み言葉のパンで生きる365日
(新約編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)
2018年7月
●1(日・第1主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●2(月)
レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。 (マコ2・14)
人々から売国奴・罪人と蔑まれ、そこで自分でも「お金さえあればいいんだ」と閉じこもって生きていたレビ。でも本当はそこから救い出して欲しと願っていたレビ。
イエス様は、その男に声を掛けられた、「わたしに従え、私のうしろに付いておいで」と。「あなたの居場所は私の傍だ」と。
主が罪人を呼ばれる、「あなたの居場所はそこじゃない、私の後ろだよ」と。その主が、私にも声を掛けておられる。だから罪に居座る場所から、立ち上がるんだ。
●3(火)
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 (マタ6・8)
祈りが聞き入れられるのは、「言葉数を多くして熱心にしたら」と思う人々に、イエス様が「違うよ」と言われた。そして「主の祈り」を教えて下さったのだ。
お祈りすることって、「私はこれをして欲しい、どんなにそれを願っているか知ってくれ」と訴えることじゃないんだ。つまり自分の思いに目を向けることじゃなかった。「天におられる父よ」と、目を御父に向けたら、短くて、小さくて、呻くような言葉でも、御父に届く真の祈りとなるのだ。
●4(水)
心の目を開いてくださるように。 (エフェ1・18)
聖霊によって「心の目」が開かれたら、と御言葉は告げ始める。「どのような希望が与えられているか」悟れるよと。「私たちが受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」悟れるよと。更に「神の力がどれほど大きなものか」悟れるよと。
希望も、賜物の豊かさも、神の力さえ見えないと嘆いていたのは、自分自身に原因があったからかも。何を求めて祈るのかが、見当違いだったからなのかも。
今日から第一に「私の心の目を、どうか開いて下さい」と、祈り始めよう。
●5(木)
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。 (マコ7・20-21)
厳格な食物規定があった民。汚れているとされる食べ物を口に入れることを注意深く避けていた。でもイエス様が言われたのは、あなたの中から出る憎しみ、悪意、あなたの言葉が人を汚すのだと。
ドキッとした。自分の口から出る悪口も「人を汚す」と知ったから。なんと深い罪を犯し続けていたのか。隣人を汚す者こそ、きっと神の目には最大の罪人だ。そんな心、切って捨ててしまいたい。
●6(金)
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。 (ガラ3・13)
十字架に掛けられることの意味が、ここに告げられる。その場所は、神に捨てられ呪われた者が釘付けされる場所。そこに罪人の私が掛けられるはずなのに、御父は、御子を身代わりに掛けられた。
十字架を見上げるたび、犯した罪の恐ろしさが見える。呪われるべき自分が見える。でもそこにイエス様の姿が見えたら、どれほど私が愛されているのかが見えた。私は、ただ神の愛に生かされている。
●7(土)
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。 (ヨハ12・26)
主が「一粒の麦は…死ねば多くの実を結ぶ」と言われた御言葉に続く言葉だ。自分の主義を留保することと、主に従うことは両立しない。従うとは百%自分に死ぬこと。主に従うことの“覚悟”の大きさを知る。従うことの“実り”を想う。
この後に「わたしに従う者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」とあった。その道を、私は進みたい。
●8(日・第2主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●9(月)
あなたがたのために救い主がお生まれになった。 (ルカ2・11)
人として認められず、民の一員にも入れてもらえず、街の壁の外の地べたで生きていた羊飼いたち。その彼らに、天使が現れて告げた「まさにあなたのためだよ、今日イエス様がお生まれになったよ」と。
救い主は、救いを必要としている人のところに「あなたのために来られた」と告げられるのだ。それなのに私は、飢え渇くように救いを求めているだろうか。「日常生活くらい自分でやっていける」と、自分の力で生きていないだろうか。その日々の中には、この福音は届かないのに…
●10(火)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。 (1テサ5・23)
パウロはここに続けて、主イエスの再臨の時に、あなたを非のうちどころのないにしてくださるようにと、願い祈る。
私が聖なる者となるのは、再臨の日に主の前に立たねばならないから。そこで御子に喜んでいただける私となっているためにだ。そしてそのような私となっていることが、神自身の願いだなんて…。ああ、今日の一日を、おろそかに過ごすまい。〈その日〉に向かっての大事な一日だから。神の願いに、一足を合わせよう。
●11(水)
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。 (1テモ1・15)
そしてこの御言葉に続く「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と。使徒パウロが「私こそ罪人の頭領だ」と自ら言う。彼はそこで受け取る恵みを知っているから。その悔いた心でしか受け取れない恵みを知っているから。それが、主は罪人の私を救いに来て下さったということだ。
神の救いの恵みは、自分は正しいと思っている人には無用の恩恵なのだ。ドキッ!
●12(木)
誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。 (ルカ22・46)
受難の直前、イエス様はゲッセマネで苦しみ悶えて祈っておられた。そのとき弟子は何をしていたのか。お傍で一緒に祈っていたのか?いや違う!眠り込んでいたのだ。それを見て言われたのがこの言葉だ。
イエス様の痛烈な思いが響いて来る「なぜこの時に、お前たちは私から心を離すのだ。なぜ思いを一緒にできないのか」と。
十字架を知っている私には、御声が深い悲しみを含んで聞こえる「お前もか?」と。でも、うっすら「お前なら私と一緒にいてくれるよね」との期待も聞こえた。
●13(金)
あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。 (マタ14・16)
成年男子だけで5千人が空腹となった。そこで弟子が「各々ご飯を食べに行かせましょう」と提案した。最善の提案だった。そこでイエス様が言われたのがこれだ。
「いや、あなたが目の前の隣人のために労するのだ」と言われる。自分の考えで最善と思える“人間の方法”を横に置いて、“神の国の方法”で生きよと言われる。
そうしたら、そこで神の奇跡も体験するから。5つのパンと2匹の魚で皆が満腹するという経験さえするのだから。
●14(土)
主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 (フィリ3・8)
超一級の家柄で、学問も超一流学派の首席で、宗教的敬虔も抜きん出ていたパウロ。でもそれら全部を「損失だ。持たなきゃ良かった」と言う。なぜ? 人なら誰もが必死で求める一つひとつなのに。
それは、主を求めることの妨げになるから。この世で一流になれば主を求めなくなるから。主に結ばれる事こそ最高だと知ったからだ。何も持たない私って結構幸せかも。最初から主のみを求めるから。
●15(日・第3主日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師
(和泉短期大学チャプレン)
●16(月・祝日)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。 (ヘブ11・17)
やっと生まれた大切な息子イサク。それなのに、父アブラハムはどんな思いで息子の首に刃を当てて屠ろうとしたのだろう。「イサク奉献」の出来事は、何度読んでも胸が詰まる。信仰とはこの覚悟が必要とされていると、突き付けられるから。
私にとっても「イサク」がある。自分の命より大事と抱えているものだ。それを、神を信頼して手放せと言われているのだ。震えるような問いが、私にも迫っている。その迫りとの格闘が、信仰の格闘かも。
●17(火)
あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。 (2コリ8・7)
パウロは献金の話をストレートにする。信仰と知識と愛と同じテーブルに乗せて語る。あっけらかんと「豊かに献げよ」と。
でも私たちはなぜ、愛は素直ささげるのに、献金の話となると小声になるのだろう。もしかすると、お金に特別にこだわっているからかも。マモン(貪欲)の誘惑に絡められ、あっけらかんとなれないからかも。
●18(水)
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 (1コリ1・18)
「キリストが十字架で死なれた。それを信じるなら救われる」―この言葉の宣教によってのみ、神は救いの道を拓かれた。神の御子の死が私のためと信じるだけで救われるなんて、知者にはナンセンスに聞こえるだろう。しかし輝く福音なのだ。
私は十字架にすがろう。救っていただく価なき者が救われる喜びが、そこにのみあるから。
●19(木)
主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。 (ルカ2・15)
天の大軍が羊飼いたちに主の御降誕を知らせた夜、彼らは自分たちが座り込んでいた場所を蹴って即座に立ち上がった。降誕の主に会うことが、第一の願いだったから。お会いして礼拝したかったから。
私たちは彼らのように、主日ごとに喜びに満たされて礼拝に駆けつけているだろうか。自分が居る場所に座り込んでいないだろうか。自分の用事や悩み事や楽しみに居座っていないだろうか。いつも、この羊飼いのようにありたいな。
●20(金)
あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。 (使20・28)
エフェソの教会の長老たちに、パウロが遺言のように語る「自分のことに気を配るんだよ。信仰に生きるんだよ」と。それだけでなく「兄弟姉妹のことに気を配ってあげるんだ。自分と気の合う兄姉だけのことじゃなく、一人も漏らさず全員のために祈って生きよ」と告げたのだ。
昨年、宗教改革5百年で万人祭司を学んだ。全員が祭司として互いに執り成し祈れということだった。それは万人が、長老のように配慮して生きることだね。
●21(土)
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 (ルカ1・48)
天使から受胎告知を受け取って、まだ結婚もしていないのにと戸惑うマリア。生まれる子は神の子と聞いて恐れるマリア。
でも、少しずつ心が開かれていく。告げられた言葉をゆっくり噛みしめながら、自分の常識から離れ、神ご自身へと心を回転させていったから。そこに今朝の「マリアの賛歌」が生まれたのだ。
私も神のなさることを見よう。自分のこだわりから離れよう。そこに私の神賛歌が生まれるから。全て喜びに変わるから。
●22(日・第4主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●23(月)
イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた。 (ルカ24・45)
復活された主が、弟子たちの中に現れてなさったことがこれだ。心の目、つまり信仰の目を開いて「十字架の死と復活が成し遂げられた」と悟らせること。「それを信じて救われよ」ということ。さらに「あなたがこれを伝える者となれ」ということ。
聖書全巻が告げたい中心は、イエス様の十字架の死と御復活だった。それだけでなく、それを私にも伝えて欲しいということなんだ。「一人にでもいい、私も用いられたい。それが神の思いだから」と感じた。
●24(火)
(イエスは)大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ。 (マコ6・34)
5千人に、2つのパンと5匹の魚で満腹になさった奇跡の出発点が、ココだ! イエス様が「なんてかわいそうな一人ひとりだ。羊飼いのいない羊たちのように迷っているじゃないか。何とかしてあげないではいられない」と激しく心動かされた御思いだ。
その主の激しい愛の思いが、今日私にも注がれている。「お前を何とかしてあげないではいられない」との御思いが、今日の私を包んでいる。そのまま主の深い憐れみの中を生きよう。そこに恵みもあるから。
●25(水)
取りなさい。これはわたしの体である。 (マコ14・22)
最後の晩餐で、イエス様が弟子たちにパンを与えられる。十字架にかけられ死なれる前夜、「これはわたしの体だ」と言って与えられる。無条件で、ただ「取れ」と与えられる。一言ひとことの重みが、弟子の一人ひとりに届くようにゆっくり噛みしめるようにおっしゃった。
この言葉を私たちも聖餐式のたびに聞くのだ。私に向けて「取れ」と言われる。その時、生ける主が私たちに、見えるパンによっても現臨される。信仰をもって受け取るべし。それは聖なる瞬間だから。
●26(木)
真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。 (1ペト4・19)
この御言葉の直前には、「御心に従って一生懸命生きるキリスト者が、そのゆえに世から試練を受けるのなら」ということが語られている。御言葉のままに生きるなら、世とすれ違って試練も受けるはずだ、ということ。そして、その上で、しかしそうであっても、と言われていたのだ。
少し今日の御言葉が分かったかも。聴従の生活の最後を、神に委ねなさいと言われているのだ。真を尽くして従う者に、主も真を尽くして下さるからと。
●27(金)
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。 (2コリ5・21)
御子なる神だから、罪など一つもないイエス様。でも御父は、命で償わせる十字架に掛けられたのだ。罪人の側の私の身代わりにさせるために。そこまでして父なる神は、私と和解しようとなさった。
でも普通は、過ちを犯した側が和解して欲しいと申し出るべきでしょ?背かれた神の側から「あなたと和解したい、失いたくない」と願って下さったなんて逆だよね。
あ、どれほど私は愛されていたのか。どこまで愛し抜かれているのか。いま分かる。
●28(土)
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。 (エフェ4・1)
神に招かれてキリストに結ばれた私達。その恵みの招きに応答する「ふさわしい歩み」というものがある。それは、柔和、互いに寛容で、平和に歩むことと言われる。
人からの頂き物なら、その価値に相応しいお返しをせねばと気を遣うはず。まして神様からの頂き物なら、最大の気を遣わないでいられようか。それも、これが応答すべきものだと指定されているのだから。恵みの価値の大きさが測れない時、応答の歩みもいい加減になるのかもね。
●29(日・第5主日)
主日礼拝説教
伊藤忠彦牧師
(相模原教会協力牧師)
●30(月)
主を信じる者は、だれも失望することがない。 (ロマ10・11)
神様は、ご自分を心から呼び求める人に、誰でも(あの人も、私をさえ!)豊かにお恵みになると約束して下さる。その神の約束の中は、失望さえない。「信じること」と「恵みの中に入ること」が繋がる。
振り返れば、いつも人に期待しては裏切られ、辛い失望を味わって来た。そこからいつの間にか、神様も同じなのかも知れないと何となく思うことが始まるのかも。
今朝、自分に言うのだ「神を見くびるな」と。「神の約束に期待する私で居続けよ」と。そこが恵みの中なのだから。
●31(火)
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。 (ガラ3・27)
「あなたがたは皆…神の子なのです」と言われた後に、この言葉が続く。人が神の子どもとしていただけるのは、洗礼を受けたから、それはキリストと結びつく縁組の結婚をしたこと、さらに“キリスト家”の家紋入り一張羅を着せてもらったからということだ。いや単に着物じゃない、キリストご自身を羽織ったのだ。
中身はこんな私のままで、誰が見ても神の家の人と見てもらえるんだ。急に、背筋がピンと伸びる思いがした。