・・・。でも今朝気付いた。主の〈心配〉が奇跡の発端なら、僕にも奇跡は起こるかも。誰もがイエス様に心配されているから。そして今日を生きている。これは既に奇跡。


●27(火)
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方。  (エフェ3・20)

 「わたしたちの内に働く御力」は何なのか。文脈の中で語られていたのは「キリストの愛」だ。もちろんその「キリストの愛」とは、心情的な愛情なんかじゃない。ご自分の命を私のために投げ出された出来事だ。命懸けの激しい熱情だ。
 私のために死なれたお方が、なお私のために内住して下さる。万軍の王が内に立っていて下さるのだ。安心して進まん。


●28(水)
あなたはもはや奴隷ではなく、子です。  (ガラ4・7)

 キリストを信じるのはイエスを天の父の御子と信じること、その時あなたも神の長子イエスにつながる神の子に縁組されたのだ、とパウロは語る。同じ御父を「アッバ、父よ」と呼べる一人になった。それは長子イエスと同じように、天の宝も受け継ぐ者とさえされた事、と告げられていた。
 万軍の主が、この私にも「わが愛する子よ」と呼びかけて下さるんだ。だから私も「天のお父さん」と応答しよう。一日に何度も「天のお父さん」と呼んで過ごそう。きっと、今日が安らかな日になるから。


●29(木)
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。  (エフェ6・4)

 聖書に、親と子の正しい在り方が書かれている。それは、平安も幸いも家庭から生まれるし、そこから失いもするからだ。「主がしつけ諭されるように」とは、自らを十字架につけて「あなたのため」と自らの死を選ばれたお姿になれと言うこと。子どものために自らに死ぬ姿には、確かに上からガミガミ言って子どもを怒らせる姿はないよね。
この御言葉に従わねば。私も、子の親だから。子どもの幸いを願う親だから。


●30(金)
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない。    (ヘブ4・15)

 神と私の間に立って、私を執り成してくれるのが「大祭司」の務め。その務めを、救い主イエス様ご自身がなさって下さるということ。それも「お前の側に、お前びいきの大祭司として立つからね」と言って下さるのだ。「あなたの弱さも罪も恥も過ちも、すべて分かっている上でだよ」と。
 私には、味方がいる。それを信じて今日を歩みだそう。そうしたら自分の愚かさによって躓く時、その傍にただ一人一緒にいて下さるあなたを感じられるから。


posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 16:08| 『日々の聖句』