2018年03月11日

説教 『言葉に責任を問われる』

2018年3月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章33〜37節
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」


 主は「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」と言われました。イエス様から見たら「口は悪いが、根はいい人」という人間など存在しないのです。それだけではなく、36節、「人は自分の話したつまらない言葉についても、すべて裁きの日には責任を問われる」とおっしゃったのです。

 私どもはきっと誰もが、他者を生かす言葉を語りたいと願っているはずです。そういう私どもなのに、なぜか口から出てくる言葉が「悪いもの」であるのを経験してしまう。その言葉で、人を傷つけるということも。その傷を受けた人は、その傷の痛みを忘れられないんです。言葉は心の奥に染み込むからです。だから口から出た言葉は怖いんです。アッと思った時はもう遅い。そして大抵、償えないのです。それを悲しいことに一番してしまうのは、愛する家族に対してではありませんか。人は皆どうして、こんな風に「ありたくない自分」を生きてしまうんでしょう。「できるなら、あの瞬間をもう一度やり直したい」と思うことをたくさん抱えて、「御免ね」と思いながら生きているのです。

 イエス様は私どもをジッと見詰めつつ仰います、「人を傷つけた者よ、その言葉は口から出ようが、心に秘めようが、あなたそのものなのだ。そのゆえにあなたは罪の者なのだ」と。そして「神に責任を問われるぞ」と。御言葉を前にして、うろたえる思いが致します。

 私どもは今、受難節の日々の中にいます。そのことを想う時、改めてハッとします。「言葉に責任を問われる」と言われたイエス様が、その責任を、私どもの代わりに引き受けて下さったイエス様だからです。責任と取るための償いをしたのは、イエス様御自身だったのです。私が罪の者で、私が責任を問われなきゃならないのに、私の罪の償いをするためにイエス様は命を差し出されたのです。群衆を前にしてイエス様が「責任を問われる」とおっしゃったその瞬間、イエス様の御心には、「そうだ、確かに責任を取ろう。あなたがたの身代わりに、私が自身が」と決意しておられたのではありませんか。それは、そこで私の、あなたの、「救い主キリスト」となって下さるためにです。

 もしも「私は罪の者ではない」と言うのなら、救いとは一切関り無くなります。十字架の恵みが、あなたを素通りするからです。しかし、「私はどうしようもない罪の者でした。私の言葉も、私の心も」と、小さな声でも言えるのなら、そのあなたの横に、あなたのための救い主が立っていて下さるのです。そのイエス様が「もうあなたの罪は、私が償ったから、安心して行きなさい」と宣言して下さるのを聞けるのです。
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