2018年09月03日

説教 『弱々しい人』

2018年9月2日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二 10章7〜11節
あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10:10 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。


 外見で人を評価する傾向があったギリシャ人にとって、パウロの風貌はマイナス評価しかなかったでしょう。加えて、すぐに興奮するパウロの話は支離滅裂にしか聞こえず、人々から「内面においても軽蔑に値する」と言われたのです。パウロは人が憧れるものを、外面においても内面においても何一つ持っていない人でしかなかったのです。

 でもそれを、他人から言われてしまったら、全否定されたようで、いたたまれなくなるのではありませんか。しかし彼はそこで凹んでしまったのでもなく、またいつものように興奮して大反論を繰り広げたのでもなかったのです。驚くことに彼は、「まさにその通りだ、それが私だ」と言ったのです。

 そこで私は本当に驚いてしまいました。そしてそこでようやく、ハッと気づかされたことがあったのです。人々から何の評価もされず、軽蔑され、見下され、侮辱された「弱々しい人」の姿は、十字架に掛けられたイエス様の御姿そのものであったのではないかと。

 パウロは、「私の輝きを見よ」とは言わない。「私の弱々しさを見てくれ」と言うのです。「この無一物である姿を、誇るところなんて何もない姿を見てくれ」と。それが「私はキリストそっくりだろ、キリストのものだから」と告げる意味なのです。ギリシャ人が求める雄弁さなんて、もうどうでも良い。ただ愚直に、神様が自分にして下さった恵みを、十字架を証言し出したのです。律法学者のように上手に教えようとしたんじゃない、格好悪くていい、弱々しくていい。いやむしろキリストのように弱々しくなれたら、人間が求める優越さに立つ者でないことが露になれるから、それで良い、それが良いと生きたのです。その彼が、父なる神に用いられて生きられたら、それが嬉しかったのだと思えてなりません。
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