2018年04月30日

『日々の聖句』2018年4月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日


短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。

2018年4月

●1(第1主日・復活祭イースター)



●2(月)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 (ヨハ3・16)

自分の行いで救いを得る方法(律法遵守)を熟知していたニコデモが、イエス様のところに来て話を聞く。それは今までに聞いたこともない話、「なによりも神様ご自身が救いたいと願っておられるのだ」という驚くような知らせ。
それも、父なる神がその代償に、独り子の命を与えて下さったのだと。
ああ、私にもこの恵みが届いている。そして気付く、私は神にどれほど愛されていたのか、と。


●3(火)
御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。  (エフェ1・17-18)

パウロは、エフェソにいる一人ひとりを想って祈るたびに、「このことを祈っているんだ」と言う。それは、「御霊が、あなたがたの心の目を開いてくださるように」と。
それは、自分を見る目じゃない。自分の腹を見る目じゃない。一八〇度振り返って、神を見上げる目。そこにこそ平安も幸いがあるから。主よ、私の心も目も開いて下さい。


●4(水)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 (マコ1・35)

多くの人を癒される忙しい日々の中で、朝一番にイエス様がなさったことは独りで「祈る」ことだった。どんなに大切だと確信している御業でも、まず父なる神の御心を聞くために、静かに神と対話されたのだ。
私も朝毎に、一日の息遣いさえ始める前に、まず神様との対話から始めよう。そこで全てが整えられると信じて、祈ることから始めよう。


●5(木)
あなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。   (2コリ6・1)

「神からいただいた恵み」ってたくさんある。祈って快復させていただいた健康。能力や、出会いも全て恵み。何よりも、神と子とされたことが一番!
 でも、それを「無駄にする」とは、何かな? きっと「ああ感謝」で、そこで終わってしまうこと。自分の手元だけで握って、そこで止めてしまうこと。受けた恵みを、自分のためだけのものにして囲い込むこと。ああ今日は、受けた恵みを、人のために用いたい。


●6(金)
(イエスは)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 (ヘブ2・18)

イエス様が受けられた試練は、周り中から嘲られ、自分の弟子にさえ裏切られ、家族にさえ見捨てられ、唾棄されたこと。罪がないのに犯罪人として十字架に掛けられたこと。私たちが受ける全ての苦しみ、辛さ、憤懣を、この方はお一人で全てなめられたのだ。
だから、私のどん底にも、その苦しみを知る主が共におられるって、信じます。


●7(土)
愛は自慢せず、高ぶらない。 (1コリ13・4)

「愛の賛歌」と呼ばれている、結婚式の時によく読まれる長い御言葉の一節だ。いや夫婦だけでなく、隣人と生きる以外にない私どもが、どう生きるなら「愛の人」になれるのかを細かく教える箇所だ。
そのいずれもが(自慢しないことも、高ぶらないことも)、人の上に自分を置かないこと。心も魂も体も「私はあなたの下に立ちたい」ということ。徹底的に頭を下げて、ひざまずくこと。
あ、それはイエス様の御姿だったと気付かされた。御跡に従って一歩ずつ歩こう。


●8(日・第2主日)



●9(月)
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。     (ルカ8・25)

湖に漕ぎ出す弟子たちを、嵐が襲った。その波と風を見て震えあがる彼ら。「もう死んでしまう!」と。その船にはイエス様が一緒に乗っておられるのに…。
その時、主が嘆かれたのだ「どうして私を信じないのか、信仰はどこにあるのか」と。主を見ず、自分だけを見ているところに恐れが忍び寄るのに。
「主は共におられる」と言いながら、周りの波風ばかりを見て恐れる私。ああ、我も信仰無き一人なり。


●10(火)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。     (1コリ6・11)

生活の中で、神様が「そっちに行くな」と言われた道を行ってしまうことがある。それは、人を悪くいうこと、奪うこと、不義を行うことなど…、正直に数えたらキリがない。
今朝御言葉は、そんな私を捕まえて「あなたは洗礼を受けた者じゃないか、神の子とされてしまっているんじゃないか。だからそこに戻っておいで、ふさわしく歩けるはずだから」と呼び戻してくれる。


●11 (水)
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。         (マタ7・12)

これはイエス様が「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる」と言われた教えの結論部分だ。
つまり、自分がして欲しいと求めることがハッキリする時は、人にしてあげることがハッキリする時なんだ。愛して欲しいと思う時、謝罪して欲しいと思う時、それは自分がすべき時。私たちが探して見つけるべきことは、「人に何をしてあげるのか」だった。ずっと「あなたが私にして欲しいこと」ばかり主張して来たかも知れない。


●12(木)
(イエス)「立って、真ん中に出なさい」と言われた。  (ルカ6・8)

ある男が、ずっと長い間、手が萎えたままでいた。それは、自分で食事もできず、仕事も持てず、だから生きるための収入さえ無いということ。その悲しみを抱えた男にイエス様が呼びかける「神の業をするから、その“真ん中”に立ちなさい」と。
その日は安息日だったから、禁止されている癒しの行為なのに、「神の御業の真ん中に立て。あなたを悲しみから解放したいから」と呼びかけられた。
主は、私どもを救うためなら、恐れも躊躇もない。何でもなさって下さるのだ。


●13 (金)
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 (黙21・6)

神様が「渇いている者がいないか、きっといるだろ。私が水を飲ませてあげるから、傍においで」と招かれる。
その呼び掛けに触れて、初めてのように気付くことがある、「あ、私は渇いていたのかも。だから生活が不満に満ちて、愚痴が出て、いつもイライラしていて、何かに焦っていた。そうだ、水が必要なのは、私自身だったのかも」と。
今日、御前にひざまずこう。私を生かす「命の水」をいただくために。


●14(土)
もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 (ガラ1・10)

使徒パウロは、自分の立ち位置をハッキリ宣言して「人の気に入ろうとする場所に立たない」と言った。実はそこが、人を罪へと引き込む場所だから。
そこに立つから、神様から離れる戸口が開くのだ。他人の目を見て、自分がどう見られているのかにあくせくして、ついには神を見ることから離れる場所なのに。
それにしても、人に気に入ろうとしてあくせくしているのは、まさに私なり。


●15 (日・第3主日)



●16(月)
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。     (ガラ3・26)

パウロが伝えた『信仰義認』の核心を、ローマ書と共に明快に語る御言葉の一つだ。誰でも、いや罪人さえ(それは私でさえ)、「イエスさま〜」と信じて手を差し出すだけで、救い主がその手をしっかりと握って下さり、神の子どもたちの中に招き入れて下さるのだ。
そのために御父の求めた条件は、御子が代わりに、全部満たして下さった。ゆえに私に求められる条件は、「主よ、私の神よ」と手を伸ばすだけでいい。


●17 (火)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 (1テサ5・16‐18)

パウロが、テサロニケ教会の一人ひとりを思い浮かべて手紙の結語に「皆、平和に過ごすんだよ。励まし合って、助け合うんだよ」と語りつつ、その生活の奥義がコレだとの思いで書き留めた言葉だ。
私どもの多くの兄姉が、「この御言葉が愛唱聖句です」と言われる。
それはひょっとしたら、憧れを感じる御言葉なのだけれど、自分の生活では未達成だからかも。しかし尚つかみ取りたいから、いつも心の中で響いているのかも。


●18(水)
あなたが信じたとおりになるように。      (マタ8・13)

ユダヤの民が、神など信じない輩だと烙印を押していた異邦人が、イエス様に「私の僕が家で苦しんでます。今この場でひと言『治れ』と言って下されば癒されます」と願い出た。その百人隊長に信仰の確かさを見られたイエス様が「あなたの信仰の通りに実現する」と言われたのだ。
願いの実現は、主が御心を起こす力を信じることと直結している。信じ切る信仰が、私にあるだろうか?信じてはいる、でも信じ切って、故に主に従う生活をしているか?ご利益信仰になっていないか!


●19 (木)
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 (マタ26・56)

イエス様を捕えようと大祭司の手下達が群がる。そのとき弟子たちは恐くなって、関わっていたら自分に害が及ぶと、保身でイエス様から一歩離れた。その足はもう止まらない。そのまま二歩、三歩、ついに逃げ出した。見捨てることになるのに。
私も世の中で「クリスチャンですと言ったら面倒になるかも」と思う時、御傍を離れているのかも。そこでイエス様を見捨てていることになるのに。逃げ去る背中を、主はどんな思いで見詰められるのか。


●20(金)
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。     (マタ10・30‐31)

「人を恐れるな」と、イエス様が話し出された結語部分が、この個所だ。
しかし人はどうしていつも他人の目を気にし、気に入られようとあくせくして、結局人を恐れるのか。きっと、「自分を守るのは自分だけ」と焦っているからかも。
そこに主は宣言される「あなたは私が守っている。髪の毛一本までもだ。だからその私を見て、心配しないで歩め」と。
あっ、安心の在り所を見つけた!


●21 (土)
一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。    (2コリ4・17)

艱難は、労も老も病も死も含めた「外側の姿が衰えていく」こと。でも御言葉は「内なる人は日々新たにされていきます」と告げる。人は、そこで練られて豊かになり、そしてとうとう神様からの永遠の生命に輝く私とされるのだ。
地上の歩みは練られて、ついに天の栄光と一つとなる。今日の一歩が、たとえ辛くとも、目的地が分かっていたら、一歩進めると思えた。


●22(日・第4主日)



●23 (月)
自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    (ロマ12・19)

悪に負けるな!との戒めの中心に在るこがこの御言葉。悪というのは、自分で復讐しようとする時に起こる心(怒り、憎しみ、恨み、軽蔑心、罵り…)と行為(罵倒、意地悪、中傷、暴力、剣…)の全てだからだ。それらは、必ずどれもが「私の過ちと罪」となる。そこで神の怒りが、私自身にも向いてくるのかも知れないのに。
そう思ったら、ハッと気づいた。私のすべきことは、復讐ではなく「それでもなお善を生きること」と分かったから。私は人を見ず、神だけを見て歩めばいいのだ。

●24(火)
よろしい。清くなれ。   (マコ1・41)

重い皮膚病の人が、イエス様の前にひざまずいた。癒して欲しくって…。当時この病になると、汚れた罪人として家からも村からも追放された。だから、癒されたいとの思いは激烈だったはず。
それなら私だったら「主よ、助けて! 癒して!」と叫んだはずなのに。この男は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言っていた。主は、その信仰に「よろしい」と言われたのだ。
委ねる人に、主は「よろしい」と言って下さる。私の祈りも今日から変えよう。


●25 (水)
あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。   (ルカ10・41‐42)

一生懸命イエス様を接待するマルタ。でもそんな彼女に主が「その姿が、心乱れているのだ。私がして欲しいことは、私の言葉を聴くことなのに。どうして私の傍にいてくれないのか。どうして台所に立つのか。恵みの場にいないのか」と嘆かれる。
私たちはなぜか「マルタも必要なんだ」と、マルタに肩入れしたくなる。でも、そこが間違い信仰生活への入り口なのに。主の促しを聞き流す自己流の行いなのに。


●26(木)
本当に、この人は神の子だった。      (マコ15・39)

十字架の上でイエス様が息を引き取られたのを目撃した百人隊長が呟いたのが、この信仰告白。勝利の姿を見たのではない。無残な敗北のようにしか見えない十字架の死なのに…。しかも信仰教育などされていなかった異邦の民が、イエス様の隠された真の姿を見抜けただなんて。
「信仰なら知っている、教理なら分かっている」と思って信仰者面をしている私こそ、何も見えていないのかも。何も見ていないのかも。「私にも、信仰を日々新しく与えて下さい」と祈るばかりだ。


●27 (金)
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。  (マタ18・14)

「小さい者」とは、自分勝手な事をして迷子になった一匹の羊。「滅びることは御心ではない」とは、他の九九匹を放置してまで、身勝手な一匹を救いに行くこと。
私は、自己中心な一匹の羊だろうか。それともそんな一匹のために我々を危険にさらすのかと憤慨する九九匹のほうだろうか。いずれにしても、どちらも神の御心の中に捉えられている。どちらも神の宝。神が守って下さる羊なんだ。


●28(土)
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。    (ロマ9・20)

直前の「神は憐れみたいと思う者を憐れむ」との言葉を聞いた時に、人に起こるあらゆる呟き(「そんなこと言われたら、私は憐れみを受けられるの? あの悪人はどうなの!」)に、一喝が入る。「神がなさることに口答えするのか」と。
神の御心の上に人間が君臨しようとする思いに気付かされて、そして知る。神が憐れもうとする人は、私を含めて全ての隣人に及ぶ広さ、高さ、深さを。
口答えの心さえ恥ずかしい。私の口に「然り、感謝」の言葉だけを与えたまえ。


●29 (日・第5主日)



●30(月・祝日)
悪い言葉を一切口にしてはなりません。     (エフェ4・29)

「悪い言葉」というのは、単に悪口とか嘲りとかだけではない。聞く人に恵みにならない言葉、相手を上から押さえ付ける言、必要でない時なのに言い放ってしまう言葉。自分が言いたいだけ言う言葉。
これでは、何も言えなくなる気がする。
否、聖書は続けて「語れ」と告げる。それは、自分の思いや考えや正義感から語るのではない。それらをむしろ全部捨てて、100%聞き手のために心を尽くした言葉だ。私にはその心が欠けていたのかも知れない。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:49| 『日々の聖句』