2018年08月05日

説教 『武器は、従順』

2018年8月5日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二10章1〜6節
さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。

 パウロは毅然として、2節、「わたしたちのことを肉に従って歩いているとみなしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かう」と。そのパウロが手にする武器が、4節で「神に由来する力」だと言われていたのです。

 「神に由来する力」って、敵を圧倒的に打ち負かしてしまうパワーだと思われませんか。この世はそういう力が一番大切だと思っているでしょう。でもパウロが、もしもこの世的なパワーで敵味方の戦いを開始するのだとしたらです。神様がその戦いに、「神に由来する力」をもって加担されると言うのでしょうか。そんなはずはないと思えてなりません。敵味方を作る中に、愛され愛するという世界が崩れるからです。それは、神の痛みであるはずだからです。

 この「神に由来する力」という言葉は、「忍耐をもって苦難や災難に立ち向かう、力強さ」です。苦難があったら、それをやっつけるんじゃないんです。苦難を忍耐して、むしろその逆に重荷を引き受けて、担い切るんです。アッと思いました、それはイエス様が十字架に掛けられた御姿ではないですか。イエス様が辿られた道は、他者をねじ伏せたのじゃなくて、御自分がねじ伏せられ、とうとう十字架の上にねじ伏せられて命まで奪われたのです。神の御子にパワーが無かったから十字架刑で死なれたんじゃない。むしろ全てのパワーを放棄され、父なる神への従順を貫かれたからではないですか。イエス様はご自分のパワーに生きるのではなく、御心への全き「従順」に生きられた。その御父への「従順」が、イエス様の、罪と戦う真の「武器」であられたのではないですか。

 御心に従う道は、人間には弱さにしか見えないでしょう。敗北にしか見えない。しかしそこに神の勝利がある。皆さん、これが「神に由来する力」であるのです。パウロは、知識においても、行いにおいても超一流でしたから、言い負かせることぐらい簡単だったでしょう。しかし彼は、キリストの姿に生きる、苦難の僕の姿に生きる、御心に従順であろうとしたのです。そこにあるのは、神の最善の計画の成就であり、神の勝利であると確信していたからであります。

 どんな場面でも、まず祈って御心を聞いて、その御声に従う人は、実は本当は強い人です。それはきっとそう生きる時に、血を流す思いをするのは自分だからです。それを引き受けるからです。キリストのようにです。でも、もしもそのように生きることが出来たら。そのあなたとキリストが一つになっていて下さるのです。そのあなたを通して、神の計画が前進するのです。神の勝利が起こされるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:27| 主日説教要約