2017年12月24日

クリスマス礼拝説教 『言は肉となって、宿られた』

2017年12月24日(クリスマス)礼拝
相模原教会牧師 辻川篤

ヨハネによる福音書1章14〜18節
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


 ヨハネ福音書の降誕の御言葉は、天使もマリアも登場しません。この最も短い降誕の御言葉は「告白」だった。そう気付かされたら、単に「神の御子は人間となった」と言えば済むことなのに、敢えて「言は肉となった」と告げた単語の選び方に、そもそも伝えたい思いが込められているのかも知れないと思えたのです。

 ギュツラフ訳聖書は、今でも多くの神学者たちから、高い評価を得ている日本語訳です。漁師たちが生活で使っていた庶民の心にある日本語だからです。そのヨハネ福音書1章1節は、あまりにも有名な訳です。新共同訳では「初めに言があった」とある箇所を、こう訳したのです「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」と。「ワシらにとっては近寄りがたい、勿体ない賢さそのものという方が、世界の全てに先立っておられたのだ」という事です。その「言」というのが、今朝の14節にある「言」と同じ単語なのです。だからギュツラフたちは、「言は肉となった」を「カシコイモノワ ニンゲンニ ナラアタ」と、「天のおられるべき やんごとなき賢きお方が、人間になられた」と、それが神の御子の降誕の意味であったのだと聞き取ったのです。

 これは単に、「人間に変えられた」という風に聞いてはいけません。聖書で「肉」という言葉が使われる時、それは「欲」という言葉と引っ付く。つまり欲と同類だということです。過ちを犯して、息苦しい自分に転がり落ちて行くのに、それでも止められない、なお落ち込んで行く闇の姿が「肉」なのです。それは、その故に「罪」と逃れ難く引っ付いている言葉なのです。改めて、エッと驚かずにはいられません。神であられる方が、「欲と罪」の入れ物でしかない「肉」に、ご自身もなられたということだからです。イエス様は、欲と罪と、過ちと弱さと、涙と後悔と、そんなものが混ざっている坩堝の中にはまり込むために、天から落ちて来られたと言うのです。その坩堝の中で、ご自分も泥まみれになられるのだと、分かっていてもです。

 本当にイエス様は、あらゆる理不尽を受けて、暴力を受けて、屈辱まみれにされて、誰からも理解されず、罪人の頭のように十字架に掛けられて殺されてしまわれるのではないですか。泥まみれになられたのではないですか。それなのにイエス様は、その「肉」の中心目掛けて降って来られたのです。罪の巣窟の中に入り込んで来られたのです。それが、「言は肉となった」という御言葉の意味であったのです。神が、神であられる身を捨てて、肉の在り様しかできない私どもと一つとなるために、天より降って下さった。その「肉」の只中で、あなたの救い主となられるためだったのです。
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