み言葉のパンで生きる365日
(新約編)その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。
短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(牧師・辻川篤)
2018年6月
●1(金)
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり終わりである。 (黙21・6)
終末の到来が幻で語られる『黙示録』。竜や獣や大淫婦や最後の裁きが出て来る。それだけ聞くと何となく不安にも。見たこともないことだらけだから。
しかし、そこに語られた主の御言葉が安心の源なのだ。「この世界の初め(アルファ)に私が居た、最後(オメガ)の時も私が居る。どんな時も一緒だから」と。神が一緒にいて下さる、それさえあればいつでも。どこでも安心があるんだ。
●2(土)
下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。 (ルカ3・11)
これは洗礼者ヨハネが、群衆に語った言葉。その中身は「救い主を迎えるための道備えをするとはこういうことだ」との教えだ。その道がちゃんと心に開通すれば、救い主をお迎えする準備が整えられるのだから、と。
私は本当に主をお迎えできているのだろうかと不安になった。人に分けるどころか、お金も人からの評判も、何でも自分のものにしたいと思っているから。そんな頑なな心に、主は来て下さるのだろうか。
●3(日・第1主日)
主日礼拝説教
藤森誠神学生(東京神学大学学部4年)
●4(月)
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 (1テサ2・12)
パウロが、最も愛したテサロニケの教会の人々に語り掛ける「あなた方に真心から伝えたいのは、神様の思いなんだ。神があなた方に贈り物を用意したから受け取って欲しいと、熱情をもって言っておられるんだよ」と。その贈り物は驚くべきもの。ご自分が支配されるもの全てと、御国も、神ご自身の栄光までもだ。
こんなに凄いものを贈られるって、人って神様の“特別”なんだよね。愛されている子どもたちなんだな。
●5(火)
あなたがたは自分で心を狭くしています。 (2コリ6・12)
パウロが、コリントの教会の人たちに誤解されて非難されている。そのとき、なお彼は人々に心砕いて語りかける。心が通じ合わなくなった人と人とが、そのまま別れてしまうことを悲しむからだ。
大切な人と人との間がこじれる時がある。失いたくない関係なのに、非難し合うことになることがある。でもその時、非難する言葉に躍起になるのではなく、自分の心が狭くなっていることに気付けますように。和解のカギは、相手ではなく、自分の心にこそあるのだから。
●6(水)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 (1テサ5・9)
「あなたを救うと決めた」と神が言われる。素直に喜べばいい。そして喜ぶならどうなるのかが、今日の前後に記されている。それは、単に万歳と自分勝手な生き方をするのではなく、「主と共に生きる」ようになること。いただいた救いの希望を兜として、身を慎んで生きること。
私の救いの喜びと、救われて生きる姿の2つは、繋がっているか?繋げないと!
●7(木)
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。 (マコ2・22)
人々は、「自分の行いによって神に認められる」という生き方をしていた。それが、父祖から教えられて来た“義しい人”となれる唯一の方法と思っていたから。
でもイエス様は言われる「私は新しいぶどう酒。あなたはそれを入れる革袋。私を心の中に入れるだけで救われるから。ただし、行いで頑張るという古いあなたのままじゃ駄目だよ。あなたは、ただ主を受け入れるという新しい革袋になれ」と。
今朝、「はい、古い自分を捨てて、ただ受け入れます」と、主に顔を向けよう。
●8(金)
神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 (ロマ8・31)
この御言葉の直前に、「父なる神は、御子イエスをさえ惜しまず、あなたの身代わりの死を死なせた。それほどあなたを愛したのだ」と告げる。神が味方ということは、激しく愛して下さる事となるのだ。
ゆえにこの御言葉の直後に告知される「だれが敵対できるか。艱難か。苦しみか。飢えか。裸か。危険か。剣か」と。
朗々と御声が響き渡る。「神が私を愛する愛に、何も妨げとなるもの無し」と。私の今日の現実の中に御言葉が響く。
●9(土)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 (1コリ9・23)
パウロは「弱い人に対しては、弱い人のようになりました…何とかして何人でも救うためです」と言う。これは自分を捨てる姿。それが「どんなことでも」ということ。あなたの傍に立てるなら、自分を捨てる覚悟なんだ。傍に一緒に立てたら、あなたのために救い主がおられると伝えられるから。福音を聞いてもらえるから。
愛する人が救われたら、私も喜びの中に入れる。ならば私も己を捨ててもいい。
●10(日・第2主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●11(月)
(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。 (マコ6・6)
故郷に帰られたイエス様。そこでも教え、語り、人々の渇きを潤したいと願われたイエス様。それなのにどうしたことか人々は「なんだ、大工じゃないか。我々と同じ人間じゃないか」と表面しか見ない。見えない…。それを「不信仰」と驚かれ、嘆かれ、人々のもとを立ち去られた。
イエス様を救い主なる神と受け入れるのは、イエス様の外面を見るのでなく、その御言葉に心を傾けることだ。ならば2千年後の今だって、イエス様に会える。御言葉を通して!それが信じることなのだ。
●12(火)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 (2コリ6・2)
人はそれぞれ神様から「賜物」を戴いている。それは神様からの「恵み」だよと語り掛けられる。そして、戴いた恵みは自分だけで抱え込んで、無駄にしてはいけないとも。それに続けて告げられたんだ「今や恵みの時だ。救いの日として十分に助けた。今こそあなたは賜物を手にした」と。
戴いた恵みを惜しみなく差し出して、今日こそ奉仕しなければ。神様からの戴き物は、そうやって使う物となるのですね。今までなんだか、この御言葉を、恵みを戴くことだけで聞いていたかも…。
●13(水)
思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。 (ヤコ1・16−17)
良い贈り物や賜物は、天の御父から来る…、それは当たり前だよと思っているけど。でも本気でそう受け取っているか。
この世を見て、あらゆる地上の力や権威に向かって、アレをコレを与えて欲しいと頼っていないか。
本当に私にとって良い賜物は、御父がプレゼントして下さる。だから祈りの言葉を整え直そう、「父よ、あなたの御心が、この私にも成りますように」と。
●14(木)
偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 (マタ20・26−27)
息子に相応しい座をと願ったヤコブとヨハネの母。すぐに、あの人が認められるなら自分はもっと認められるはず、と言い出す弟子たち。それに主が答えられた。
私は今まで、「偉い人になりたいとか、一番上にとか思ってないや」とこの御言葉を脇に置いていたけど、そんな話じゃなかった。「上や下という程度じゃなく、徹底的に低きに降れということ。「皆の僕」になるとは、十字架で死なれる主の姿。
●15(金)
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 (1コリ13・3)
「全財産を献金しても」とパウロは言う。また「身代わりに死んでも」と続ける(どっちも私には無理かも)。そこにパウロは続ける「たとえ可能でも、愛がなければ益なし」と。つまり何よりも大事な愛なのに、何よりも持つことが困難なのかも。
「私にも少しはあると思っていた愛が、実は全くなかった」と悟った時、祈りが生まれる。「主よ、真の愛する心と勇気を与えて下さい」と。
●16(土)
高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 (ルカ14・11)
婚礼の招待客たちが上席に群がるのをご覧になったイエス様が言われた言葉だ。続けて「末席を選べ」とも。
それを聞いて「私は上席に座ろうなんて思ったことない。いつも末席ですよ」と言うかも。しかしそこで変なことが起こる。末席に群がって、そこにこだわって動こうとしないこと。ああ、なぜ人は「自分はココしか嫌だ」と思う所に固執するのだろう。きっと、そこが自分にとって居心地良い上席だから。では真の末席とはどこなのか。
●17(日・第3主日)
主日礼拝説教
西田恵一郎牧師 (和泉短期大学チャプレン)
●18(月)
わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。 (マタ27・47)
十字架の上で、神の御子イエス様がこの言葉を叫ばれた。天の御父の真の御子であられるのに「なぜわたしをお見捨てになったのか」と。しかし天からの助けは何も起こらず、そのまま息を引き取られた。
私の身代わりに死なれるということは、こんなに壮絶なことだったのだ。神の敵である死に絡み取られ、神から見捨てられるという身代わりでもあったなんて。
主よ、あなたが私を救われるために負われた苦しみは、いかに深いことか。
●19(火)
主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。 (1コリ6・17)
今日の御言葉をさらに進めてパウロは「あなたがたの体は神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿だ」とも告げる。私たちは心だけでなく、この体も聖霊と結ばれているのだ。この体が、神をあがめる礼拝堂なんだ。
ならば、この「身体」も大切にしないでいられようか。清めないでいられようか。
信じるということは、心の事柄と思っていたけど、違うんだ。身体的にも神に繋げられるんだ。汚れた行いから体を遠ざけるべし。食べ過ぎ飲み過ぎもNGかな?
●20(水)
主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 (ヤコ2・1)
ヤコブの手紙は、いつも私たちの信仰を死んだものにしてしまわない道を示してくれる。心の中だけの枯れた信心にしないように、主イエスの御足の跡をたどって歩めよと、信仰者の現実を整えてくれる。
隣人は皆、一人残らず御父の愛された神の子どもたち。それなのに私が分け隔てしたら、それは神の御心への明らかな反逆なのだ。激しい罪なのだ。
隣人(友人も家族もすべて)との不和は、私自身の罪から始まるのですね。
●21(木)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 (1ヨハ4・19)
繰り返すように「神がわたしたちを愛した」「神の愛がわたしたちの内に示された」「神がまずわたしたちを愛してくださった」と畳みかけて告げられる。私たちの心の奥底に染み込むように。
そして、だから必ずこのようになるはずだ、と同じ内容が続く。それが「わたしたちも互いに愛し合えるよね」ということ。
私が愛されたのは、私も愛する者となるためだった。それも、愛され方が分かっているから、愛し方も分かるよね、と。
●22(金)
父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 (ヨハ1・18)
主イエスの降誕で「言が肉となった」と告げる有名な箇所の締め括りに、この御言葉が語られる。
御父と一つであられたお方が、私の居る地上に来られた。御座を捨てて降られた。真の神である方が、地上に生きる真の人となられた。それらのことが、ここの数節で一気に告げられている気がした。
神のことを知りたいと思う時、降誕のイエス様を見詰めよう。そして十字架で命を捨てられたお姿を見詰めよう。
●23(土)
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。 (ヨハ2・25)
都でたくさんの力あるしるしをなさったイエス様。婚礼で、水を祝いのブドウ酒に変え、多くの病の人を癒された。その業を見て、人々はイエス様を慕った。自分にもして欲しいと思ったから。奇跡を起こす力が魅力で群がった。
それはイエス様ご自身を求め慕ったのではなく、ご利益を求めたに過ぎなかった。主は、そういうご利益だけに心奪われる心を「知っているぞ」と言われるのだ。知っているゆえに、深く嘆いておられるのだ。
●24(日・第4主日)
主日礼拝説教
辻川篤牧師
●25(月)
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 (1ヨハ2・1)
ヨハネが伝えたいのは「罪を犯さないようになれ」ということ。そのために、神の言葉を聞いただけで終わらせず、守れということ。イエス様が歩まれたように自らも歩まねばならぬということ。その上で、この御言葉があるのだ。懸命に生きた上で、なお罪を犯した日。その人にこそ伝えられる、「大丈夫だ。あなたの弁護者として、主がおられるから」と。この御言葉は、前提無しに聞いてはいけないのかもね。
●26(火)
主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。 (ルカ5・8)
夜通し漁をして不漁だったシモン・ペトロ。でもイエス様がもう一度網を下ろせと言われるから、信じないまま降ろした網に、大漁という奇跡。驚く漁師仲間達。
その時シモンは自分が何者であるのかを悟った。「私は罪深い者だ」と。イエス様と出会った者がまず悟るのは、己の内なる姿。不信という罪人の姿だ。そのペトロに主は優しく「従っておいで」と招かれる。
自分は罪人だと知ることは、救いへの入り口なんだ。悔い改めは恵みなのだな。
●27(水)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した。 (1ヨハ4・10)
この御言葉の直後に「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と続く。それは、愛の関係の始まりは、神によって成し遂げられた十字架の出来事だということ。初めは神の側の、具体的な十字架が始まりだと言われているのだ。
神様を慕う思いは、私の心からほのかに生まれる思いじゃなかった。十字架に心打たれて、応答として溢れる思いなのだ。申し訳なくも有難い、激しい思いなのだ。
●28(木)
わたしは、イエスの焼印を身に受けているのです。 (ガラ6・17)
ガラテヤの教会に、キリストによるのでなく行いによって救われると、信仰を揺さぶる者達が入り込んで来た。そこで「信仰義認」を激しく語ったのがガラテヤ書だ。その結語に、この言葉が記された。
彼は単に自説を告げたいのではない。「十字架の主の所有となった。“主のもの”という焼き印を受けた。キリストによって救われた喜びに生きているんだ!」と激白したいのだ。私も「受洗の日に焼印を受けた。救われた印を受けている」と叫んで生きたい。変人かな?いやそれでいい。
●29(金)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 (フィリ4・4)
パウロが、最愛のフィリピの信徒たちに勧めの言葉を送る「同じ思いを抱いて、励まし合うんだよ」と。そこに続けて「主において、喜びなさい」と告げられたのだ。それも一度で言い切れないと思ったのか「重ねて言います。喜びなさい」と。自力で頑張って努力しろと発破をかけるのではない「何でも神に打ち明けたら、そこでもう喜びが来るから」と告げる。
喜びは、主を信じることと直結するのだ。委ねた時にもうやって来るのですね。
●30(土)
恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。 (ヨハ1・17)
これは、主イエス御降誕を「受肉」として語った中にある御言葉だ。
良い行いによって救われるしかないという「律法」の法則がモーセを通して現れたことと、対照させて語られた言葉だ。
神の恵みと真理は「何をしてもあなたを救いたい」という熱意だ。それは、神の御子を地上に降らせてしまう。それも、朽ちるべき肉体を持たせた「受肉」によって具体化させられた。恵みは、神がご自身の栄光を捨てた姿に、現れたのだ。
受肉に、既に十字架が現れていた!