2018年08月12日

説教 『種は落ちた』

2018年8月12日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイ福音書13章1〜9、18〜23節
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


 広い土地に、農夫がロバを連れて種を蒔きます。種が入った袋を背中に乗せたロバが歩いた跡に、袋から種がポトリ、ポトリと落ちる。その種の落ちた場所が4つ描かれていて、道端と、石だらけと、茨の間と、そして良い土地でした。さてこの種を蒔く農夫の例えを聞いていた人々は、「自分たちがしている種蒔きも、そんな風に無駄がある。勿体ないけど、仕方ないよ」と思った人もいたでしょう。それでも例え話を聞きながら人々は、「この農夫って、我々とは違って、その種を気にして、ずっと目で追っているみたいだ」と気付いたかもしれない。自分たちは「無駄になるのもしょうがないよ」と思うだけで、いちいちその1粒を目では追わない。でもこの農夫は、つまり神様は、1粒を丁寧に追いかけておられるのです。

 そうやって種を見詰めていたら、コロコロと転がった先で、「何てことだろう、そこは人が踏みしめた堅い道端じゃないか。そこは石だらけじゃないか、茨だらけじゃないか」と、農夫の悲しみが生まれたということなのです。神様に溜息をもらさせてしまったということです。このイエス様の例え話は、種の行き先を見詰める父なる神の話です。そのお心の話なのです。ここに聞こえるのは、教育的訓示ではありません。「良い心になれ」と、お尻を叩くのでもないんです。繰り返し聞こえて来るのは、「種は落ちた。でもそこで、あなたのなかで御言葉は、奪い取られたのだ。枯れてしまったのだ、塞がれてしまったんだ。一つの実りも無かったのか」という、神の嘆きであるのではありませんか。

 でも、だからであります。何度も1粒を蒔く、忍耐して下さって繰り返し1粒を落とされる。その1粒の御言葉がであります。もしもついに私どもの良い土地に落ちたなら、それをご覧になったなら、なのです。辛抱し続けて下さった父なる神様が、繰り返された嘆きのあとについに、あなたの中に御言葉が実り出したのをご覧になったらです。そこにある神様の喜びは、どう表現して良いか分からないくらい特別に大きいな喜びとなるのではありませんでしょうか。まさにそれが23節、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった、ついに実りを結んだよ」との、神様の爆発的喜びなのです。イエス様は、あなたの天の父の喜びが、そのときどんなに大きいかを伝えたかっのだと思うのです。その喜びの特別さを伝えたかったと思えてなりません。

 神様は、1粒の御言葉によって私どもが花を咲かせて実りをもたらすようになることを、つまり御言葉の通りに生きるキリスト者となることを待っていて下さるのです。そこに神の喜びがあるからなのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:04| 主日説教要約