み言葉のパンで生きる365日
(新約編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)
2018年8月
●1(水)
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 (ロマ12・1)
生活の全ての時間で、全身全霊を神の御前に献げてしまうことーそれが真の「礼拝だ」と告げられる。礼拝は、礼拝堂に座っている姿ではないのだ。礼拝は生きる姿に現れる。そしてさらにその生活において、「この世に倣うな」とも加えられる。
もしも、主日には礼拝堂に行くけれど、その他の日常は御心と違う生活をしたなら。そういう二重生活は、礼拝者にあらずと言われているのだ。日々の生活の中でこそ、礼拝する姿に生きなきゃ!
●2(木)
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。 (コロ3・13)
相手が悪いと思っても、それが事実でも、「赦せ」と迫る。それは中途半端にじゃなくて、「主があなたがたを赦してくださったように」と続いて告げられていた。
御言葉を前に、自分がどういう人間かに気付く。「私は、なんと赦せない心を持っている人間か!人を責めるしかしない人間なのか!忍耐できない人間なのか」と。主に赦されたことにあぐらをかいて生きている。この「互いに」とは、こちらこそ隣人を悩ませる存在なのだと気付かせる。
●3(金)
芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 (マコ4・8)
イエス様が「忍耐強く種を蒔き続ける父なる神」の譬え話をして下さった。その「種」とは「御言葉」のこと。御言葉を受け入れてゆく人が、どんなに豊かな人生となるかを伝えて下さったのだ。
それにしても百倍って、すごいな。私にそんなに伸びしろが残っていたというのも驚く。あ!伸びしろがあるのに無駄にしていたのは、私自身なのかも。今日こそ御言葉の種を育ててみよう。聴従によって。
●4(土)
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 (マタ5・4)
山上の垂訓でイエス様が話された言葉だ。主の目には、全ての人の中にある悲しみが見えている。その悲しみを見たら駆け寄らないではいられない御父の心も知っておられる。だからただ「神よ」と手を伸ばせば慰められるんだよと言われたのだ。
そうか、自分の中にある悲しみを正面から受け止め、それを不平に変えないで神の前に持って行けたら、慰めを豊かに得られる人になる。心を神に向ければ、悲しみさえ、天の蔵を開く鍵になる。
●5(日・第1主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●6(月)
イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 (ルカ6・12)
十二人の弟子をお選びになるという大切な御業をなさる前夜のこと。イエス様は時間のすべてを、御父との対話のために使われた。祈って夜を明かされたのだ。
重大な決断をすべき時に、私ならどうしているだろう。経験者を訪ねて助言を請うか、人を集めて談議するか、アタフタ焦っているだけかも。何よりまず御父のもとに駆け寄って、全てを告げるべきなのに。スタート点が違ってたかも。なんともトンチンカンな生き方をしているなぁ。
●7(火)
なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 (1コリ6・7)
信仰者同士で争い訴え合うことを、パウロは悲しむ。そこで、愛することも赦すことも知らないこの世の裁判官に委ねることを、嘆き怒る。そして、不義だと思うことをされても、身に引き受けよと諭す。そこで赦せ、名誉や宝を奪われても争うな、裁くな、むしろ与えろと叫ぶ。
ふと、十字架に掛けられた主の苦しむ姿がここにある気がした。私もこれを辿って歩めば、平和を生み出せるのですね。
●8(水)
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。 (ヨハ12・36)
この「光」とは、神の御子イエス様ご自身のこと。だから「光の子となる」とは、私も神の子となれるということ。そのために「光を信じる」とは、何となく信じた気持ではなく、主の言葉の通りに日常生活を歩むこと。本気で、具体的にだ!
「信じる」って、信じた気になっていることがあるよね。「信じた気になる」ことと、「信じて生きる」こととは、雲泥の差がある。まるで光と闇とが正反対のように。聴従こそ、光の子の歩み方だ。
●9(木)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。 (ヨハ20・27)
甦らされたイエス様が、復活を信じられずにいたトマスに言われた言葉。「あなたの手を伸ばし、私の脇に入れなさい」と十字架の御傷を見せながらだった。トマスが疑う心いっぱいで口走った「手を入れなきゃ信じられるものか」と叫んだ言葉を、まるで包み込むようにして「手を入れたらいいから、だからどうか信じない者になるな、私を信じるのだよ」と言われたのだ。
その招きに、私も毎朝耳を傾けよう。私も毎日、弱さの塊になるから。主の招きが毎日必要だから。
●10(金)
わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 (ガラ1・12)
パウロは自分のことを、単なる伝令者だと告げる。キリストが「さあ伝えよ」とトップダウンで知らせて下さったことを、そのまま喜びの知らせと受け取って、「あなたにもそれを知って欲しい」と語ったのだ。
私たちキリスト者も、主が知らせて下さった福音を、「私」という「管」を通らせて運ぶのだ。大切な隣人に。ああ私も、通りの良いホースとして生きたい。
●11(土・祝日)
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 (エフェ3・19)
み言葉は、主の愛の広さ長さ、高さ深さを知って、あなたも愛されているって気付けと招く。あなたは特別な愛で満たされる存在なんだよと告げる。
自分の命よりあなたの方が大事だと、命を捨てた方が一人いた。それがイエス様。それを知ったら、独りであくせくしてたけど、心のこわばりが解けた気がした。
●12(日・第2主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●13(月)
主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。 (ロマ5・1)
もはや神様から罪を数え上げられて責められるのでもなく、裁かれるのでもない。これから先は平和な関係だけだよと宣言されるのだと言う。
自分で償い終えたからでも、精進したからでもないのに。それをパウロはこの直前で「ただ信仰によって」と告げていた。
「信じる」って精神論じゃなかった。イエス様の死が私のせいで、私のためだと受け入れたら、とんでもない実りが届くんだ。神との間の平和という最高の実りが。
●14(火)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。 (1コリ2・5)
エリートの筆頭だったパウロがキリストを宣べ伝えるのに、神はこんなに偉大で力ある方だと雄弁に弁論したのではないと言う。理路整然と論証したのではない。
むしろその逆に、十字架で死なれた方の出来事を伝えただけ。その方の死を伝えただけ。あなたのための死だったと伝えただけ。それが、あなたが愛された証の出来事だったと伝えただけだった。そこに、神の御力が働くからだったのですね。
●15(水)
言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 (マタ10・19、20)
弟子たちを派遣する前に、主が「狼の群れに羊を送り込む」と困難を予告される。その時この言葉を添えられたのだ。
家族の中で、地域や会社で伝道する時に、人の目が気になる。なんと言って語ればいいのか分からないから。でもその時、私も神の霊を内に宿した神の器となっていることを思い出そう。だから祈ったら安心して、小さな声でもいいから語り出そう。
●16(木)
人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。 (ルカ6・37)
これはルカの「平地の説教」(マタイは山上の説教)だ。イエス様の教えの核心だ。でもそう知りつつ見事に聞き流す私。それどころか「これはあの人に言われているのだ」と、人を裁きながら聞いてしまう。そうやって主の言葉を足蹴にしてしまう。そんな姿が罪人そのもの。いやそれさえ、あの人のせいでこうなったと言ってしまう。
聖霊よ、とことん罪人の私に、真の悔いる心を与えて下さい。憐れんで下さい。
●17(金)
子よ、あなたの罪は赦される。 (マコ2・5)
今はもう自分で立つことも出来ないほど重体となっていた中風の男。その友人たちが、イエス様のおられた家の屋根から床に乗せて吊り下ろした時、主が男に言われたのがこの罪の赦しの宣言だった。
そこでアレッと思った「なぜ癒されるではなく、赦されるだったのか」と。
重病の時、誰もがご利益宗教になってしまう。神を治療のための僕にしてしまう。そのねじれた関係を、まっすぐにされたのが主だったのだ、「赦されて、神の子として生きることが第一の幸だから」と。
●18(土)
主がお入り用なのです。 (マコ11・3)
この御言葉って、「主が私を奉仕に用いようとしておられる」という程度に聞いてしまう。でもこれは、他人のロバを「代価なしに貸せと申し出よ」と、主が弟子に命じた場面なのだ。そして、弟子が断られて当然と思う場面で、主が語れと命じられた通りに「主がお入り用なのです」と語った時、主の御心が前進したのだ。
人は自分の常識に縛られる。でも主の促しの通りにしたら、そこに主の御計画が進むのだ。御業をストップさせる私の常識を後ろにして、今日を歩んでみよう。
●19(日・第3主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●20(月)
惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 (2コリ9・6)
これは、献げものの話だ。「お金」というあまりにもこの世的で、生々しい現実の話題だ。しかし御言葉は、そこに単刀直入に分け入る。「喜んで惜しまずに与える人を、神は喜ばれるのだ」と。
信仰は心の宗教だ、と思いがちになる。しかし信仰は、現実の生々しい場所にこそ関わる。信仰者が、その現実の中で生きるからだ。仙人じゃないだもん。
全てにおいて惜しまず人に与える者でありたい。私もクリスチャンだから。
●21(火)
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 (1コリ1・9)
コリントの人々への手紙の冒頭で、感謝したいとパウロが伝える。そこで「本当に嬉しい」と叫んだのは、「神があなたがたを捉えた。神があなたをご自分の家族として招き入れて下さった」ということだった。
「神が○○して下さった」との喜びは、自分のことじゃなくて隣人の救い。隣人の受洗にこそ、神の御業を見るから。私の“あの人”も早くその場に立って欲しいな。
●22(水)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。 (ルカ3・4)
洗礼者ヨハネが「自分勝手に歩む人生の道を、整え直せ。それは自己中心に曲がった道だから。あなたが唯一たどるべき道は、主の御言葉に従うという道だ。それはまっすぐ神に通じる道だから」と語る。そして、それが「悔い改めだ」と。
「悔い改め」って、心の中だけで「ああ悪かった」と悔いる思いじゃなかったんだ。聖書の告げる悔い改めは、現実の生きる道を変えるという行為。次の一歩をどう生きるかという行為なのだ。生き方の表面に現れて、見えるものなのだ。
●23(木)
(愛は)自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 (1コリ13・5)
「愛」とは何かが具体的に語られていく。愛は、生き方の表に噴出して、形となるのだ。実りを持つのだ。
「愛しているかどうか」は、形に出ると聞いてハッとする。親子でも夫婦でも、その実りが見えない時があるから。かえって相手を苦しめていることもある。それでも自分は愛を持っていると思っている時もある。でも今朝それは勘違いだと言われた。御言葉は私の姿を映し出す鏡だ!「愛する」人となるのは、努力がいるみたい。
●24(金)
励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。 (2コリ13・11)
コリントの人々にたくさん語ってきたパウロ。その言葉の束を、これをもって結ぶ。「励まし合うんだよ」と。
励まし合うって、単に「頑張ってね」と応援することじゃない。それでは二人の間にまだ距離があるから。“励ます”人になるのは、相手の思いをひたすら聴くこと。その二人の間では、不思議にも、自分も“励まされる”必要があることに気付ける。そこでは思いが一つになれていて “励まし合えて”いる。そこに主も共におられるのだと、パウロは加えて言っていた。
●25(土)
愛は隣人に悪を行いません。 (ロマ13・10)
パウロが、全律法は「隣人を自分のように愛しなさい」に要約されると告げた。それに続けてこの言葉を語ったのだ。
アッと思った。自分に無かったものに気付いたから。それは「愛」だったから。愛が無いから一番近い隣人にも、友人にも、家族にも、ああ家族にまで、悪を行ってしまう。悪口、そしり、争い、不和・・・。その行いの発信源が、愛の無さだったんだ。
愛がなければ、人を苦しめる人間になる。そんなのいやだ。主よ、こんな私を憐れんで、愛することを学ばせてください。
●26(日・第4主日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)
●27(月)
その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。 (マタ1・23)
天使が、降誕を夫ヨセフに伝える。その時にイエス様が“誰であるのか”を宣言した。「この方は、神があなたがたと共にいて下さることを実現された方である」と。
いつも願っていたのは「神様、どうか私と今一緒に居て下さい。どうか守って、どうか支えて」ということ。今日から改めてその祈りの時に叫ぼう、この慕わしいお方のお名前を、「イエス様!」と。そうしたら祈りの聞き手が、急に近くに迫るから。
●28(火)
神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。 (ルカ8・39)
墓場が住みかだった「悪霊に取りつかれた男」。しかしイエス様に出会って、汚れた霊は追い出された。感謝した男が「お供したい」としきりに願った時に、主はこの言葉を言われたのだ「あなたは、あなたの家に帰れ。そこで御業を語れ」と。
それぞれの人に遣わされる場所がある。それは家族の中。信仰生活って、教会で実らせるんだと思っていたけど、家庭でこそ実らせるのですね。主は、そこで口を開けと願っておられる。勇気が欲しい。
●29(水)
もし、からし種一粒ほどの信仰があれば…。 (マタ17・20)
弟子たちが「どうして私たちには悪霊を追い出せなかったのですか、あなたのようになぜ出来なかったのですか」とイエス様に問うたとき、主が答えられた一言だ。「鍵は信仰だよ」と。
「信仰がないからだ」と言わたようで、ドキッとする。でも本気で信じたら、私も隣人に恵みを届ける人になれるのかと気付いたら、嬉しいドキリとなった。
でもなぁ・・・、自分で「本気」と思っている信仰は、イエス様の「一粒でいいから」と言われた信仰に達しているんだろうか。
●30(木)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 (1ヨハ4・16)
畳みかけるように「神様イコール愛なのだ」と告げて来る。
アッ、神=愛なら、神様に共にいて欲しいと願う時、私が愛する人になればいいんだと思った。神と共に生きたいと願ってもどうしたら良いのと悩むことは、もうない。私が隣人を愛する業に生きたら、神がそこに生きて働いているのだから。神を遠ざけるのも、共に生きるのも、私の側の問題が大きいんだなぁ。
●31(金)
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。 (1コリ3・21)
「ですから、」って、何だからと言っているのかな?と聖書を遡ってみたら、「世の知恵に頼って生きることはまったく愚かなこと。ですから」ということだった。
考えてみたらこの世の知恵って、自分で自分をのし上げようとすることに用いる。そこが、罪を塗り重ねる場なのに。そういう人間になろうとするなと、御言葉は促す。そして更に、自分で自分を誇ろうとする必要はないと悟ることへと促す。だって、神様が私を誇って下さるのだから。その喜びの下に入ればいいのだから、と。